竜の本心
* * *
その後は母屋の人を起こして警察を呼び、事情聴取やらで慌ただしくしているうちに、空は白み始めました。
外国人に見えるイニュリアスさんと夜蓋さんは当初、お巡りさんたちに胡散臭げな顔をされていましたが、それは既に払拭されています。「どこの国のヒト?」と聞かれたイニュリアスさんが翼を現わして「人ではなく竜です」と本当のことを答えると、お巡りさんたちは急に背筋を伸ばして「ご協力ありがとうございます」と敬礼しました。
彼等がここを撤収した後にはその記憶から僕達のことは消えて、泥棒はたまたま起きていた家主さんが捕まえたことにでもなるのでしょう。
竜は、やっぱり、ちょっと寂しげな顔をしていました。
「そろそろ答え合わせをしましょうか。リッカさん」
蔵の傍で夜蓋さんの聴取が終わるのを待っている僕に、イニュリアスさんから声がかかります。
「良いですよ」
「ではあらためて。私は何故、鱗の色を隠したのでしょう?」
再び口に出された課題に僕は答えました。
「イニュリアスさんが、雲母様と会った竜ではないから」
今は虹彩も黒いため分かりにくいのですが、竜の瞳孔に特段動きはありませんでした。驚いて、いない。意外だとか、奇妙だとかの感情は見えません。その反応から、僕の答えが的外れではないと感じ取ります。
「正解ですか?」
「その判断には途中式の評価も必要ですね。どうしてそうお考えになったのか、お聞かせください」
「えーと。最初は雲母様と会った『鳥』がイニュリアスさんで、彼に正体を明かせない理由を考えろって課題なのかと思いました。でも、違和感があって」
僕の耳に、肋骨の地を擦る音が届きます。
こちらへやってくる夜蓋さんに、僕は学校の生徒のように片手を上げました。
「夜蓋さん、質問です。イニュリアスさんはお客様の思い出を勝手に教材にしちゃう系ドラゴンさんですか?」
「しない系ドラゴンさんだな」
夜蓋さんからしてみれば突然の質問でしたでしょうに、迷わずの返答でした。本当に話の早い御方です。僕は「ほらね」という気分でドラゴンさんへと向き直ります。
「というわけで、イニュリアスさんは雲母様の鳥ではないんだろうな、と予想しました」
「……その推理の仕方は、率直に照れますね……」
イニュリアスさんはくすぐったそうに髪へ手櫛を入れました。
「しかし、リッカさん。雲母の君と私が見ず知らずの他人であるなら、それこそ何故、正体を隠す必要があるのです?」
「それは、彼を混乱させないようにですよね? 何しろこのタイミングですよ。金色のドラゴンなんて現れたら、たとえ竜本人に否定されたって、『この化生こそが自分の会った鳥なんじゃないか?』と疑わずにいられないでしょう」
麒麟の面差しの鳥と聞いて、僕はイニュリアスさんの姿を結びつけました。ドラゴン姿のイニュリアスさんを見た雲母様も、すぐに金色の竜はいるのかと訊ねていました。
「たとえば僕の親族には問題児過ぎる傍若無人のクソ野郎がおりますが、ヤツと違う顔で同じ声をした人間に出会ったら、その人がどんなに人違いだと言っても、絶対に不審を捨てられません。それの完全な親愛バージョンでしょう? そんなの、しんどいに決まってます」
灯火通りの店主には、お客様を守る責務がある。
「だからイニュリアスさんは、雲母様のために姿を変えたのではありませんか」
これが僕の回答です。自信は、そこそこありました。
竜の眼がにこりと満足気に笑みます。
イニュリアスさんは、生徒を褒める先生の調子で「よくできました」と言いました。
「ほぼ正解です」
「ほぼ、ですか」
「雲母の君を惑わせないため、という目的は合っています。けれど彼の思い違いを防ぐだけなら、私が少し詳しく自己紹介すれば済む話なのです。先ほど雲母様に申し上げた言葉は真実ですよ。有翼のドラゴンが十一世紀の京にいたはずがありません」
「西洋の竜だから? でもイニュリアスさん、ジェット機並みに飛べますよね」
「はい。文化圏の距離とは別の理由です。……これ以上推理させるのは、リッカさんには難問が過ぎましょうか?」
イニュリアスさんは夜蓋さんに問いかけました。夜蓋さんもまた、子供を支える教師のように僕へ言います。
「考えられるところまでは考えてみるといい。知識は他者から汲むのも良い水だが、知恵は己で磨いてこその玉だろう」
どこから出て来るんですかその言い回し。と、感心する僕の目の前に、前夜と同様にイニュリアスさんの顔が迫りました。
「では、リッカさん。第二問です。何故私は、かの書に記された鳥たり得ないのでしょう?」
「……質問しても良いですか?」
「もちろん」
「僕には難問、ということは、簡単に答えられる人もいるんですね」
「はい。もし夜蓋が相手なら問いにもなりません」
「それは夜蓋さんがあやかしだからですか」
「いいえ。人間でも解ける人には解けるでしょう。あやかしに対して認識や記憶が歪むことは度外視で、という条件は付きますが」
「記憶……。人間は竜を忘れてしまうから、いなかった扱いになる、とか?」
