人魚のこころ
そして。
明くる、朝。
「あ、い、う、え、お」
化生屋の一階には、どこか間抜けな調子でハスキーボイスが響いていました。
アメンボが赤いとか何とか繰り返し唱えてから、由希は鱗の剥げて傷んだ喉をぐにぐにと摘みます。
「やっぱり変な感じ」
「喋ってればそのうち慣れますよ。たぶん」
「そこは言い切ってよ」
笑う彼の前髪は、見事に斜めに、実にぱっつんと、明らかに短すぎる位置で切られていました。
側頭部や後頭部はもっと酷くジグザグバラバラの乱れ切り、襟足の羽毛は適当に引き抜かれたせいで猫に襲われた小鳥みたいにまばらな有り様です。
本人が鏡も見ずに台所鋏で散髪した結果でした。
起き抜けになんてことをしてくれるのだか。調理器具で髪を切るとかふざけんなと思いますし、ケープすら着けずにやりやがったせいでキッチンも酷いことになりました。記念すべき本日最初の会話が滾々としたお説教になるとは思っていませんでしたよ、まったく。
……が、その一方で、僕はその滑稽すぎる髪を悪くないようにも思っているのを否めません。
何しろあんまりにも酷いので、人を呑むような美貌も少しだけ緩んでいます。優美な眉も、黒い眼も、これほど露わになって朝日に照らし出されれば、存外と無害に、愛嬌のあるものでした。
「リッカはさ」
小ぶりなマグカップの縁をなぞりながら、由希は言います。カップの中身は僕が淹れてやったアップルティーです。
「俺のこと恨んでないの」
「え。何を今更」
「だって、リッカのお母さんのことだってあるじゃん」
「それは、あの人があなたに惑わされたまま死んでしまったことですか」
「うん。義理の息子のために実子を蔑ろにしたなんて無念でしょ」
「されてませんよ」
きっぱりと言って、僕は自分のカップに口を付けました。少しぬるくて丁度いい。由希は僕より猫舌です。
「僕は親に褒めてもらった記憶も叱ってもらった記憶もあります。そういう意味では、あなたを甘やかしたことが母の無念かも知れませんけれど、それは、こうして晴らせましたし」
「……………」
由希は、湯気が昇っているわけでもない紅茶に向けて、ふぅーと息を吐きました。
「リッカは良い子に育ったねぇ……」
「ええ。見習ってください」
「頑張ってみるよ」
軽い口調でしたが、本当に頑張ってくれるのだろうという、確信はありました。多少、欲目は入ってるかも知れませんけれど。
「で、あなた、この後はどうするんですか」
「うーん。とりあえず最初は、父さんに会いにいくつもり。夜蓋サンがね、今の俺の声を聞いたらあの人も正気に戻るだろってさ。リッカと違って俺に化かされたのは大人になってからだから。まぁ、記憶はどうなるか分かんないけどね。リッカは、父さんが元気になったら嬉しい?」
「そりゃ嬉しいですよ。僕がここで暮らすことだって、真っ当に親権者の許可がほしいところですし」
「そっか。じゃあやっぱり、父さんのところに行くね」
由希はマグを両手で持ち上げ、ちびちびと飲み始めました。
穏やかな静けさは何分続いたでしょうか。澄ませた耳には、由希の喉が鳴るかすかな音だけが聞こえます。夜蓋さんが壊してくれた、誰とでも話せる、喉。
飲み干されたマグがテーブルに置かれます。
「あ、でも昨日のカフェには寄ってこうかな。飲み物わざと零して、店員さんに『足拭いて』って頼んでゴミ見るみたいな目をされたい」
「うわ」
「そうそう、そういう反応」
「喜ぶな。マジでやめろ」
「リッカがそう言うなら諦めるかぁ」
由希は両手をテーブルについて立ち上がりました。
「もう行くんですか?」
「カフェが開く前にね」
背もたれに掛けていた白いカーディガンが羽織られます。ニットで編まれた波模様がひらりと揺れました。
