『ばけもの』
* * *
次に向かったのは、イニュリアスさんの写真店です。
煉瓦風の壁にショーウィンドウのついたレトロモダンな建物で、ガラスの向こうには額装された記念写真やポートレートが並んでいます。
店の前まで来ると中にいたイニュリアスさんと目が合い、彼は表へ出ていらっしゃいました。角も翼もない人間仕様の姿です。
「こんにちは、リッカさん」
「はい、イニュリアスさん。こんにちは」
挨拶を交わし、やっぱり問われた連れのことは「親族」とだけ紹介します。イニュリアスさんも詮索はせず、恭しくドアを開けて僕達を中へ招き入れてくれました。
店内にも様々な写真が飾られています。どうやって印刷したのか、雲母様のところで撮った写真も数枚、デスクに飾られていました。一枚は僕が雲母様と並んで写っているショットです。
澪さんの足はイニュリアスさんが勧めてくれた椅子を無視してデスクへ向かい、黒い眼で写真の中の僕をまじまじと見ます。
「……連れが、無礼で、すみません」
「いえいえ。目を引けるなら冥利に尽きるというものですよ」
謝った僕にイニュリアスさんは茶目っぽく返すと、奥の棚を開けて一枚の封書を取り出しました。封筒に朝顔の蔓のような模様が入っているのが見えます。
雲母様からの手紙でした。
写真屋さんへの礼状と一緒に僕宛ての一通も預かったと、昨晩イニュリアスさんから連絡いただいたものです。封筒の表には、『たまのいの君へ』と、僕にも読める楷書体で書かれていました。
この場で開封しようかと思ったのですが、イニュリアスさんに「覗き見したくなってしまうから」と頼まれて、家に帰ってから読むことにします。普段は写真を入れるのに使っているのでしょう硬いファイルをいただいて、手紙を挟んでバッグに仕舞いました。
「用事は終わった?」
その声に振り返れば、澪さんの手は、僕と雲母様のツーショット写真を持っていました。
「店の物に触らないでください」
「店の物なのに? そんなこと初めて言われたわ」
「………。その写真は売り物ではありませんから、駄目です」
「売ってもらえないの? リッカさんの写真、欲しいのだけど」
「申し訳ありません、お客様」
イニュリアスさんが店主として会話に入ってくださいます。
「そちらの写真は、リッカさんと一緒に写っている御方に許可を頂いて飾っているものです。勝手にお渡しはできません」
「それは大丈夫よ」
澪さんの声は事もなげに言いました。
「私、烏帽子の人のことは知らないもの。知らない人は要らないわ。リッカさんが写っているところだけ切り取ってくださいな」
「……情のないことを仰る方だ」
写真屋さんの声が、わずかに冷たくなります。
接客用の笑顔は消え去り、彼の頭には仰々しい角が、背には硬質の翼が現れました。その変貌にともなって翼の皮膜に打たれた空気が、澪さんの前髪を揺らします。
「そのようなご要望には、お応え致しかねます」
お客様扱いされなくなった人は、嫌がるように半歩下がって細い顎をぷいっと背けました。
「何だか怖いわね。角だの羽だの、ちゃんと隠してちょうだい」
「それもお断り申し上げます」
「そう。なら、もういいわ」
子供っぽいその人は写真を置き、拗ねた仕草でくるりと身を翻して外へ向かいます。そしてドアを開けたところでこちらを振り返りましたが、僕が一緒に来ないようだと分かると「外にいるから」と言い捨て、出ていきます。
「難しいお連れ様ですね」
室内では邪魔になるらしく、翼だけ引っ込めてイニュリアスさんが言いました。
「えぇ、まぁ」
「リッカさん」
彼はいつぞやの夜と同じように、僕の前にずいっと顔を近付けます。浮かんでいる表情は人の良さげな微笑に戻っていますが、瞳孔は爬虫類のままでした。
「彼女にお困りでしたら、助けて差し上げましょうか?」
「……どうやって?」
「例えば、彼女からリッカさんの記憶をすべて消し飛ばしたり」
「急に悪ぶってどうされたんですか」
「実は急なことではないんですよ。私は基本的に善き竜ですけれども、蛇の性質を持つ以上は、ちょっとだけ悪い竜でもあります。偶には人を誘惑したくなる」
「にしても雑ですよ。あなたが誰かにそんな酷いことをするとは思えません」
「うーん……。やはり、敵いませんか」
竜は残念がる台詞と同時に安堵の仕草で肩の力を抜き、僕から身体を引きました。
