襲来
ひよひよと、小鳥の声で時計が鳴きました。
僕はアラームを止め、テキストと自習ノートを閉じます。
四月半ばの休日、九時四十五分。あと十五分すれば灯火通りの多くの店が開く時刻です。本日は、いくつか店を訪ねる予定がありました。
僕は身支度を整え、リビングに向かおうとして、ドアの内側に張った『薬』の張り紙を見てUターン。机に置いていた失声薬を手に取ってから廊下に出ます。
すると下のほうから、夜蓋さんが誰かと話している声が聞こえてきました。
会話の内容まではよく聞き取れませんが相手は女性のようです。もしかすると化生屋を頼ってお客様がいらしたのかも知れません。
それなら、呼んでくれれば良かったのに。
僕は一階へと降ります。
カフェスペースには予想通り、夜蓋さんと向かい合う女性の後ろ姿がありました。
海のような濃紺のワンピースを着て、細い毛質の髪を簡単にまとめています。襟ぐりの開いた服のデザインに、その首はどうにも病的に細く見えました。
「リッカ」
夜蓋さんが僕に気付いてこちらへ視線を向けます。つられて女性も振り返りました。
僕が「いらっしゃいませ」と礼儀正しく発するはずだった挨拶は、喉の奥に凍り付きました。
幸も薄げな彼女の、肉付きの悪い頬に、薄桃色の、鱗模様の痣が浮かんでいます。僕は写真でしか知らない顔でしたが、その整った顔立ちと痣は見間違えようもありません。
彼女の名は鳴仙澪。──由希の、実母でした。
* * *
由希と僕には血の繋がりがありません。
僕は母の、由希は父の、連れ子同士でした。
初めて顔を合わせたのは僕が三歳の時のことです。記憶など残らぬほうが多い年齢ではありますが、あの時の衝撃を、僕はいまもはっきり覚えています。
五歳年上の彼は、とんでもない美少年でした。
その頃の僕はまだ臆病で人見知りで、母の後ろに隠れながら、兄となる人の姿に陶然としたものです。抜けるように白い肌。黒目がちな丸い瞳。カラスの濡れ羽のような髪。無論のこと幼少期の僕はそのような麗句を知りませんが、幼心にも焼き付く美しさであったのは間違いないことです。
彼の喉を覆う紅い痣も、歪んだ右脚も、その美しさを損なうものではありませんでした。むしろいっそうに尊くすら思えたものです。
そして、極めつけは、その声。
「怖がらないで」
僕にかけられた声はどんな鈴より澄んでいました。
大丈夫。
怖くないよ。
怖がらないで。
それから数ヶ月ほど──僕の喉が焼かれるまで、折に触れては囁き続けられた台詞に誘われて、僕はふらふらと母の後ろから歩み出しました。
何者をも逆らえぬ、その美しさ。
彼こそはまさしく、鳴仙島の人魚でした。
……その産みの親が、由希によく似た顏で、僕にニコニコと微笑みかけています。
この店で応接に使うテーブルは相変わらず、椅子を片側にしか置いていません。
夜蓋さんには座るという概念がなく、僕はいつも彼の後ろに控えているからです。その立ち位置は、店主と助手の上下関係というよりは、僕の安全を考えてのものでした。
しかし化生屋ではなく「鳴仙リッカ」を訪ねて来たお客人が相手となれば、僕が夜蓋さんの背に隠れているわけにはいきません。僕は隣のテーブルから椅子を持ってきて、澪さんの正面に座りました。場所を譲ってくれた夜蓋さんは、僕の後ろではなく隣に、そっと骨を降ろしてくれます。
「……はじめまして」
出奔した前妻と、後妻にして亡妻の連れ子。微妙過ぎる関係に、僕はひとまず行儀良く言いました。
「えぇ、はじめまして」
「よくここがお分かりですね」
「ふふふ。最初はどこを探そうか迷ったけれど、学校に聞いてみたら簡単に分かったわ。真面目にお勉強してるのね」
「ええ、まぁ。あなたの方は今までどうされてたんですか。もう亡くなっているのではとも言われていましたが」
「幽霊じゃないわよ? ほら」
テーブルの脇から右脚の先を見せて、彼女は生身であることを示しました。