「ノーです。十一世紀ならば、どこの土地でも、私の姿を記憶に留められる人は十分に居たはずですよ」
「『はず』? イニュリアスさん、昔は人間とあまり交流されていなかったんですか」
「それは」
視線が泳ぎました。黒い虹彩が、左、右、と行き来してから、正面へ戻ってきます。
「口が滑りましたね。答えは「はい」です。私は十一世紀の人間とは会っていません」
「ではどこで何をされていたんですか?」
「どこにもおりませんでした」
白旗を上げるようにすっきりと言われました。
二千歳だというイニュリアスさんが、およそ千年前に、どこにもいなかった。
僕はあやかしさんの年齢について考えます。あの雛人形のお嬢さんたちは、付喪神となってから何年経っているのでしょうか。百年前に打たれた刀が今朝方に付喪神となったとして、鞘も払えぬ新生児の様相に生まれるはずがありましょうか。
身体が生成された年代も、自我を得た時期も、あやかしの『年齢』と一致するとは限らない。
もしそれが付喪神に限った話でないのなら──
「あなたは二千歳という『設定』みたいなものを持って、割と最近に生まれた竜ですか」
「大正解!」
イニュリアスさんは破顔して、大袈裟なくらいに高らかに言いました。
「ええ、そのとおりです。竜の起源は紀元前にまで遡りますが、この羽、この角、この爪は、神話の時代に授かったものではありません。私がこの世に現れたのはたった十九年前のことですよ。……夜蓋、この先の釣瓶はあなたに託しても?」
解説を任せたい、という意味のことを言われて、夜蓋さんがその先を引き継ぎました。
「ドラゴンの語源とされる古代ギリシャ語の「ドラコーン」は、蛇や水生生物、それに類する怪物を示す言葉だ。彼らには基本的に翼はないか、あっても鳥の翼をしている」
夜蓋さんの顎が、自分の舌先を噛み切ったような動きをしました。ふぅー、と息が吐かれると、血の香の代わりに蜃気楼が漂い出します。浮かび上がったのは単に大きな蛇を描いた壁画や、波間に覗く巨大な鰭の絵画でした。
続けて、イニュリアスさんに近いフォルムの、しかし顔が不気味でいかにもモンスター感のある『ドラゴン』の絵が現れます。
「ドラゴンが皮膜の翼を持ち始めたのは十三世紀頃かららしい。だが、まだ前脚は無いことが多く、サイズも大型犬から馬ほど、要は人間でも問題なく倒せる程度に留まる。ほとんどは『悪』や『脅威』の象徴であって人間と共存するようなものではないな。イニュアのようなドラゴンが世に広まったのは、ごく近代。大衆文化の発展華々しきここ数十年のことだ」
夜蓋さんがもう一息、蜃気楼を吐きます。
そこに映ったのは何かのゲームのポスターで、巨大なドラゴンが青年に頭を垂れていました。
「皆様が多くの物語と共に育んだ『強く優しいドラゴン』の幻想が、太古の骨と金脈に宿って生まれたのが、私なのですよ」
イニュリアスさんが蜃気楼に映された同族の鼻先をくすぐるように空を撫でます。幻は、ふんわりと溶けてゆきました。
「正直に申し上げれば、二千歳というのもかなり大雑把な自称です。私の記憶には歴史考証や地理考証のおかしな点が多い。西から東に飛んでいたはずなのに背後から夜が明けたこともあるくらいですから」
そう語る彼の後ろで空がぐんと明るさを増します。日が昇ろうとしていました。
僕は、あれ?、と疑問を覚えます。
「じゃあ結局、どうしてイニュリアスさんは姿を変えたんですか?」
本人が「自己紹介すれば良い」と言っていた通り、誤解を避けるだけなら、僕に今してくれた話を雲母様にもお伝えすれば問題ないように思えます。
イニュリアスさんは、口の端を悪そうに吊り上げました。
「だって、妬けてしまうではありませんか」
「やける?」
「千年の時を超えて書き遺された鳥が、私は羨ましい。その正体が貴人でも、あやかしでも、書き手の抱いた空想に過ぎなかったとしてもです。もし一瞬でも雲母の君が私に彼の梔子色を重ね見たなら、「お久しぶりです」とでも囀りたくなるほどに」
竜の手が首に提げたカメラに触れて、彼の滑らかな頬に朝日が差します。
「未熟でお恥ずかしいことですが、この羨望を鎮めるために私は夜蓋を頼りました。被写体に要らぬ嘘など吹き込んでは、二度と写真屋とは名乗れませんから」
射干玉のような黒髪を、それでも陽光はきらきらと照らしました。
* * *
日向に引き出されたフィルムが、一瞬で燃え上がります。
炎は金でも黒でもなく虹色にゆらめき、そこから次々に写真が舞い出てきました。実体のない写真です。それゆえに、付喪も幽霊も、それを手に持って見ることができました。
「写ってる、写ってる」
「オレらみたいな物の怪を、上手に撮れるもんだなぁ」
付喪神さんたちが盛り上がる中、イニュリアスさんは最後に現像された最初の一枚、皆様の集合写真を雲母様に差し出します。
「どうぞ、ご覧ください」
「おぉ……」
雲母様は写真を受け取り、その表面を撫で、そこに映されたご自分達を眺めました。
「記憶が形になって残るというのは、なかなかに、嬉しいものだな」
しみじみと言う彼の前で、墨染の竜は誇らしげに笑みました。




