「黒」「生徒」「ソロ」
それは、僕がひとりで店の留守を預かっていた日のことでした。
夕暮れ時。「CLOSED」の札をかけているはずのドアが、控えめに、しかし確かにコンコンとノックされました。
いちおう店番として一階で勉強をしていた僕は、閉めていたカーテンを少し開けて、窓から来客の姿を確認します。
お客様は二名様でした。
申し訳なさそうにもう一度ノックする、スーツ姿の女性がひとり。
べしょべしょに泣いている、長い黒髪が印象的な、十歳くらいの女の子がひとり。
見たところ、脅威のある『化け物』のたぐいではなさそうです。
僕は「はーい」と返事をして、ドアへ向かいました。
店に招き入れられて、女性は幾らか胸を撫で下ろしたようです。しかし店内に僕しかいないと知ると、不安げに辺りを見回しました。
「あなたが、化生屋さんなんですか?」
「留守番の店員です。お急ぎのご用事ですか?」
「お力を借たいのは、明日なのですけれど」
「でしたらスケジュールは空いていますよ。話をお聞きしますので、こちらへどうぞ」
僕は女性たちをいつもの応接席へ案内します。
そこへ座っても、女の子の方はしゃくりあげ続けていました。
「飲み物をお持ちしましょうか。飲めないものはありますか?」
「ありがとうございます。お水をいただけますか、できれば常温で……。私は人間ですけれど、この子はカササギの子なんです」
「承知しました」
僕は調理場(この店がカフェだった頃の名残です)へ向かうと、冷蔵庫ではなくストッカーの方から、軟水のミネラルウォーターを出しました。小花柄の入ったグラスに注いで、テーブルに戻ります。
「どうぞ」
「ありがとうございます。ソラちゃん、お水、飲める?」
「………」
泣いていた女の子がなんとか頷き、袖で目元をぐいぐい拭います。道中でもハンカチ代わりにしてきたのか、その袖はずいぶん伸びて、小指を隠すほどでした。
彼女は袖を直すことなく、包み込むようにしてグラスを持ち、口を付けます。ごくごくと飲んで、ようやく息をつきました。
僕は女性に問いかけます。
「ご事情をお聞かせいただけますか」
「はい」
女性は頷き、語り始めました。
「わたくし、葉月と申します。あやかしの子たちに、ピアノ教室を開いている者です。明日が発表会なのですけれど……」
ソラちゃん、と、先生は生徒の名前を呼んで、小さな肩に触れます。
優しく促された女の子は、また睫毛に涙を滲ませながらも、伸びていた袖を手首へと降ろし、その両手をテーブルの上に載せました。
――どちらの手も、小指が欠けています。
「カササギは、たしか、もともと……」
「四本指ですね。でも、昨日までは、ちゃんと五本の指に化けられていたんですよ」
発表会前の緊張で、うまく人間に化けられなくなってしまった。そういうことでしょうか。
「ちなみに引く曲は?」
「黒鍵のエチュードを、児童用にアレンジしたものです。それでも小指なしで弾くのは、どうしても難しくて」
その曲は名前の通り、白黒ある鍵盤のうち、主に黒鍵を使う曲だそうです。親指を使う場面が少なく、必然的に他の四つの指を活用することになります。
「どうして急に化けられなくなったか、心当たりはありますか?」
僕はソラさんに向かって問いかけました。
すると、ブンブンと、強く首が左右へ振られます。黒髪が数本、濡れそぼった頬に張り付きました。
……おや。この、頑なな反応は。
「先生。少しこの子と二人にさせていただけますか?」
「それは……」
「店の前で待っていてください。カーテンを開けますから、こちらの様子を見ながらで構いませんよ」
「……ソラちゃん、いい?」
問われたソラさんが頷くと、先生はちらちらとこちらを気にしながらも、店の外に出ました。僕は約束通りカーテンを全開にして、窓ガラス越しに先生へ微笑みかけます。
それから、ソラさんに「ちょっと待っていてね」と声をかけて、いったん二階へ上がりました。
戸棚の引き出しの鍵を開け、夜蓋さんから預かっている封書を取り出します。
銀の箔押しで縁取られ、深い紫色の封蝋をされた、一通の手紙です。
僕はそれを手に応接席へと戻りました。
ソラさんが訊ねてきます。
「それ、なんですか」
「紹介状ですよ」
僕は封書を自分の手元に置き、説明します。
