「疑問」「テレビ」「熱帯夜」
真夏の夜。
地上波初放送のホラー映画は、評判どおりの面白さでした。
「んー……」
僕は自室のソファで、心地よい余韻に浸りながら伸びをします。
恐怖を欠いた僕ですが、恐怖を主題とする作品を見るのは、割と好きです。
それは欠落を紛らわすお勉強であると同時に、単純な趣味でもありました。『リング』では謎解きに引き込まれ、『仄暗い水の底から』では幼子を抱きしめるシーンに胸を打たれたものです。
思うに、恐怖の根には生と死があり、人は生命に意義を望むものですから、良質なホラーは良質なドラマ性を内包するのでしょう。
僕はテレビのリモコンを手に立ち上がります。
時計を見るまでもなく、九時から放送の二時間映画が終わって、現在時刻は十一時。そろそろ眠るべきでした。
テレビを消し、ベッドに座って電気を消します。
折しも今夜は新月。カーテンを照らす月光はなく、部屋はとたんに真っ暗です。僕は手探りでベッドに潜り込もうとしました。
その時。
消したはずのテレビが、ポッと光りました。
一瞬、リモコンに触れてしまったかと思いました。しかしサイドテーブルに置いたはずのそれに、手が届いたはずはありません。
となれば、(ここではよくある)、超常現象?
僕はベッドから立ち上がり、じっとテレビと向かい合います。
暗視カメラで撮ったような荒い白黒の画面。映っているのは、荒れ果てた狭い部屋でした。カーテンは破られ、照明は割られ、半端に剥がされた壁紙がでろりと垂れ下がっています。床には衣服や食事の残骸が無秩序に散らばっていました。
ザザッと、ノイズが走ります。
それが晴れると、部屋の奥に女性が現れていました。
俯く顔を黒い長髪が隠しています。白いノースリーブのワンピースに、不健康なほど痩せた肩が尖っていました。裸足のつま先が妙にどす黒く見えます。
幽霊や怨霊と聞いてすぐ想像できるような姿の女性でした。
ぐらり、ぐらりと揺れる足取りで、その女性はこちらへと近づいてきます。
緩慢な歩みは、ときおり不安定な早送りを挟んで迫り来ました。ついに実物サイズの大写しになった彼女が、手を伸ばしてきます。
そして、まるで、水面を内から割るように。
血の気のない指は、画面の向こう側からこちら側へと出てきました。
ぬるりと液晶の表面を掻き、その手がテレビの外枠を掴みます。力が込められて、元より華奢な手の甲にハッキリと骨が浮く。
自らの身体を引きずり出そうとしているのです。
僕はテレビに近づきました。
「よければお手をどうぞ」
このまま出てきたら、床にべしゃっと、転げ落っこちてしまいそうですから。
「………」
女性が顔を上げました。乱れた黒髪の間から、充血した目が覗きます。
「あぁりがとォ」
電波の悪いラジオ越しに聞くような声でした。
どういたしまして、と答えて僕は彼女の手を取ります。重みはほとんどありません。
彼女はテレビの枠を無事に跨ぎ越え、床に裸足を着けました。酷暑の八月。けれどクーラーを効かせたこの部屋では、むしろ寒々しさを覚えます。
「お茶はお飲みになられますか?」
夜蓋さんに倣って問う僕に、幽霊さんは首を横へ振って答えます。
「では、少々お待ちください。店主を呼んで参りますので」
僕は軽くお辞儀をして出ていこうとしました。
「待ってェ」
そこへ、追い縋るような声がかけられます。もちろん僕は立ち止まり、「どうされましたか」と振り返りました。
幽霊さんは訝しげに言います。
「あなたが、店主さんでは、ないのォ?」
「いえ、僕は助手ですよ」
「でも噂で聞いたわァ」
「どのように?」
「灯火通りの化生屋は、冷える肝がないあやかしだ、ってェ」
僕は思わず微笑みました。
どこのどなたか知りませんが、面白い言い回しをなさったものです。
「それは比喩ではなく事実ですね。うちの店主は身体を半分白骨化させているのですよ。僕は、あまり肝が冷えないだけの人間です」
「……嘘吐きィ」
幽霊さんは棒きれのような指で、僕の喉元を差し示します。
「人間にウロコなんて、生えてないわよォ」
それは、ごもっとも。
疑う彼女に、僕は掻い摘んで身の上を話しました。夜蓋さんに助けられたこと。その時にした会話のこと。人間であるという自認が僕を人間たらしめること。
素直に聞き終えてくださった幽霊さんは、しかし、首を傾げました。
「それって、あなた、ホントに自分を人間だと思ってるのォ?」
「ストレートにおっしゃいますね」
僕は苦笑いして頬を掻きます。
「まぁ実のところ、人魚になるのが嫌って感覚は、もう無いんですよ」
何せ、あのウルトラクソ麗しの人魚様は、もはや単なるハスキーボイスのお兄ちゃんですから。
「ただ、そうですね。言うなれば、初めて買った靴は手放しがたい、みたいなことなんだと思います」
「なァに、それ」
「この店の主に会った時、僕は間違いなく人間でした。だから自分を人間のままにしておきたいんですよ。この先もずっと」
例えば、いつか不老不死になったとしても。
「これで答えになっているでしょうか?」
問い返す僕に、幽霊さんはふいっと顔を背けました。ノイズ混じりの声が不機嫌にキッパリと言います。
「愛の話は、嫌い」