澄んだ声といい、気安い仕草といい、妙にあどけない雰囲気のある女性です。顔立ちも若い。由希の母親なのだから、若く見積もっても四十歳手前のはずですが、二十代半ばくらいにしか思えません。
僕は困惑を隠せないまま訊ねます。
「それで、ご用件は何でしょう」
「島に帰って来てほしいの」
「……何故」
「本が片付かなくって」
「お断りします」
ほぼ反射的に、間髪入れずに切り捨てていました。
初対面の相手に対して語調が強すぎたかも知れません。しかし、湧きかけた罪悪感は澪さんの反応にあっさりと霧散します。彼女は憤るでも傷付くでもなく、ただ不思議そうに口を開きました。
「由希さんが望んでいるのに?」
その名前を聞くなり僕の喉が強張ります。皮膚と違って伸縮性をもたない鱗の縁で、火傷の跡が引き攣れました。
「アイツが望めば誰でも従うと思わないでください。だいたい、由希が僕に何をしたか、御存知のうえでおっしゃってるんですか」
「あなたの首を焼いたことを言ってるの?」
澪さんは無邪気に言いました。
「痛くしたのは悪かったわね。でも、声が潰れなくて良かったわ。たくさんお喋りできないとつまらないもの」
……あぁ、わかった。
あどけないのでなく、人の心があまりない。
この人は由希にとてもよく似ている。
立ち上がった勢いで椅子がガタンと揺れました。いや、違いますね。立ち上がると同時に僕が一歩を退ったせいで、膝裏が椅子を蹴ったのです。
「お帰り下さい。僕は他の人達みたいに、諾々と由希に従うつもりはありません」
僕は壁際に掛けていたカーディガンとバッグを掴みました。
「出かけてきます」
あえてしっかりと、夜蓋さんにだけ向けて告げます。
「リッカさん。待って」
横をすり抜けて外へ向かおうとした僕の肩を、澪さんが立ち上がりざまに掴みました。
――細い薬指が、鎖骨にかかる。
本当に、本当に、本当に本当に本当に不愉快なのですけれど、反射的に、僕の足は止まっていました。振り払えばこの手は簡単に外せるでしょう。なのに動けない。
「ねぇ、一緒に帰りましょう?」
哀れっぽい声を出さないでほしい。
そう願った瞬間、肩を掴んでいた手が離れました。絡みつくような重みから解放されて振り返ると、案の定、夜蓋さんが澪さんの手首を掴んでいます。子供じみた彼女の顔が、不満げに夜蓋さんを睨めつけました。
「邪魔をするの?」
「リッカに何かを強いることは、看過できない」
ここまで成り行きを黙って見守っていてくれた彼は、澪さんの手を掴んだまま、薄紫の眼を僕に向けました。どうする、どうしたい、と、その視線がはっきりと僕に問いかけています。
「お守りは、不要です」
「……そうか」
夜蓋さんは手を放しました。彼の淡い声が、少し躊躇いながらもいつも通りの調子で応じてくれたことに、ほっとします。
それから、僕は横目で澪さんの顔を見ました。
少し冷静になって考えれば、この人を夜蓋さんのところに残しておくのもご迷惑でしょう。というかそれはそれで僕が不愉快です。
僕はなるべく、素っ気なく言いました。
「ついてくるならご勝手にどうぞ」
お客様はとたんに機嫌を直して「一緒に行くわ」と答えました。
* * *
「で、どこへ行くの?」
「通りの店をいくつか回ります」
最初に向かうのはアンディさんの洋裁店です。例のジャケットについて、仮縫いの試着を約束していました。
来店予約は開店直後の一〇時だったので、既に遅刻です。それで早足に歩き始めたのですが、後ろを付いてくる澪さんは二メートルも耐えずに遅れだしました。由希ほどではないようですが、澪さんも足が悪かったのか。
まさか迷子にはならないでしょうが……。
僕はしかたなく、歩調を緩めました。洋裁店も同じ灯火通りの店ですから、のんびり歩いたとしても数分の距離です。置き去りにはせず、けど絶対に隣には並ばない程度の距離を保ちながら移動して、僕は目当ての店のドアを開きました。
「すみません、遅れました」
「いえいえ、ようこそいらっしゃいませ」
