番外編 洋菓子店の後日談
お詫びにと渡された封筒から出てきたのは、揺月堂の商品券一万円分だった。
「ひゃー」
バイト先の洋菓子店。そのバックヤードで私は思わず変な声を出す。横から覗き込んで来た同僚が「いいなぁ!」と声を上げた。
揺月堂のコスメと言えば、灯火通りに出入りする女の子たちの憧れだ。質が良くって、値段は高い。私のような母子家庭の勤労学生にはなかなか手が出せないものである。(あやかしの血筋に生まれた者みんなが、優雅で幻想的な暮らしを送っていると思うなよ!)。
だから私だって、嬉しいには嬉しいのだけど。
「あのハンカチ、百均のだよぉ?」
商品券を握りしめながら泣き言のように呟く。ある意味センスは最高だけど、年下の男の子から、こんなに高価な『詫び』なんて受け取ってしまっていいのだろうか。
同僚は「なに言ってんの」と揶揄するように私の肩を小突いた。
「あんた、ハンカチの弁償だと思ってるわけ?」
「え、違うの」
「床に跪かせたお詫びに決まってんでしょー」
「それこそ心苦しいってぇ」
店側が客を騙すのは御法度だけれど、客に惑わされるのは店主や店員の自己責任。それが灯火通りのルールである。
困った私は店長の方を見る。黒髪を結い上げた彼女は白い調理服を着ていても色っぽい。
「てんちょー」
「突き返したら、リッカさんが気にされるんじゃないかしら。常連さんに不粋をしたくはないわねぇ」
やんわりとだが、納めておきなさい、と言われてしまった。
こうなれば開き直ったもの勝ちか。ううーん、と唸ってから腹をくくり、「ありがたく受け取っておきます!」と宣言する。同僚が小さく拍手をした。
「で。何買うの?」
「ど、どうしよう。迷うっ」
自分のものにすると決めたら、俄然胸が高鳴りだした。
やっぱり使いどころの多い定番アイテムだろうか。アイシャドウか、口紅か、ファンデ? 私は厨房に入ることもあるけれど、この店は粉が落ちる程の厚化粧でなければお化粧も可だ。
「何がいいと思います?」
私はまたも店長にアドバイスを求めた。彼女は揺月堂の愛用者でもある。幻を駆使すれば自力で顏をいじれる淫魔でも、メイクの楽しみは別腹らしい。
「そうねぇ。せっかく玉葉の店に行くのなら、あの店でしかできない買い物を考えたらどう?」
そんな大人の女っぽいお答えに、私はまた悩み出す。
* * *
バイトの休みは三日後だった。
三日もたって、ようやく私の考えは決まったのである。
製菓学校の授業を終えた足で揺月堂へ向かう。客を値踏みするような店ではないという店長のお墨付きはあったけれど、ダサい小娘とは思われたくなくて、服はキレイめのワンピースだ。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、すらりと背の高い店員さんが挨拶をしてくれる。やっぱり彼女も本性は狐なんだろうか。切れ長の眼に、すこしだけ入れた紅いアイシャドウが店の雰囲気とよく合っていた。
「本日は何をお買い求めですか?」
「あ、あの」
私は声を上ずらせながら答える。
「揺月堂のコスメは、ケモノにも安全だって、ほんとうですか。うさぎ混じりの半妖でも、大丈夫でしょうか」
「はい。ラインナップにもよりますが、お客様に害のないものをご紹介させていただきます」
「そしたら、マニュキュアとネイルケア用品がほしいんです。予算は、一万と五千円くらいで、一万円分はこれで」
例の商品券を出す。店員さんは券を確認すると、「承知しました」と頭を下げた。
「どのようなお色がお好みですか?」
「あ、いや、違って」
もっとスマートに話せないものだろうか。緊張丸出しで、私はぱたぱたとバッグを漁り、スマホを出して、ひとつの写真を見せる。
「母に似合うのが、ほしいんです」
画面に写したのは入学式のとき、母と並んで取った写真だ。
「プレゼントですか」
店員さんが柔らかく微笑んで言うものだから、照れで顔が熱くなる。
「わ、わたしはパティシエ目指してるんで、爪は飾れなくて。その分、おかあさんの爪がきれいだったら、なんかテンション上がるかなって。まぁ、そんな感じで」
なぜか言い訳っぽくなる私に、店員さんは微笑んだまま、彼女の爪が見えるように両手の甲を差し出した。
ほっそりした手に霞がかかって、晴れる。
すると、よく見慣れた、皺のある、少し関節の目立つ手が現れた。
「お客様を贔屓してはいけないのですけれどね、わたくし、やる気が出てきましたよ」
元よりはずっと老いた手を嫌がるでもなく、店員さんはぐっと親指を立てる。
「この手にいちばん似合うネイルを探しましょう」
* * *
リッカさんはこの洋菓子店の常連客だ。
買うのはいつもザッハトルテ。持ち帰ることもあれば、カフェスペースでゆっくり楽しんでいくこともある。今日は後者のようで、一緒にアップルティーも頼んでくれた。
「商品券、ありがとうございました」
仕事の合間をぬって声をかける。リッカさんは口元についたチョコのかけらをぺろりと舐めとった。
「いえいえ。喜んでいただければ、こちらとしても気が楽です」
歳の割に板に付き切った丁寧語が、私のために少し茶目っぽく発音される。よいこだ。恋愛的な意味ではなく、親戚の子を見るみたいな好感が湧いてくる。
「それで、ですね」
私はさらに声をひそめて、内緒話をもちかけた。
「今度、夏の新作会議があるんですけど、リッカさん、好きなフルーツとかあります?」
常連客の好みリサーチする程度、悪いことでも何でもないけれど、ちょっと公私混同な感じはする。私の心情を察してくれたのか、リッカさんも小さな声で答えてくれた。
「夏なら、桃か、さくらんぼです」
「わぁ、いいですね。タルトとムースならどっちがいいですか?」
「チョコに合わせてほしいから、ムースで」
あ。そういことか。
合点がいって、私はリッカさんのお皿を見る。
ザッハトルテはチョコとあんずのケーキ。切り分けられたその断面で、甘酸っぱいジャムの層が、とろりと艶めいている。
「リッカさんは、バラ科の果物とチョコレートの組み合わせが好きなんですね」
「ええ」
常連客の見慣れた顔が、薄く笑む。
……ちょっと、ドキリとしてしまった。
目の前にいるのは高校生のあどけない男の子だ。なのに何故だかその頬が、店長にも、あの『お兄さん』にも似た香り方をした気がした。
「とっても、おいしい、思い出の味なんですよ」




