番外編 猫と人魚の後日談
※軽度の猫虐待あり
※暴力描写あり
——今夜こそ、猫を殺したい。
深夜、午前二時。
俺はパーカーのフードを目深に被り、家の外へ出た。
ポケットの中には抜き身のナイフ。日中は通学バッグに忍ばせているそれを、恍惚として握り締める。
半年ぶりの『狩り』に、胸が躍った。
ナイフを買ったのは、もとは学校生活に辟易としていたからだった。
発端は高校受験の時に運悪く風邪を引いたことだ。実力を出せなかった俺は、貴重な三年間を本来より低レベルな環境に甘んじることになった。
同級生も教師も、馬鹿ばかりで嫌になる。天才肌なところのある俺にとって、その学校生活は苦痛に他ならなかった。
そう。ストレス解消が必要だったのだ。
最初は、ナイフを学校へ持っていくだけだった。へらへら笑う同級生の顔や非論理的な教師の言葉も、俺が何を持っているかも知らないでと思えば滑稽だった。
とはいえ実際に奴らを刺すわけではない。そんなことで人生を棒に振るなどそれこそ馬鹿馬鹿しい。
その代わり俺は、夜中に出掛けて、公園や神社の花壇を荒らすようになった。花の根本に繰り返しナイフを突き刺すと、ザクザクと小気味の良い感触が手に伝わった。
しかし、それにもすぐ飽きた。
やはり刺すなら生き物がいい。
そこで目をつけたのが、野良猫だ。
半年前の晩。俺はついに、通販で買った捕獲器を寂れた公園の隅に仕掛けた。
成果は……、成功であり、失敗でもあった。
罠にかかったのは小柄な三毛猫だった。その首を掴んで捕獲器から引きずり出し、さっそく刃を刺そうとした時、黒猫に飛びかかられて邪魔されたのだ。
だが俺もタダでやられたわけではない。振るった刃は黒猫の尻尾を切り裂いた。皮を引き裂く手応えも、ギャッと鳴いた声も、実に心地よいものだった。
そう。単なる失敗ではない。俺は十分成果を出したと言えるだろう。
ただ、問題も起きた。
どうやらあの後の数日間、黒猫は千切れかけの尾を引きずって、近所を徘徊したらしい。
猫同士の喧嘩や事故にしては不自然な怪我に、人による虐待ではないかと噂が立った。
地方の長閑な住宅街では、十分すぎるほどセンセーショナルな話題だ。町内会の暇なジジイどもは意気揚々と警察に働きかけて、パトロール強化の報せが公園の掲示板に張り出された。
……俺がもしサイコパス気取りの馬鹿だったら、我慢できずに狩りに出て、あっさり捕まるところだったろうな。
もちろん俺はそんなヘマはしない。
俺は動物虐待の話がすっかり過去のものになるのを待った。どうしてもガマンできないような日は、ゲーセンで取ったぬいぐるみをズタズタにして耐えながら。
そして、数日前。
公園の報せはようやく剥がされた。
俺は早速、また罠を仕掛けることにした。
残念ながら空振りの日が続いているが、そろそろ一匹くらいマヌケな猫がかかっても良い頃だろう。今夜は仕掛けの猫缶も良いのを奮発してやった。
空き地の茂みを掻き分けて、奥に隠した捕獲器を確認する。月が思ったよりも明るくて、スマホのライト無しでもその影は見えた。
——かかっている。
俺の口元に、ニヤリと笑みが浮かぶ。
罠の中にいたのは真っ白な猫だった。尾が半端に短いのも、あの黒猫と同じ特徴だと考えれば、悪くない。
気分が高揚するのを感じながら、俺は捕獲器に手をかける。
「こんばんは」
背後から声をかけられたのは、その時だった。
「……!」
バクッと心臓が跳ねた。俺は勢いよく振り返る。
そこに居たのは。
居たのは……。
……なんというか、珍妙な、美女だった。
顔が整っているのは間違いない。人形のような、というのはこういう容姿を言うんだろう。小さな頭に寸分の狂いもないバランスで眼や口のパーツが並んでいる。
しかし、問題はそいつのセンスだった。
まず髪型。前髪も襟足も無茶苦茶に切り刻まれて、イジメにでもあったのかというズタボロ具合だ。
そして服装。『ブラコン』とデカデカ書かれた長袖Tシャツに、レースたっぷりの膨らんだゴスロリスカートという、酷い組み合わせ。
そして、極めつけに靴。奇をてらったつもりなのか、左右でまったく違うものを履いている。
赤いスニーカーと……、変に歪んだデザインのロングブーツ。
『素材の味を全力で殺しました』みたいな格好をしたその女が、困惑する俺に向けてまた口を開く。
「猫を虐めるのは、悪いことだよ」
妙に枯れた声のトーンに、違和感を覚えた。
俺は目を凝らす。そいつの首には痣があり、喉仏が、少し尖っているのが見える。
女じゃない。
きれいな、男だ。
ますます変人だと確信しながら、俺は、いったん白を切ることにした。
「なんのことですか? 俺はただ、ウチから逃げた猫を捕まえようとしていただけですよ」
「ふーん?」
男はつまらなそうに言う。
「君が猫のしっぽを切った犯人だって、聞いたんだけどな?」
「聞いたって、誰に」
「誰だろうね。化け猫とか?」
揶揄うような言い草が、きれいな顔に妙に合っていた。男が首を傾げると、月明かりが、その鎖骨を浮かび上がらせる。
「君はどうしたら止めてくれるかなぁ。……あ、そうだ」
突然、パン、と男の手が打ち鳴らされた。
「俺を切らせてあげるよ」