「あなたもあなたで、本当に迷わず私を信じますね。夜蓋のおこぼれでも嬉しいですよ」
「おこぼれ?」
「ご自覚がありませんでしたか。あの写真を撮った日、私達はまだ赤の他人同然でした。にも関わらずあなたが私の善性を前提にして推理したのは、夜蓋が私を愛称で呼んで出迎えていたからでは?」
「……あぁ。言われてみれば、そうですね。でも今のは、イニュリアスさん自身への信頼ですよ。根拠はコレです」
僕はデスクに置き去られた、僕と雲母様の写真を手にとって見せます。
「竜が写真を好むというイメージは、僕にも、たぶん世間一般にもありません。思い出を尊ぶのはあなた個人として得たアイデンティティで、写真屋さんの矜持でしょう?」
僕の言葉で、十九歳のドラゴンさんは照れくさそうに角の根本を掻きました。
「あなたの夜更しを許してくれた夜蓋に、感謝しますよ」
外に出ると、澪さんの手はスマホを構えていました。
三つも付いているレンズのどれに写されているのやら。いずれにせよ、シャッターが切られます。
「勝手に撮らないでください」
「リッカさんにも許可が要るの?」
「えぇ、要るんですよ。僕を含めたどんな相手に対しても。この機会に是非覚えていってくださいね」
ぶっきらぼうと慇懃無礼をかき混ぜたみたいな僕の物言いに、「ふーん」と呟いて、細い手はスマホを操作しました。僕が使っていたのと同系の機種なので、タップする動きで何となく何をしているか分かります。たぶんその指は撮ったばかりの写真を消しました。
そして、もう一度カメラを僕に向けます。
「撮っていい?」
「ご自由にどうぞ」
「じゃあ、笑って」
そのオーダーには従わず、僕は黒いレンズを見つめ返しました。
* * *
最後に訪ねたのは、洋菓子店でした。
ドアベルを鳴らして店へ入れば、ショーケースには十数種類のケーキが、棚には焼き菓子やチョコレートが並んでいます。カフェスペースも備えていて、店内飲食ができるタイプのお店でした。
チョコレートやフルーツに焼き上げられた小麦粉の混じる独特の甘い香りが、店内に満ちています。
僕は棚から例のゼラチンチョコレートを三箱取り、本日のおやつを求めてショーケースの中を覗き込みます。そして、おや、と思いました。この時間帯にしては出ている種類が少ないです。定番商品であり僕が週に一度は買っているケーキもありません。
「ザッハトルテをお求めですか?」
この二ヵ月でほぼ顔見知りになった店員さんが、ショーケースの向こうから声をかけてきます。
「ごめんなさい、今日はまだ出せてなくて」
「何かあったんですか?」
「オーブンの調子が少し悪くって。ちょっと待っててくださいね、そろそろ仕上がる頃だと思うので、聞いてきます」
店員さんは厨房に向かい、すぐに戻ってきました。
「あと二十分くらいでお出しできます。良ければカフェでお待ちいただけますか? ドリンクは店長がサービスしてくれるそうですよ。お連れさまの分も」
「そうさせてもらいます。お代は払います」
「ふふ、遠慮されたら間をとって五割引に、と指示されました。ここは店長の顔を立ててくださいな。ドリンク、何になさいます?」
渡されたメニュー表を、僕は澪さんの顏に向けて傾けました。
「どれにしますか」
「リッカさんは何を?」
「チョコラテ」
「なら私も同じのが飲みたいわ」
「そうですか。じゃあ僕はアイスのチョコラテ、こっちの人にはストロベリーラテでお願いします」
オーダーを聞いた店員さんが困惑の顔をしました。僕は繰り返して言います。
「ストロベリーで、お願いします」
「えっと……、では、カフェインレスチョコ三箱と合わせて三五〇〇円になります」
「はい」
僕に押し切られる形で応じてくれた店員さんにお代を払い、僕はカフェスペースに向かいます。二人掛けの席を選んで腰掛けると、連れは珍しくおずおずと僕の前に座りました。
「リッカさん」
「何でしょうか」
「あなた、もしかして、私のこと嫌い?」
「澪さんのことなら特に好きでも嫌いでもありません。そういう感情が生まれるだけのお付き合いがありませんから」
「ならどうして意地悪するの。チョコラテ飲みたかった」
「あなたチョコレートは嫌いでしょう」
僕は、この店のチョコがお気に入りなのです。食べても美味しいと感じない人に味わわせるのは癪でした。
もちろん、目の前にいるのが本当に初対面のご婦人であるなら、こんな無礼なやり方はしませんが。
