付喪神たち
* * *
そして翌日。
深夜です。
夜間飛行です。
「おおー……」
長い移動にあたり、せっかくですからとイニュリアスさんにお誘いを受けて、僕達は空飛ぶ巨竜の背に乗っていました。
高度三千メートル、飛行速度は約八百キロ。ちょこんと座ってるだけでは当然に吹っ飛ばされますので、僕と夜蓋さんの周りには風除けと転落防止用の薄い膜が張られています。結界というヤツです。おそらく気温・気圧の調節も担っているでしょう。
それでも心配なのか、夜蓋さんの胴は僕を取り囲みつつ、普段は淑やかに閉じている肋骨をパカッと開いて、イニュリアスさんの鱗に骨の先を噛み込ませていました。
竜の鱗はすでに、夜蓋さんの肉を食べて真っ黒に染まっています。
「この速さなら、あと十五分ほどで着くか」
『えぇ。そのくらいですね』
夜蓋さんに応じるイニュリアスさんの声は、数メートルも遠くにある彼の頭部からではなく、僕自身の額から響きます。猫又さんよりもテレパシー感が強い声でした。
『夜景と天体観測だけで過ごすには、少々手持ち無沙汰でしょうか? リッカさん、よろしければ、予習として質問をお受けいたしますよ』
それは助かるご提案でした。彼が写真屋として働いている最中にあれこれと口を挟むのは気が引けますから。
「イニュリアスさんは、幽霊さんが憑いている書の内容をご存知ですか?」
『はい。実物はまだ私も拝見しておりませんが、映像で見せていただきました』
「書の内容はあなたの動機に関係ありますか?」
『はい。とても深く関係しています』
「どんなことが書いてあるんですか?」
『それは着いてからのお楽しみ、というものですよ』
「じゃあ、幽霊さんがどんな方なのかは?」
『平安時代後期、およそ十一世紀の終わり頃の貴族男性だそうです。たいへん長い時を生きているお方ですね』
「……生きている?」
死者を指す『幽霊』という単語に矛盾する表現です。何かの含みがあるのか、単なる言葉の綾か。オウム返しにした僕にイニュリアスさんが答えるより早く、夜蓋さんが断言しました。
「幽霊だろうとゾンビだろうと、自我があるなら生きている」
彼は僕の手を取り、夜蓋さん自身の頸に触れさせました。そんな気はしていましたが青白い肌に脈拍はありません。
「どうだろうか」
そう囁いた時の声帯の震えだけが指に伝わってきます。呼吸も、話すためにしか使っていないようです。
「なるほど。血肉がどうでも、確かに生きていますね」
彼の皮膚の、やや冷たく、しかし硬くはない感触を確かめつつ答えました。
その後は思いつくままイニュリアスさんを質問攻めにしてみましたが、これといった手応えはなく、およそ十五分後。
僕達は古めかしげなお屋敷を見下ろしていました。
敷地は瓦のついた白壁に囲われていて、三棟ある建物のうち、母屋はやたら広い平屋です。そこから少し離れたところに、これも白い壁の大きな蔵が建っています。
イニュリアスさんは塀など意にも介すわけもなく、僕達を落とさない程度に身体を縮めながら、蔵の前に着陸しました。
まず夜蓋さんが、次いで僕が、竜の背から降ります。
「……これ不法侵入では?」
「ご安心ください。家主様の許可は頂いておりますよ」
人型になり、鴉のような黒髪と黒い眼をしたイニュリアスさんが答えます。彼が人差し指をくるりと回すと、どこからともなく現れた大きな鍵が指先に引っかかっていました。
「『ドラゴンが訪ねて来て蔵に棲み付いている幽霊の写真を撮りたいと言うので鍵を貸した』という記憶は、もう残っていないと思われますが」
ちょっぴり寂しそうに言ったイニュリアスさんは、その鍵を使って蔵の厳めしい錠をガチャリと外します。
良いのかなぁ。
重たそうな両開きの戸を軽々と開いてカメラマンは蔵に入っていきました。夜蓋さんが胴をくねらせて後に続きます。
まぁ、良いか。
僕も夜蓋さんの尾に並んで、蔵へと足を踏み入れました。
その内部はほとんど真っ暗です。
小さな窓はあるものの、方角の関係で月明かりは直接入って来ません。夜のシンとした冷気に、墨のような、埃のような、古びた香りだけが漂っています。その空気があまりに静かなので、棚や積み重なった箱の後ろからこちらを窺う何者か達の気配は、はっきりと感じ取れました。
何かがいる。けれど息を潜めるようにして出てこない。
警戒の空気に晒される中、イニュリアスさんはまたもどこからともなくカメラを取り出し、ストラップで首に提げました。商売道具を装備した黒髪の竜は堂々と名乗ります。
「骨董屋よりご紹介いただきました、写真屋でございます。皆様を画に写すべく参じました」
蔵の気配がざわめきます。僕の背後で夜蓋さんが戸を閉じると、パッと、周囲が明るくなりました。
誰か電気を点けてくださった?