「この通りをすこし行って、洋裁店の裏手に回ると、技師装具店があります。仮の手足や指を作ってくれる店です。うちの店主は割と顔が聞きますからね、この手紙を渡せば、少々急な仕事でも請け負ってくれるでしょう」
ソラさんの顔にぱっと希望が宿りました。
その眼が一心に紹介状へ向かうのに気付きながら、僕は、やはりまだ封書を渡しはせずに言います。
「『指きりげんまん』。小指は、約束と真実の指ですね」
ソラさんがバッと視線を上げて僕を見ます。まだ幼い目元が見開かれ、薄い肌の下で、頬の筋肉が強張ったのが分かりました。
怯えの眼差しを受け止めて、僕は、なるべく優しく微笑みます。きっと夜蓋さんがそうするように。
「この店は、お客様の嘘を咎めません。だからあなたは黙っていてもいい。あなたが何も話さなくても、この紹介状はお渡ししますよ。けれど僕は、この店の主が帰ってきた時に、できるだけ『本当のこと』を伝えたいんです。――あなたには、何か隠し事がありますか?」
「………」
ソラさんは、ちらりと窓の外を見ます。先生は相変わらず心配そうにこちらを見守っていました。
「大丈夫、外には聞こえませんよ」
お客さま用の椅子、その座面の布には、防音のまじないが縫い込まれています。この席に座ったお客様の声が外へ漏れることは無いのです。他人に知られてたくない依頼も多い店ですからね。
ソラさんはゆっくりと僕の方へ視線を戻しました。小さな肩が震えているのが見て取れます。
「わ、私は……」
細い喉がこくりと唾をのみ、懸命に、その言葉を絞り出しました。
「カササギじゃ、無い。本当は、カラス」
告白の後、ソラさんは俯いて、テーブルに乗せていた両手を固く握りしめました。
「カラスって、嫌われ者です。先生も、この前、ゴミを荒らされて困ってた」
……なるほど。
カササギは白黒ツートンカラーの鳥ですが、カラスといえば真っ黒な鳥の代表格。
正体を偽っていた彼女は、『黒鍵のエチュード』という題材に、心理的負荷を受けた。それで変化に影響が出たのでしょう。
「話してくれてありがとうございます」
僕はまず、お礼を述べて、軽く頭を下げました。
「そしてひとつ確認です。あなたは、先生を突いたりはしませんね?」
「しないです!」
「でしたら、あなたは、何も悪いことをしていませんよ」
「ウソついてるのに?」
「嘘と罪は同じものではないと、僕は思っています。怖いなら、嘘を吐いてもいいんですよ」
予想外の言葉だったのでしょう。
ソラさんは口を少し開けて、ぽかんと僕を見上げました。その様子に微笑ましさを感じながら、僕は言葉を続けます。
「ここは化生屋。まさしく、偽りごとを売る店です。僕はいまのところ、お客様たちの嘘を悪だと思ったことはないです。店主に罪があると思ったことも、ありません」
ただ、と、付け足します。
「いつかバレるか、もしくはバラす時には、先生が好きだから隠していたんだってことは、伝えてあげてくださいね」
「そしたら……、許して、くれるかな」
「僕はあなたのことも先生のこともよく知りませんが、僕があなたを良い子だと思ったのは本当のことです。だから先生も同じじゃないかなぁ、と予想します。……手に、触れてもいいですか?」
ソラさんがこくりと頷いたので、僕は彼女の小さな手をそっと包み込みました。
「あなたが素敵な音楽を奏でられますように」
おまじない。
あるいは、お祈り。
僕に夜蓋さんみたいな不思議な力はありません。けれど、あやかしは、誰かの感情や想像――気持ちをルーツに持つ生き物たちです。
だから僕の言葉も、無力ではない。
「あ……」
ソラさんの小さなつぶやきとともに、彼女の体温を感じていた僕の手のにも、『それ』がするりと現れた感触がありました。
僕は手を離します。
ソラさんは、自身の両手をぱっと掲げました。
「治った!」
そこには細い小指がたしかにあって、ピンと伸ばされています。
ソラさんはすぐ、外に向かって手を振りました。揃っている五指を見た先生が、嬉しそうに笑って、小さく拍手のジェスチャーをします。
これならきっと、僕の予想は当たるでしょうね。
* * *
「……と、いうことがありました」
帰宅した夜蓋さんに、僕は数時間前のことを報告しました。
聞き終えた彼は、ひとこと、簡潔に、しかしはっきりと答えてくれました。
「よくできました」
そして、ふうっと息を吐きます。
生み出された蜃気楼は、僕の前に大きな赤い花丸を描きました。




