たまのい
「クチナシ色に輝く……」
僕は黄金の本性を持つイニュリアスさんを見ました。
彼は表情を変えず、黒く染めた眼で雲母様の横顔を見ています。
西洋の竜は東洋の龍と違って立派な両翼を持ちます。その姿を平安時代のこの国の人間が見たのなら、単なる『龍』とは違う表現をするかも知れません、ね。
「雲母さま。麒麟の面差しというなら、あなたは角や鱗のある『鳥』とお会いになったんですか?」
「まぁ」
傍に居た十二単の女性が、扇で隠した口元から、含みのある声で呟きました。
「言の葉を直なりに聞く若者だこと」
……今、軽く馬鹿にされました?
しかし具体的に何を揶揄されたか分からないので、実際に僕は愚かなようです。不愉快ですが、ここは化生屋さんではなく写真屋さんのお取引先。嫌味に嫌味で返すかどうか迷ってしまいます。
と、剥き出しの尾骨が女性の前に差し出されました。
「龍と見違えられし私の助手だ。麒麟と聞けば麒麟と思うことも、当然と言えよう」
「あら……」
女性が気まずそうに扇を目元まで上げて言いました。
「では、水脈の君。あなたはあの書き物をどう読まれるの?」
夜蓋さんは彼女には答えず僕を見ました。その仕草ひとつで、彼女に聞かれたからでなく、僕へ教えるために話すのだと伝えられます。僕は彼の視線に「聞きたいです」と答えました。
「麒麟や鳳凰は良き世に現れる瑞獣で、転じて治世を成す尊い身分の象徴。梔子は『口が無い』に掛けて沈黙を示すもの。また、梔子色に朝という要素が加わるなら他の意味も取れる。律令細則によれば梔子色は梔子だけでなく紅花も使って染めるものであり、この染料の比率を変えると黄丹という色になる。黄丹は朝日を象徴し、今もなお皇太子のみに許される禁色だ」
それらから考えれば、と夜蓋さんは書の意味を解きました。
「『とても誰とは申せぬほど尊い身分の御方が、別れを惜しんで私を訪ねてくださった』……といったところか」
「それが、本当のことなんですか?」
僕は雲母様に問いました。
雅な幽霊は、頷いたのか、首を傾げたのか、とても微妙な角度で首を斜めにします。
「さて。はるか昔のことゆえ」
* * *
窓を開けると、火照った頬と喉の鱗に、涼風が心地よく触れました。
宴の熱に当てられ、少し休んでおいでと送り出された蔵の二階は、打って変わって静かです。御殿の幻もここには届かず、下階からのざわめきは妙に遠く響いてきます。
十分に頬の熱を覚ますと今度は少し寒さを感じて、僕は室内へと顔を向けました。
部屋の中央では火鉢が淡く灯っています。一見すると火の番も置かずに不用心ですが、近寄ってみれば、鉢の中で光っているのは黒い紙に朱墨で書かれた『炭火』の字でした。
添えられていた火箸で炭火の概念をつつき、よく分からないが温いことには違いないと納得し、僕は階段の方へ声をかけます。
「そこは寒いでしょう。こちらへどうぞ」
階段の奥から、烏帽子の先が見えてるんですよねぇ。
「気付かれていたか」
雲母様はすこしバツが悪そうに上がって来ます。誘っておいて何ですが幽霊は寒さや暑さを感じるのでしょうか。こちらへ来ても立ち尽くしたまま、火鉢の傍へ座ろうとはしない彼に、僕は「どうされました」と訊ねます。
彼はためらうようにしてから。
「そなたに聞いてほしい心がある」
潜めた声で言いました。
「私の門出と祝ってくれる皆に話すのは気が引ける。真を写すという写真屋に明かすのは気が乗らぬ。龍に似た御方に語るのは気後れする。だが己の胸にだけ留めておくには、あまりに苦しい心なのだ」
「そうですか。僕を手ごろな枯れ井戸扱いしたらウワバミがブチ切れますよ」
我ながら辛辣。
雲母様がぎょっとされました。たじろいで、視線を泳がせ、しかし数秒もすると潔く僕に向き合って言います。
「あぁ、いや……。すまない。たしかに今の言い草は、つまらぬ言葉を捨てるには丁度良いと、そなたを軽んじていたな」
「こちらこそすみません、夜蓋さんがブチ切れるというのは嘘です。お詫びにどんな話でもお聞きしますよ」