眩みそうな眼をかばって手を翳しながら、僕は上を見やります。
青空が広がっていました。
薄く雲がたなびく向こうに富士山が見えました。
ここ、四国のはずなのですが。
どういうことかと目を凝らすと、山裾近くに赤い落款が見えて、それが日本画の富士であることが分かります。
「なんだ、写真屋さんか!」
快活に声を上げたのはどなたでしょう。棚から、箱から、葛籠から、ぞくぞくとあやかしさんたちが現れます。墨絵の鶏、ビスクドールのお嬢さん、短刀の青年。同じ骨董品でもジャンルは結構まぜこぜです。ひとりでに開いた屏風から金色の霞が広がり、蔵だった場所は瞬く間に平安貴族でも住んでいそうな御殿へと変わりました。
夜蓋さんの後ろで「まぁ」と声がして何かと思えば、彼を見上げる雛人形のお嬢さんたちが「なんてきれいな御仁かしら」「天女様のよう」と口々に囁き合っています。
「いやぁ、無愛想な出迎えで悪かったね」
仙人のような焼き物のお爺さんが、杖を突きながら進み出てきました。
「許しておくれな。テレビってヤツに取り上げられてから、ちょくちょく野次馬みたいな者が来るようになったもんでね。この前なんか遠縁のヤツが勝手に入って来て、皆、気が立っていたんだ」
「テレビ出演されたんですか?」
「おぉ? なんだ、坊ちゃんは何も知らずに来たのかい。蔵の骨董品を鑑定するとかって番組でね。『きららの君』の書を手元に迎えたいっていう学者さんも、その番組を見ていらっしゃったんだ。今宵は門出の宴だよ」
話の中に、何やら、かわいらしい響きの名前が出ました。
お爺さんに先導されて御殿の奥へと進みながら、僕は声を小さくして夜蓋さんに尋ねます。
「『きらら』って、鉱物の名前でしたっけか?」
「ケイ酸塩鉱物、別名を雲母……と言うより、雲母と書いて『きらら』とも読む。書に憑いた幽霊を雲母の君と呼ぶなら、紙が雲母刷りなのかも知れないな。雲母の粉と膠を使い、光沢のある模様などを刷り込む手法だ」
「つまり昔のラメ加工?」
「そのとおり」
雅さ台無しな表現はボケのつもりだったんですが、的を射たようです。真顔で頷く夜蓋さんの代わりに、油絵のご令嬢がくすりと笑ってくれました。
「雲母の君。写真屋が来たよ」
「おぉ、いらしたか」
御殿の奥へたどり着いてお爺さんが呼びかけると、歓談の輪から男性が応えて立ち上がりました。
平安や奈良時代をイメージさせるゆったりとした白い衣装の、線の細い人です。この服は何という名前でしたでしょうか。狩衣に似てますが肩口は閉じています。後で夜蓋さんに教えてもらいましょうと、頭の隅にメモを置きました。
歓迎の表情をした彼は、夜蓋さんの波打つ身体に気付くと、畏怖するように肩を引きます。
「あなたは、龍か?」
「違う」
すっぱりとした否定に、雲母様が力を抜きました。そして本当に竜であるイニュリアスさんには「そちらが写真屋か」と問います。翼をきれいに隠しているイニュリアスさんは「はい」とだけ返しました。
「うむ。さぁ、みんな、まずは一枚撮っていただこう」
今夜の主役の号令に付喪神さん達がわちゃわちゃと集まってきます。それをイニュリアスさんが慣れた手際で誘導し、全員が写れるよう並んでもらいました。整列が終わったところで、写真屋さんは皆さんから離れてカメラを構えます。レンズの穴は、よく見ると蛇の眼のように縦に裂けていました。
「撮りますよ」
三、二、一、と数えたイニュリアスさんが瞬きをします。すると、ボタンを押されたわけでもないカメラから、カシャンという小気味の良い音が鳴りました。
カウントダウンとシャッター音を数回繰り返した後、イニュリアスさんは構えを解き、「お疲れ様でした」と集合写真の撮影終了を告げます。ビスクドールのお嬢さんが待ちきれないようにぴょんと跳ねました。