「……リッカ」
先程までと違う、あるいはいつもどおりの語調で僕を呼んで、澪さんの顔が溶けました。
化生屋の助手として幾度も見てきた光景です。蜃気楼が空に舞い散り、その向こうから、見慣れた姿が現れます。
それは美貌の人間でした。
眼の大きく、鼻梁の細く、唇の薄い顔。艶やかな黒髪。喉を覆う紅い痣さえ華のように鮮やかです。ーーお揃いにするのだと言って焼かれた僕の喉とは似ても似つかずに。
服はワンピースのままで、テーブルの脇からは、大きく歪んだ右脚が見えました。踵にあたる関節はふくらはぎの位置までせり上がっています。太く浮いた骨と、尖った爪を持つ、靴を履けない紅い脚です。彼はこの脚ゆえにスカート姿を好み、左右で歩調が合わないから、走ることが苦手です。
髪がひとふさ、対価として溶け落ち、黒い金魚になって泳ぎ去っていきました。
「どうして?」
澪さんより勝り、悪夢じみて美しいクソ野郎は相変わらず幼げに、甘く通る声で言いました。しばらく髪を切っていないようで、前髪が眼にかかって淡い影を作っています。
「何がです」
「どうして俺だとわかったの。顔? 声? 自我以外は全部変えるって約束だったのに、あの白い化け物、嘘でも吐いたのかな。リッカが俺だと分かってても話してくれるんなら、別に化ける必要もなかったけどさ」
「夜蓋さんは嘘を吐きません。単にあなたの演技の爪が甘いんです」
「そんな駄目だった? どこが?」
「生き物は仕草にも個性があるんですよ。僕の肩を掴んだ時、力を下向きに込めたでしょう。あれでは引き止めるのではなくて立ち上がる支えにする所作ですよ。薬指を鎖骨に掛けるのもたぶんあなたの癖です。手のサイズが変わってるのに指を伸ばして来られたら、嫌でも気付きます」
「へぇ。すごいねぇ、リッカは俺のこと良く知ってるんだ」
物心つくより前から傍にいて、どうやって知らずに済むと言うんですか。
そう悪態を吐く代わりに、僕はひとつ疑問を口にします。
「よく食べられましたね、夜蓋さんの肉」
「あー。アレね? ちょっと気持ち悪いけど我慢はできたよ」
由希の感想はどこか中途半端なものでした。こいつは人間だけど『人魚』でもある、ということでしょう。自認を重んじるのはあやかしさんたちの文化のようですから。
眉をひそめてしまったところへ、店員さんがドリンクを持って来ました。
チョコラテを僕の前に、ストロベリーラテを、少し戸惑いながらクソ野郎の前に置きます。二度三度と繰り返して彼女が由希を見たのは姿が急に変わっていて驚いたから、……だけでは、ないのでしょう。誰かの姿が変わることくらい灯火通りでは日常のうちです。半ばこの世でないような場所においてもなお、鳴仙家の人間は人間離れして美しい。嘆かわしいことです。
「で、何しに来たんですか」
チョコラテのグラスを手元に引き寄せて、まだ口は付けず、僕はできる限りの冷たい声で問います。
「理由なら言ったとおりだよ。島に帰ってきて欲しい」
「嫌です」
「どうしても? ていうか、お前まだ十六でしょ。外に出てひとりで生きてけるの?」
「もうすぐ十七です。生きるアテなら間に合ってます」
「夜蓋さんのこと? じゃあ、あれが死んだら帰ってくる?」
「ぶん殴られたいんですか」
「帰って来てくれるならそれでも良いかな」
「呆れた。そんなに片付けが嫌ですか」
「本が片付かないのも嘘じゃないけどさ」
由希はストロベリーラテに刺さったストローを摘み、からん、と氷をかき混ぜました。
「ほんとは、リッカがいないと寂しいから」
……寂しい?
寂しいと言ったのですか、この男は。
僕はきれいな顔をまじまじと見ました。不貞腐れている頬に嘘はないように思います。嘘など必要のない世界で育ってきた人間ですから。
「みんな俺の言うこと聞くだけで、つまんない」
呟く由希は拗ねた子供のようでした。
あぁ。
気付いてくれたのかと思います。
同時に、気付いてしまったのかとも、思いました。
父母から僕だけが叱られる日々の中で、物心が付くにつれて、僕にはひとつ分かったことがあります。
傍若無人。――傍らに人無きが若し。
由希の周りに、由希の言うことを聞く者しかいないなら、由希はひとりぼっちと変わらないのです。
彼が一生そのことに気付かなければそれでも良かった。けれどもしも、いつか気付いてしまったら?