僕がにっこり笑いますと、雲母様の顔が三秒ほど間を置いてから苦笑して、額に垂れこめていた湿気が少し晴れました。彼は「してやられたな」と呟き、火鉢の近くへ座ります。
そして僕は、雲母様の半透明な姿を素通しにして、その向こうの階段口を見ました。
暗がりに身を沈めてこちらの様子を覗っていた夜蓋さんは、何も言わずに戻っていかれました。
雲母様は炭火の字を見下ろしています。黒い紙の端が、炭の崩れるように割れました。
「我が書は、新しい持ち主へ譲られる。相手は京に住んでいるそうだ。私はついに、あの地へ戻るらしい」
「それはおめでとうございます」
「あぁ……。だが、私はあの地に帰るのが、すこし恐ろしくもある。幽鬼の身となってから長い長い時が過ぎた。そなたは「本当のことか」と問うたが、それは私にも分からぬのだ。忘れまいと綴っておきながら、私はもはや、鳥に喩えしどなたかの御姿すら覚えておらぬ。あるいは鳥など端からおらず、すべては私の妄想に過ぎぬのかも知れぬ」
彼は自分の手を見下ろしました。半透明の指先には寒さに赤らむ血の気はありません。不意にその指が、彼の顔が、干からびるように急激に老いて痩せ落ちます。
「京へ帰れば記憶も戻るのではと、その一心で此の世に留まってきたが……。帰ることを恐れている己もいるのだ。もし何も変わらなかったら、とな。記憶が戻らず、唯一の希望をなくしたら、私はどうなる? 我を我とも知れぬ幽鬼となり果てるか。それとも、ただ枯れ落ちて消えるのか」
ご老人の声は重苦しく、また寂しげに、火鉢の影へと沈んでいきました。
なんというか、アレですね。
たかが十六歳の若造に吐露するには、痛ましい話ではありませんか。
僕は困ってしまいます。悩んでしまいます。雲母様が聞いてほしいだけだとしても、聞かされたら何かしら返したくなるのが人情です。感情の一部が麻痺したからといって僕はサイコパスではありません。頭を捻って考えます。僕にできること。できることは。
共感、くらいでしょうか。
嘘でも良いのなら。
「誰でも、狂うのも死ぬのも、怖いですよね」
僕は何でもないことみたいに言いました。
「死ぬ? しかし私はもう」
「幽霊だろうがゾンビだろうが自我があるなら生きてるらしいですよ」
雲母様が僕の顔を見つめます。どれほど見ても、そこには作った笑顔以外は何もないです。でも、だからこそ。何にもないところには、見たいものが浮かぶでしょう。
「あぁ」
雲母様の、かつて筆を取った手が、火鉢に翳されます。老いた姿がまだ若々しいそれに戻りました。
「ついに彼の岸へ渡る時が来た。それだけのことか」
深く息を吐くようにおっしゃった声に、僕は「さぁ?」とわざと軽い返事をしました。
「むしろ生き返った気分になるかも知れませんよ。あなたが知らない名所も増えてるでしょうし。京都タワーとか」
「タワーか。聞いたことがあるぞ。夜は光に照らされて大きな蝋燭のようだと。それは本当なのか?」
「見たこと無いので分かりません」
「ほう。今世のそなたがまだ見ぬものを、亡霊の私が先んじて眼にできるとはな」
「……帰りに京都寄ってもらおうかな」
「勝気なことだ」
うん、と半透明な鳩尾に活力を入れて、雲母様が立ち上がります。
「主役があまり長く席を外してはいけないな。私は宴に戻るとしよう。話を聞いてくれたこと、感謝するぞ。たまのいの君よ」
何やら趣きのあるアダ名をいただきました。どういう意味なのかも、どういう字を書くのかも分かりませんでしたけれど。
お呼び止めして教えていただくのも不粋でしょうかと見送っていると、直衣を着た彼の背が、不意に掻き消えます。
「雲母様?」
呼びかけに応じる声はありません。幽霊なら忽然と姿を消すくらいできるでしょうが、情緒のない消え方は雲母様の意思とも思えませんでした。それに、階下から響いていた宴の音もぷっつり途絶えて静まり返っています。反射的に澄ませた耳に、重い戸がぎしりと開かれた気配が届きました。
誰かが蔵に入って来た?