ナイスアイデアと言わんばかりに喋る、男の咥内が、夜の中で黒々と紅い。
「切る……?」
「死なない程度にだけどね。それでも、きっと君の人生に俺以上の獲物なんて現れないよ。だから、君の一生分の加害と、俺の傷ひとつを交換しよう」
無茶苦茶な言い分だった。
無茶苦茶な言い分に――、俺の喉が、ごくりと鳴った。
男はシャツの袖を捲り上げる。晒された腕は滑らかに白い。
あぁ、たしかに。
猫の尾よりも、ずっと、上等だ。
この腕に消えない傷を刻みつける。そんな特別な夜を体験する高校生は、きっと全国どこを探しても俺だけだろう。
自制が、欲に負けて、俺はポケットからナイフを取り出した。
興奮で息が荒くなる。
男に近付き、その腕を、切り付ける。
手応えは気の抜けるほど軽い。薄そうな肌が、ぱっくりと裂けた。傷口から血が溢れ出す。
独特の鉄臭いにおいがした。
男は痛みに眉をしかめる。その顔が、たまらない。腹の奥がうずき、俺はナイフを握り直した。
もう一撃、と、唇を舐める。
だが男は「駄目だよ」と腕を引っ込めた。
「傷は『ひとつ』って言ったでしょ。これでおしまい。これ以上は、君にはもったいない」
からかうような、上から目線の言葉。
カッと俺の全身が熱を持った。
衝動的に男の腹を蹴りつける。もろに喰らった男が押し倒されて地面に転がる。膨らんでいたゴスロリスカートが空き地の地面に押し潰された。
馬鹿にしやがって
馬鹿にしやがって
馬鹿にしやがって
脳裏に浮かんでは消える学校の低能共の顔。それを蹴散らすように脚を振り抜く。つま先がめりこむたびに、げほ、げほ、と男の綺麗な顔が歪んで、唾液混じりに咳き込んだ。
いい気味だ。
俺は繰り返し、そのふざけたTシャツの腹を蹴った。
蹴って、蹴って。
――げほげほ、……けほっ。
咳の音が、妙に抜けて聞こえた。
――けほ……、ふふ、……っ。
今度ははっきり分かった。
男が、笑っている。
俺は渾身の力を込めて男を蹴ろうとした。だが、ごろりと向こうへ転がって避けられる。
男は地面に手をついて体を起こした。
「あー。やっぱり、リッカ以外に逆らわれてもムカつくだけだなぁ」
苛立ちを表す言葉とは裏腹に、その眼はニヤニヤと細められていた。俺に話しかけたわけではなく、独り言のような台詞だった。リッカ。誰だ。ブラコンと書かれたシャツ……兄弟の名前か?
「でも、ここまでだね」
「あ?」
「ほら。もう来てるよ」
男が俺の後ろを指さす。
振り返ると同時に「何をしている!」という怒号が飛んできた。俺の目に映ったのは、慌ただしくチャリを乗り捨て、こちらに駆けて来る警察官の姿だった。
やばい。
咄嗟に走り出そうとした足首に衝撃が走る。体勢を崩して転んでしまう。取り落としたナイフが地面に跳ねた。
何が起きたのかと見回して、男の、軽く片足を上げた体勢に、赤いブーツで足払いをかけられたのだと気付く。
「この……!」
怒りに任せてナイフに手を伸ばす。だが、その手が届くより前に、警官に押さえつけられた。
動けない。
ちくしょう。
裏切られた。騙された。このキレイな男は、俺と取引する気なんて端から無かったのだ。
「通報してたのかよ!」
叫ぶ俺に、男は「うん」と悪びれもせず答えた。
「更生は更生のプロに任せたほうが良いに決まってるでしょ。俺は君の人生なんか背負えないもん」
言いながら、男は捕獲器に近付き、猫を外へ出した。
白猫は伸びをしてナァーオと鳴く。
その声が「ザマァみろ」とでも言ったように聞こえた。
* * *
「馬鹿なんですか」
それが、事の顛末を聞き終えた僕の第一声でした。
由希は、口を開け、頬に手を当て、まさに「がーん」とオノマトペでも付くような表情をします。
「褒められると思ったのに!」
「馬鹿なんですね」
感動の別れから二週間と経たず。
クソすぎる土産話を携えて戻ってきやがった兄に、僕は心底呆れました。奇抜な進化を遂げたそのファッション――わざと魅力を減衰させるような服装――には、あえて言及しません。
しかし、語られた報告の方は、看過いたしかねました。
「病院には行ったんでしょうね?」
「その場で救急車呼ばれたよ。十針縫った。腹はアザだけで内蔵は無事。全治一ヶ月だってさ」
「そうですか」
では、と、僕は外を指差します。
「さっさと薬屋に行って切り傷と打撲用の薬を買ってきなさい」
「え。一緒に行ってくれないの」
「ははははは。付き添いなんかして味を占められても嫌ですからね。一人で行け」
「つめたいー。さびしいー」
駄々をこねる二十一歳児にも、僕は頑として、座ったまま薬屋を示す指先を譲りません。
「はやく行きなさい。一番良い薬なら傷跡も残らないから」
「……はーい」
ようやく根負けして、由希が渋々と立ち上がりました。カランコロンとドアベルだけは相変わらず軽やかに鳴ります。
その音を聞いてか、夜蓋さんが二階から降りて来ました。
「心配している、とは言ってやらないのか?」
「それこそ癖になったら困ります」
「しかし……」
彼は少し言いづらそうにしてから、話しました。
「おそらく、そうして怒るほうが、喜ばれているぞ」
あのクソ兄貴、と、僕は頭を抱えました。