だから僕は、由希を好きでなくなることにしました。
あの島では誰もが由希に甘かったのです。
誰もが。
誰よりも、幼い僕が。
あんなに痛い思いをしたのに、僕は彼を怖れられなかった。お兄ちゃんなんて呼んで慕い続けてしまった。恐怖を欠いたのは僕のせいではないのでしょう。けれど、その異様さに気付いてからは僕自身の責なのです。
きっと由希の在り方を致命的に歪めたのは、真皮を焼かれてなお由希を愛した、幼い僕の無邪気さだったから。
「僕は島には帰りません」
けれど、と、言葉を継ぎます。
「あなたがこうして外に出て、僕に会おうとするのを、止める権利もありません」
由希はストローに付けた唇をぱっと離しました。
「いいの?」
「あなた、僕を馬鹿だと思ってるんですか。それすら嫌なら、探されたらすぐ居場所がバレるような真似はしませんよ」
「そっかー。じゃあいっそ、俺がこっちに越してこようかな」
由希はご機嫌な顔でスマホを取り出します。
「電話ですか?」
「うん、夜蓋さんにね」
画面がタップされ、ほどなくして通話は繋がりました。
「こんにちは。うん、うん。リッカと話せたよ。やっぱり楽しい。それでね、お願いがあるんだけど」
ただでさえ綺麗な声が、唄うように言います。
「あなたに消えてほしい」
僕の手元でグラスが倒れました。
チョコラテと氷がテーブルに広がります。僕はラテに濡れた天板に手をついて身を乗り出し、由希のスマホを奪い取りました。
「わ、何するの、リッカ」
「こっちの台詞です!」
画面を見ると、取り上げた拍子にか通話は切れていました。かけ直して夜蓋さんに謝るか、目の前にいる由希を問い詰めるか。迷っているうちに由希はストロベリーラテをまた一口飲んで言います。
「俺もリッカと同じ家に住みたいから。あの蛇、かさばるし。いない方が良いかなって……ダメだった?」
「駄目に決まってるでしょう」
僕の糾弾に由希はますます不思議がって小首を傾げます。喉の痣が蠢いて見えました。
「えー? 俺は綺麗だから、リッカ以外はみんな嫌がらないじゃん。俺が『出てって』って言えば誰でもすぐ島から出てったし、父さんだって俺が『消えて』って言ったら死んで、……まぁ、死に損ねたけど。でも死のうとはしてくれたし」
「父さんが?」
「言ってなかったっけ? リッカのお母さんが死んでから毎晩グズグズ泣いて鬱陶しくて。泣くたび泣くなって言うのも面倒でさ」
「それで、消えろと」
「うん」
眩暈がしました。
あれは事故だと聞いていたけれど、やはり入水だったのか。二人目の妻を喪って、可愛い息子にそのようなことを言われて。それで。
……本当に、それだけで?
何かざわざわと、嫌な予感がしています。得体の知れない感覚です。耳の奥、頭の中に霧がかかっているような気がする。
「リッカさん」
不意に声をかけられました。いつの間にか、掃除道具を持った店員さんが横に立っています。零したチョコラテはテーブルの縁まで広がり切って、ぽたぽたと床へ滴っていした。
「あ……、すみません、汚してしまって」
「大丈夫ですよー」
彼女は白い布巾でテーブルを拭きながら、少しバツが悪そうに、しかし親切心であることは確かな口調で言いました。
「リッカさん達のお話聞こえちゃってたんですが、チョコ三つはどうされます? いまなら返品処理できますよ」
「……なんの、話ですか?」
「夜蓋様がいなくなるのに、接客用のお菓子だけあっても困るでしょう?」
チョコラテ色に染まった布巾がバケツの上で絞られます。
おかしい。何かは分からないのに、何かがおかしいということだけが分かります。強烈な違和感の中で縋る先を探して、僕は自分の喉に爪を立てました。人の皮膚と魚の鱗。その境界に痛みが走ります。
「由希に消えろと言われただけで、夜蓋さんが本当にいなくなるとでも……?」
「こんなきれいな声でお願いされたら、誰でも何でも、二つ返事で聞いてあげるに決まってますよぉ。それともリッカさんは違うんですか?」
「そうだよ、リッカは違うの」
由希は無邪気に、そのくせ店員さんの顔も見ないで答えます。彼は膝を組むと「拭いて」と命じて彼女に右脚を突き付けました。鉤爪がラテで濡れています。店員さんは迷いもせずに跪き、ハンカチを取り出して由希の足を拭いました。チョコレートの茶色が、ハンカチにプリントされた白兎を汚していきます。
そんなことをさせてもなお、由希の黒目がちな眼は僕だけを見ている。
直感めいたものに突き動かされて、僕はポケットに手を突っ込みました。
失声薬を掴み取り、蓋を力任せに開けて、由希の顔へとぶちまける。
「う、わっ」
薬を浴びた由希が驚きの声を上げます。多少は口にも入ったのか、けほけほと数回咳をしました。
「もう、何するの、急に」
声がわずかに掠れている。
それを聞いたとたん、僕の目に映る彼の姿が変わりました。
黒髪に混じる羽毛。
喉を覆う紅い鱗。
猛禽類の脚。
由希はずっと、美貌の人でした。玉声の人でした。痣や奇形を尊ぶ島が、まるごと魅了に落とされるのも仕方がないほど、きれいな人だと。
でも、違ったのです。
夢から醒めるようにはっきりと認識します。
鳴仙由希は、化け物だ。