そう思った数秒後。
「んん?」
足元に熱を感じました。
地獄の釜の蓋が開くって、きっとこんな感じでしょう。すぐ真下にマグマ煮え滾る火口でもあるかのようでした。熱のわりに眼や唇が乾いてくる感じがないのでたぶん幻覚ですが。
階段の方を見ると、再び這い登ってきた夜蓋さんと目が合います。僕は多少予想をしつつも訊ねました。
「何事ですか?」
「招かれざる客が、イニュアを怒らせた」
* * *
大きな爬虫類の眼が、燃えています。
墨よりも黒い炎が眼の縁から迸り、空気を焦がして揺らめいています。黒色に化ける前なら、眼が潰れるほど豪奢に輝く炎だったことでしょう。
象ほどの体格になった竜は、鉤爪の鋭い手に獲物を掴んでいました。捕らわれているのは黒い服に黒い帽子に黒いマスクという格好の男です。彼は悲鳴すら上げられず、ひ、ひ、と短い呼吸だけ繰り返しています。
床には同じような服装をした男が二人倒れていて、周囲には大きなバッグと懐中電灯が転がっています。
どう見ても泥棒団でした。
夜蓋さんが、泥棒自身が持ち込んだのでしょうビニール紐で気絶している男達の手足を縛り、苦しくはなさそうな体勢で床に横たえてあげます。
「ところでリッカ」
「はい」
「ブチ切れた方が良かったか?」
「いらないです」
「そうか」
「ところで夜蓋さん」
「なんだ?」
「『たまのい』って何かご存知ですか?」
「『たま』とは宝玉の玉で、良きもの、美しいものを表す美称だ」
「わかった。『玉の井』、きれいな井戸のことですね」
「井戸ならば水の豊かなことも肝要だな」
なんて間の抜けた会話をしているうちに、夜蓋さんの後ろのほうで、棚の影に隠れていた三人官女のお一人が顔を出しました。しかし燃え盛るイニュリアスさんを見ると「ひっ」とまた隠れてしまいます。ああ、これはダメだ。
「そしてイニュリアスさんはブチ切れていらっしゃる」
「えぇ。大変に不愉快です」
地鳴りのように低い声で竜は言いました。
「骨董屋の杞憂であれば良かったのですが……。まったく、よくも盗みなど」
「もしかして用心棒も兼ねてたんですか?」
「仕事として請け負うことはありませんけれど、体質的に盗人と鉢合わせればこうならざるを得ません。竜は財宝を守るモノ、でしょう?」
イニュリアスさんは泥棒に見せつけるように口を開きました。
その喉奥から黒い火の粉が舞い、鼻先を焦がされた男が、ぐるんと白目を向きます。
「おや、気絶してしまいましたか」
イニュリアスさんはつまらなそうに男を放って床へ転がしました。その眼にはいまだ炎が燃え立っています。僕は慌ててイニュリアスさんと泥棒の間に飛び出ました。無力な身ではありますが、罪人を庇って両手を広げます。
「あの、焼いたり噛んだりしないと気が済まない感じですか? 過剰防衛はちょっと寝覚めが悪いんですが」
そして何より、泥棒も丁重に寝かせるタイプであるウチの店主は、あんまり良い気がしなそうなんですが。
イニュリアスさんは牙の隙間から火の粉を漏らして笑いました。
「致しませんよ。私は現代的な竜ですから、人の罪は人の裁きに委ねましょう」
イニュリアスさんの身体が溶けて人間型に変わります。両眼がまだ燃えていて、目蓋が降ろされると、ジュッと粘膜を焼く音がしました。焦げて癒着してしまうのでは、という僕の杞憂は杞憂に終わり、イニュリアスさんが眼を開けると平常な人間の眼球が現れました。
「お騒がせして申し訳ありません」
かけられたお詫びの声に、隠れていた付喪さん達が出てきます。雲母様は、ふんわり光るエフェクトを纏って現れました。
「いや、いや、助かった。皆を代表して礼を言おう。しかしまさか、そちらの写真屋こそ、異国の竜であったとはな。……そなたの仲間に、鱗が金色の者もいるのか?」
「おりますが、はるか千年前のあなたの京には、居たはずのないものでございますよ」
二千歳の黒竜が澄ました顔で答えると、雲母様はほっとしたように「さようか」と頷きました。