カウンターで待っていたアンディさんは今日も紳士的なベスト姿で、快く僕を迎えてくれます。それから、僕に続いて入って来たのが夜蓋さんではないことに気付いて、訊かれます。
「そちらはお連れ様ですか?」
「えぇ、まぁ、はい」
「然様でございますか。では、こちらへどうぞ」
案内されてフィッティングルームに入ります。トルソーには白いしつけ糸で縫われたジャケットが掛けられていました。大きな鏡の前に立ってカーディガンを脱ぎ、仮縫いのジャケットを羽織らせてもらいます。
布地はするりと肩に馴染みました。
「いかがですか?」
「なんていうか、シルエットは結構きっちりしてるのに、着心地が良いですね?」
ファッションには疎いもので、語彙の足りないことが悔やまれました。鏡面に映る僕のジャケット姿は、既製品なら少し余って浮きがちな肩先のラインが身体に沿っていて、余計な皺や膨らみがありません。
「まだ仮縫いとはいえ、リッカ様の身体に合わせていますからね。仕上がりの時には更にフィットしますよ」
彼は自信をもって言うと、ジャケットのあちこちを確認しては、数か所に針を入れて微調整をします。
そんな仕事ぶりを気にもしないで、澪さんの手が無遠慮にジャケットの袖を摘みました。
「夏物っぽいけど、長袖なのね」
「ちゃんと涼しいですよ」
「けど堅苦しい」
軽やかなワンピースを着た人間は、不満げに呟きます。そういえば由希のクローゼットの中身は、柔らかい生地の服ばかりでしたね。
ジャケットの背中のラインを確かめていたアンディさんが、付けられた文句に弱った顔をします。
「お気に召しませんか。夜蓋様からは、お客様の前でも失礼のないものでとオーダーをいただいたものですから、薄すぎる素材や七分袖は避けたのですが」
「そんな窮屈な思いをして働く必要はないのに。リッカさんは島に戻って、由希さんの傍に居れば良いのだから。ね?」
僕は『女性は家庭に入るもの』という時代に生まれたお嬢さんか何かですか。
澪さんの声が、皮肉でも嫌味でもなく善意らしき口調であるあたり、余計に質が悪い。夜蓋さんは心配性ではあっても過保護ではなかったのだなと思い知ります。
「仕事にも使えるようにというのは、夜蓋さんの建前ですよ」
「なぁに、それ。嘘ということ?」
「あの人は嘘は吐きません。客前に出て僕に引け目のないようにというのも、理由のひとつです。けど、たぶん、一番の理由は僕にあまり薄着をさせたくないからなんですよ」
無痛症を患う子は外傷が多くなりがちだそうです。痛みという警告を受けられないから怪我を繰り返してしまう。僕もそれと似たようなもの。夜蓋さんとしてはヒヤヒヤする場面も多かったのでしょう。
「だったら、なおのこと帰らないと。外で暮らすより、慣れた家に居たほうが安全じゃない」
「……あなたの言葉が善意であることだけは、理解しておきますよ」
帰り際にアンディさんが出してきてくれた七分袖のカタログは丁重に断って、僕は店を出ました。
* * *
次は何処に行くのかと問われ、僕は「お化粧品屋さん」と答えました。向かうは玉葉さんの揺月堂です。
「何を買うの?」
「口紅を」
「誰かに贈り物? それともあの店で使う小道具か何か?」
「自宅用です」
「……リッカさんがお化粧をするの?」
「必要な時にはします」
出し抜けに、澪さんの手が僕の顎を掴みました。ぐいっと首を捻じ曲げるようにして、引き寄せられます。
「似合いそう。付けて見せてくれる?」
「必要がありません」
今度はちゃんと自分で彼女の手を払い除けました。
化粧屋さんの入口はガラス張りのモダンなもので、黒を基調にした陳列棚に口紅や香水が並んでいます。店のどこに立っても良く照らしてくれるのでしょう複数の照明の中、既に何人かお客さんも来ていて、髪を隙なくセットした店員さんたちが応対していました。
店に入るとこちらから声をかけるまでもなく、玉葉さんが出迎えに来てくれます。
「いらっしゃいませ、リッカ様。……あら、夜蓋様はご一緒ではないのですね。そちらのお客様のお付き添いですか?」
