花嫁行列
その鎌は、古いけど手入れはされている農具でした。柄は黒ずんでいますが、刃は研がれて切れ味は保たれているように見えます。正継さんは物を大事に扱う人なのでしょう。これを借りてお手伝いすればよろしいんですか、と、柄に触れようとしたら、刃は角度を変えて僕の顎下に向けられました。
「すまん、坊ちゃん」
背後で正継さんが呻くように言います。
「たのむから抵抗しないでくれ」
「…………」
あ、これ脅迫か。
暴力をもって強いること。その概念は常識として知っていますが、実際に見るのは初めてです。鳴仙の傍若無人なあの野郎は、傍若無人ではあっても僕を脅すことはありませんでした。声をかければそれだけで従う人間に囲まれて育ったものだから、強いる、という発想は逆に貧弱な奴なのです。
僕は遅まきながら両手を上げました。
「正継さん。一応聞きますが、動機は何です?」
「蛇神様に姫様を変えてもらう」
「でしたら不要ですよ。彼女は白無垢にならないことに同意してくださいましたから」
「なんだって?」
力が抜けたように、刃が少し下がります。
「えぇ、ですから……」
僕が慰めらしき言葉を出そうとしたのも束の間、鎌はぶるぶると震えました。
「姫様が俺を見限ったのか」
「え? いえ? それはニュアンスがだいぶ違いますよ? 無理強いはしないとおっしゃっているだけです」
「……坊ちゃん。アンタ良い子すぎて、嫌味とか言葉の裏が分からんようだ。そういうのを、見限ったって言うんだよ」
いいえ。姫様の態度はけして失望によるものではありませんでした。しかし僕がそれを伝える前に「もう喋らんでくれ」と拒まれてしまいます。正継さんは乱暴に僕の襟首を掴み、引き摺るようにして歩き出しました。
夏でなくて良かったな、と思います。着ているものがサマージャケットではなく、安売りのカーディガンで。
アゲハ蝶はいつの間にかいなくなり、正継さんの側に漂うオコダマは、三匹に増えていました。
* * *
家に戻ると庭に面した戸は開けられていて、既に蚕室から降りた夜蓋さんが僕達を待っていました。
「………」
無言で、薄紫の眼が細められます。
あんなに白い睫毛でも、伏せれば瞳は翳るものだと知りました。
「リッカ」
「はい」
「私が、呼ぶまで、絶対に、動くな」
文節をひとつひとつ区切って言い聞かせられます。僕は普通に頷きそうになった首をギリギリ静止させて、声だけで「はい」と答えました。
動くな、なんて、普通なら脅す側が要求するような内容です。夜蓋さんのひと睨みで気圧されていた正継さんが、その発言にかえって気を持ち直したのか、自らを奮うように鎌をいっそう強く握り締めました。
「蛇神様。この子に怪我させるのが嫌なら、俺の言うことを聞いてもらえるか」
見せつけるように刃が僕の喉元へ引き寄せられました。人間の皮膚より温度に敏感な鱗が、金属の冷気を感じ取ります。
夜蓋さんが、口を開きました。
「要求への是否を答える前に、問おう。あなたが姫の白無垢を望む、『本当の』理由は何か」
「……お分かりにならんか」
正継さんは苦々しげに吐き捨てました。
「想像は付く」
「だったら」
「お前自身の言葉で語れ、と、言っている。リッカに凶器を向けながらその程度の誠意も見せぬ気か」
低い、低い声でした。
夜蓋さんには似合わない重く沈んだ響きです。
感情だけでこれほど声音が変わるのかと思いましたが、違う。
彼が着た黒い服の裾、その内側。どこかで途切れているだろう夜蓋さんの肉から、昏い紫色の血が溢れ出しました。それは背骨を伝い落ち、目隠しの布をドロリと溶かすと、座敷を侵して畳を泥濘に変えていきます。広がる沼の中で、鰭の大きな魚がびちゃりと跳ねました。
夜蓋さん、と呼ぼうとして吸った空気は、煮詰めすぎたジャムのように甘い。恐れ知らずの僕ですらそう感じるなら、まともな人にはきっと毒のようでしょう。
「ぅ、ぁ」
正継さんが呻き、なかば恐慌の様子で鎌を夜蓋さんへ向けました。
もちろんそんな威嚇に意味はなく、僕の首が解放されただけです。その隙を逃さず、夜蓋さんの白い指がこちらを差しました。とたん泥の中から魚が飛び出し、正継さんの持つ鎌に喰らい付きます。鋭く光っていた刃は一瞬で錆び崩れ、木製の柄は腐り落ちました。
「リッカ」
呼ぶまで動くな、とは、呼ぶからおいで、ということ。
僕は迷わず飛び出します。襟を掴まれたカーディガンを脱ぎ捨てて、そのまま座敷に駆け込みました。土足で失礼。だって僕が戻らないと夜蓋さんは鎮まらないでしょうから。まだ二ヶ月に満たない付き合いですが、彼がこういうブチ切れ状態を良しとする性格でないことくらい分かっています。