「ねぇ、リッカ」
「何ですか」
「リッカ以外の誰と話してもやっぱりリッカが特別だったら、また会いにきても良いよね?」
……やけにあっさり僕を置いていくと思ったら、そんなことを証明したいのですか。
呆れた僕は答えの代わりに、ポケットから小瓶を出して由希に付き付けました。昨日のうちに、もう一度買っておいたものです。
「あげます」
「ん? あ、声の出なくなる薬じゃん」
素直に受け取った由希が奇妙そうに瓶を振ります。薬液は波打ち、薄紫に煌めきました。
「なんかこの色、夜蓋サンに似てない?」
「主原料は夜蓋さんですからね。薬屋さんに血とか髪とか少し卸してるんですよ」
「それを、なんで俺にくれるの? 嫌味? 釘刺し?」
「お守りですよ。この先、その潰れた声すら怖くなる時があるかも知れませんから。寝言で何か変なこと言ってないか、とか」
「そんな泉鏡花みたいなことあるかなぁ」
「別に使う機会が無いなら無いで構いません。ただ、使用期限は錠剤よりかなり短いのでご注意を」
由希は手の中で薬瓶を回し、ラベルを正面に向けました。書き込まれている期限はおよそ三ヶ月後です。
ふふ、と彼は含みを持って笑いました。
「また貰いに来るね」
「いや普通に薬屋さんで買ってください。僕の給料がどう出てると思ってるんですか。化生屋の仕事には現金収入とか無いんですよ?」
「はーい」
薬をポケットにしまって由希は外へと向かいます。不揃いな踵は清々と返され、二歩ごとにわずかに右へ傾ぐ足取りさえ、機嫌よく音楽にでも乗っているかのようでした。
ふと、昔の会話を思い出します。
それは頸を焼かれた少し後のこと。
『ゆきは、にんぎょなの?』
訊ねると、由希は僕に微笑んで答えました。
『人魚だけど、リッカが人魚にならなかったから、おれも人魚じゃないほうがいいな。兄弟なんだからおそろいにしよう』
『おそろい?』
『うん。おれは人魚じゃなくて、リッカのお兄ちゃん』
「兄さん」
ドアノブに手を掛けた由希が振り返ります。
人間の眼は、どれだけ見開いたところで鳥や魚ほど丸くはなりませんね。
「いってらっしゃい」
「――うん。いってきます」
退店を告げるベルは、からん、ころん、と軽やかに鳴りました。
* * *
夜蓋さんは硝子張りの屋上で僕を待っていました。
「見送りはできたか」
「はい」
本日、快晴なり。まだ口紅を塗っていない彼の唇に浮かび上がる竜胆色が鮮やかです。やはり僕の眼には、それは怖ろしげに映りませんでした。僕はすたすたと夜蓋さんに近付き、その顔を見上げます。
「ひと段落ついたところで、この際、色々と訊いておきたいのですが」
「何なりと」
では、お言葉に甘えて遠慮なく。
「夜の蓋って、どういう意味ですか?」
「……ん?」
そんなことか、とでも驚いたように、夜蓋さんが喉の奥で上擦れた音を出しました。
「答えるのが嫌でしたら、無理強いする気はありませんけれど」
「別に嫌ではないが……、リッカには呆れられるかも知れないな。私が私に付けた元々の名は、野晒しの骸と書いて『野骸』といった。喰われぬのならばせめて朽ちてしまえ、と」
「………」
「そんな顔をしないでいい。昔のことだ」
自分では軽く眉を顰めた程度のつもりだったのですが、夜蓋さんに言われて眉間に触れると、そこには強く皺が寄っていました。指先で揉んでなんとか解します。
「名前を変えたきっかけは?」
「化生屋として客を迎えるにあたって。腐れ落ちることを願った肉など客に振舞っては失礼だろう?」
「でしたら、今は良い意味の名前なんですね」
「そうだな。……夜とは陰陽の陰。真偽においては偽にあたるが、心身においては心にあたる。蓋は覆い隠すものだが、儚きを守るものでもある。要するにこの名は——嘘で魂を守れるように。私の成す変化が、誰かの安寧へ昇華するようにと願った名だ」