玉葉さんもまた、意外そうに言いました。一方で僕の連れは、玉葉さんを無視して物珍しそうにディスプレイを見回しています。
「普通に買い物です。いつもの口紅を三つお願いします。そっちの人は無視してください」
「まぁ。あけすけに、冷たいことをおっしゃる」
扱いの雑さで身内だと見抜かれた気がしました。しかし玉葉さんはそれ以上は余計な詮索をせず、僕のオーダー通りにカウンター裏から口紅を出してくれます。
一般的な棒紅ではなく、貝に塗られた京紅でした。それは赤とはかけ離れた緑の光沢を放っています。店内をふらふらしていた澪さんは身勝手に戻ってくるなり、奇妙そうに呟きました。
「これが紅?」
「はい。純度の高い紅は、塗り重ねると玉虫色になる特性がありますから。良ければお試しになりますか? こちらは仕上がりが自然になるまじないを施した人気商品でございますよ」
連れのことは無視してくださいと申しましたのに、やはり、そういうわけにはいきませんか。
玉葉さんは試供用の小さな紅と、それを溶くための水を出してくれました。塗り方を教えられ、澪さんの薬指に紅が取られます。
そして紅くなった指先は、僕の唇へと。
……普通に避けたので、その指は僕の口ではなく頬を掠めました。
「どうして避けるの」
「必要がないと言いました」
「あるわ。色が合っているか見てあげる。リッカさんが付けるものなんでしょう?」
再び紅を取って塗りつけようとしてくる手を「やめてください」と突っぱねます。
「まぁ、まぁ、お二人とも。あまりじゃれ合わずに」
見かねた玉葉さんが仲裁に入り、僕に化粧落としのシートを差し出しながら言いました。
「それに、これはリッカ様ではなく、夜蓋様の紅ですよ」
頬を拭おうとした僕の手が、ぽとりとシートを取り落とします。
夜蓋さんはナチュラルメイクに仕上げているだけで化粧していること自体は別段隠していません。が、それを揺月堂さんが勝手に語るのは、話が別ではありませんか。
僕は玉葉さんの影が映った壁へ目を凝らします。きらびやかな照明の数だけ影もブレるので尾の数をきちんと数えるのは難しいのですが、ボリューム感からして、七本は無さそうてす。
玉葉さんのナリをした誰かは、つらつらと話を続けました。
「あの御方は血が紫でいらっしゃるから、唇も、素では竜胆色でいらっしゃるの。それが一層と神秘的でお美しいのですけれど、美し過ぎると少々怖ろしくもなってしまうでしょう? ですから、紅をお刷きになるのですよ」
「あら、そうなの。元が竜胆色じゃ、怖いだけな気がするけれど」
「こればかりは実際にお目にかからない限りは想像の及ばぬことかも知れませんね」
そう語る偽玉葉さんの首に、背後から伸びてきた手が回りました。
「お客様の事情をべらべらと喋ったのは、この喉かしら?」
奥のドアから出てきた本物の玉葉さんの、白魚のような指が、偽玉葉さんの喉笛へ容赦なく食い込みます。くるりと白目を剥いて偽玉葉さんは気絶しました。呻き声ひとつ上げさせぬスマートな手際です。
偽玉葉さんの身体は煙を纏って五尾の狐……というか狐バージョンの雷令さんの姿となり、首根っこを掴まれる形で玉葉さんの手にぶら下がります。別の定員さんが黒子のごとく素早く寄ってきて、ぽいっと捨てられた雷令さんを受け取り、店の奥へ下がって行きました。
玉葉さんは僕に頭を下げます。
「申し訳もございません。愚弟を店に立たせた私の責任です」
「いえ……。こちらこそすみません。雷令さん、大丈夫ですか」
「目はすぐに覚めるかと」
彼女は化粧落としで僕の頬を拭ってくださいました。それから、失礼しますと断って澪さんの手を取り、薬指に残った紅も拭き取ります。
「どうかお控えくださいませ。夜蓋様と違って、リッカ様のお化粧は非日常の偽りごと。あなたはリッカ様に近しい間柄とお見受けしました。普段なさらない粧いを見られるのは、気恥ずかしさもございましょう」
「あぁ。だから嫌がったの? リッカさん」
答えたくないので、僕は黙って財布を開きました。