「撮れた? 撮れた? きれいに撮れた?」
「はい、良く撮れたものかと存じます。私のカメラは現像に陽の光が必要ですので、仕上がりは今しばらくお待ちください」
和洋のお人形さんたちが「楽しみね」とはしゃぎます。
それからは、飲めや歌えの宴会となりました。
笛や鼓の音に優雅なものだと感心したら、お次は蓄音機からジャズやロックが流れ出します。絵画や焼き物の模様からは果物や飲み物が取り出されては振舞われました。甘い香りがするお酒の杯が僕にも回されてきて、
「飲酒は許可しない」
即座に夜蓋さんが代わって杯を取り、飲み干しました。えっ。
「夜蓋さん飲めるんですか!?」
思わず訊ねてしまいました。
灯火通りへ来てからこの数日間、僕は彼が『対価』以外を飲み食いするところを見たことありません。本人も胃がないと言っていたはずです。
「これは実体のない酒であるから飲める」
「……じゃあ僕が飲んでも良くないですか?」
「良くないが?」
空にした杯にまた酒が注がれて、夜蓋さんはそれもひと息に飲みました。
「あぁ、さすがは蛇。良い飲みぶりだ」
雲母様の楽しげな声に、シャッター音が重なります。イニュリアスさんは気配を消しながら、宴に混じって写真を撮り続けていました。もしや黒子に徹するために派手な金髪金眼を変えたのかとも一瞬だけ考えましたが、その程度ならわざわざ夜蓋さんに頼らずとも、カラコンとカツラや帽子で十分に対応できる話です。
「坊や、坊や」
悩める僕に、雲母様の隣にいた文箱の付喪さんが、酔いに赤みのさした顔で声をかけてきます。
「そろそろ写真屋に対価を払うそうだ。せっかくなら、坊やも雲母の君のお手を見せていただいてはどうだ」
「お手?」
僕の脳内で柴犬が前足を上げました。
「この場合の『手』とは、手の跡、手跡を示す」
まだ酔いが回るほどではないのか、そもそも酔わない体質なのか、夜蓋さんが普段通りの口調で補足してくれます。
「要するに筆跡のことだ」
「あぁ、なるほど」
雲母様に「僕も見たいです」と頼むと、快諾してくださいました。彼はイニュリアスさんを呼び、棚から一幅の掛け軸を取り出させます。
それが広げられると、表具されていたのは、色紙ほどの小さな書でした。
何かの文章が書かれた紙は経年で茶色を帯びつつも、薄白く花唐草の模様で優美に彩られています。その模様は光が当たる角度によってふわりと光りました。
これが雲母刷り。
ラメというよりパールに近い、想像よりずっと繊細な光沢でした。
その上に綴られた字もまた、細く、流れるようです。正直に言えば門外漢の僕にはこの時代の字の上手下手など判別はできません。ただその筆先が、緩急をつけながらも淀みなく運ばれたことだけは感じ取れます。
それは、感じ取れましたが。
「読めない……」
「さもありなん」
雲母様が可笑しげに言いました。
しかたないではありませんか。千年もあれば字だって変わります。するすると流麗な書体は僕には馴染みのないものです。
「はは、すまぬ、意地の悪いことをしたな。水脈の神に似た御方よ、お読みいただけまいか?」
ご指名を受けた夜蓋さんが書を覗き込みました。
「珍しいな。こういった紙には和歌を記したものが多いが、これは随筆らしい」
続けて、その文章を現代語に訳してくれます。
「『あれから年月が過ぎ、この頃は、京で過ごした日々の記憶も掠れ始めた。
しかし、あの朝に見た光だけは忘れまい。
京で迎えた最後の朝、私の庭に、梔子色に輝く鳥が降り立った。
いずれ天に昇るであろう、麒麟にも鳳凰にも似た立派な鳥であった。
この貴重な唐紙も、あの光とは比べ物にもならぬほどである。
もう二度と見ることも叶うまいが、せめて懐かしんでこれを記す』」