彼の言葉は純粋な祈りそのものでした。
改名して、正解ですね。
「今の名前のほうが絶対似合ってますよ」
「あぁ。そうありたいものだな」
僕は断言したのに、夜蓋さんは希望のかたちで返しました。助手としてはもっと自信を持っていただきたいところです。
まぁ、それはおいおい、今後の課題といたしましょうか。
「それで、リッカ。次の質問は?」
何故かちょっと楽しげに促され、僕は続けて、畳みかけることにしました。
「初めて会った時に人魚を探してたのは、お仲間を求めてですか?」
「問題を起こしているなら手を打とうと思っただけだ。同族と群れたがる欲求は特にない。そこは魚より魔女のイメージが出たのだろうな」
「肉を削いだり骨が割れたりする時、痛いですか?」
「幸いなことに、魚は痛覚が鈍い、というイメージがあるようだ」
「実は食欲あったりします?」
「残念ながら、ある。胃腸を再生すれば人のような食事もできるが、肉を付けたくないので我慢している」
「ご年齢は?」
「実年齢はおよそ百。記憶の上ではそれに足すこと百年ほど、海溝の底で過ごしている」
「あなたは不老不死なんですか?」
「……不老ではあるらしい。不死は、どうだろうな。外傷で死なぬことは見ての通りだが、寿命は比丘尼の伝説に倣って八百年で尽きる可能性もある。これは生きてみなければ分からない」
「僕を八尾比丘尼にしたいですか」
ーーあなたのこの先の数百年が、寂しくないように。
僕は夜蓋さんをまっすぐ見つめたまま問いました。確かめることの重さに負けないよう、勢いに任せたことは否定しません。
夜蓋さんは、ひとつ深い呼吸をおいてから、答えました。
「リッカがいつか、それを望んでくれたならという欲はあるよ」
そして、ふっと力を抜いて微笑みます。
「不思議な心地だ。君がこうも私に踏み込むのは珍しい。ずっと、私に物事を訊ねこそすれ、私自身の内面は滅多に問わなかったろう。ついにリッカの関心が私に向いたと、自惚れても良いのだろうか?」
はぁ?
心外すぎるお言葉に、僕は自然と半眼になります。夜蓋さんはものすごく分かりやすく、具体的には床に肋骨をざりざり擦ってたじろぎました。
「どうした?」
「どうもこうもありますか。興味の問題じゃありません。嘘が吐けないあなたの本心なんて、軽々しく訊くわけないでしょう」
日向の中で、白い睫毛がひときわ明るく瞬きます。
数秒の沈黙の後、夜蓋さんは額に手を当てました。背骨が、ひく、ひく、と脈打つように震え出します。彼の喉奥からは妙にリズミカルに息が漏れました。急に痙攣なさってどうしましたと、勘違いしたのは一瞬だけです。これはそういう身体に悪そうな反応ではありません。
ただ単に、たいそう静かに、大笑いしていらっしゃる。
人間だったら酸欠間違いなしに継ぎ目なくたっぷり笑ってから、夜蓋さんは顔を隠していた手をどけました。魚はたぶん泣かない生き物ですが、彼の眼はたしかに潤んでいました。
「私は得難き人を得たらしい」
夜蓋さんは僕の喉に触れました。
鱗で感じた彼の体温はけして高くはなく、けれど出会った頃と比べると幾らか温かいように感じます。彼は外気にゆらぐ変温の生き物で、今日は一足早く初夏の来たような日和ですから。
「これからもどうか、よろしくたのむ」
希う声は朝凪のようでした。
海辺で育った僕にとって、凪とは寂しい無音ではありません。
それは港に揺れる骨に似て、一番優しい波の音でした。
了
お読みいただきありがとうございました。これにて第一部完結となります。
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