靴底がぬかるんだ畳を踏み、重い雫が跳ねました。
飛び込んできた僕を、肋骨を泥に浸した夜蓋さんは危なげもなく受け止めます。
「怪我は?」
「してません」
答えるなり、足元で畳が乾いていくのを感じました。
紫の血潮が夜蓋さんの内へ引いていく。毒気が満ちるようだった空気に朝の涼やかさが戻ってきます。
ケホ、ケホ、と正継さんが咳をする音がしました。
彼は錆び崩れた鎌の前に膝をつきます。そして、やおら蹲り、額を地面に擦りつけました。
「お願い、します。お願いします。どうか、曾孫が姫様のお世話をできるようにしてください」
その一言が堰を切り、嗄れた声が溢れ出します。
「母親が姫様の糸に触れるほど、生まれた子は良く姫様を見るようになる。それは俺も知っていました。ここの村の者なら皆知ってたことです。けど、もうお蚕を飼う家もウチが最後だ。姫様が見える者も残ってない」
……やっぱり、姫様のためだった。
正継さんの涙声を聞きながら、僕は遣り切れない気分になりました。
おそらく彼も、もう、姫様の姿が見えていないのです。
目蓋も口もなくとも、彼女の仕草は表情豊かでした。なのに正継さんが見ていたのは字を形どる絹糸だけ。彼の片目は白く濁り、そしてもう片目は、きっと手術が悪く働いてしまったのでしょう。白内障の手術は眼のレンズを人工物に挿げ替えるものだと聞きました。正継さんが実体のない姫様を見る能力が、もし水晶体に宿ったものなら、術後の眼に映るのは姫様と蚕魂の消え去った世界です。
「このまま姫様をお守りする者がいなくなったら、どうなりますか。桑も、家も、無うなったら」
正継さん、と。
呼びかけようとした僕の口を、すっと出された夜蓋さんの手のひらが塞ぎました。え?
戸惑う僕の耳に、この村最後の蚕飼いさんの、振り絞るような声が届きます。
「どんな祟りがあるか……!」
……………。
は?
「俺はもう老い先短い。姫様に取っていかれるならそれでもいい。けど、孫たちは違うんだ。なぁ、お願いです。姫様の姿が見えもしないのでは、何があっても、どうにもできないではないですか」
彼は何を言っているのでしょう。『取っていかれる』とは。『何があっても』とは。言葉の意味がわかりません。しわがれた、震えた声。嘆きではない何かで震えている声。分からない。いいえ、分かっています。
バイアスがかかっていたのは、僕の方だった。
あやかしをあやかしと知っていて傍にいるのなら、そこに恐怖はないと、思い込んでいた。
とんだ勘違いです。
彼は姫様を恐れている。
──僕の愚昧を制してくれた夜蓋さんの手だけが、優しい。
僕はその手に触れました。縋りたかったのかも知れないし、その存在を確かめたかったのかも知れません。滑らかで冷たい皮膚の感触が指に伝わってきます。夜蓋さんはただ、僕になされるがままでいてくれました。
「かつてのあなたは、言葉を介さずとも姫の心をよく汲み取れたのだろうな」
嗚咽して土を掻く正継さんに、夜蓋さんは言います。
「しかし眼を患ってその自負は失われた。よく見てきた分だけ彼女の姿を捉えられぬ不安は深くなり、不安はいつしか疑心に、疑心は恐怖になった」
軒上を蝶が飛んでいる。正継さんの、今は小さく見える背に、淡い影がひらひら踊りました。
「蚕飼いよ。あなたの苦しみは認めよう」
夜蓋さんの声音が慈悲を帯び、正継さんは土に汚れた顔を上げました。その顔に、化生屋ははっきりと告げます。
「だが、私の客は、あなたではない」
蝶が。
夜蓋さんの言葉と共に舞い降りてきたアゲハ蝶が、陽炎を纏って変化します。大きな翅のように黒い振袖が広がりました。艶のある黒地の絹に、百花の刺繍を縫い上げた晴れ着です。袖だけでなく裾も長く垂れていて、地面に引き摺りそうなところを女性の手が絡げ持ちました。
凛として地に立つ彼女の横顔に、小ぶりな唇が見えます。角隠しを載せた結い髪も黒く、ただ、その花嫁の大きな目に、蚕の面影が見えました。
正継さんが呆然と呟きます。
「姫様……?」
「もちろん、私であるぞ」
彼女は涼やかな声で答え、袖をひらりひらりと振ってみせました。
「揚羽の仕立てだ。これはこれで美しかろ? しかも、ほれ、このとおりよく喋る。蝶とて鳴く虫ではないのになぁ。いやはや、上手いこと化けさせてくれるものだ」
満足げにおっしゃると、蝶と化した姫は、まだへたり込んでいる正継さんの前に身を屈めて、彼の頭をぽんと撫でます。
「坊よ。私は跡継ぎを欲して白無垢を勧めたわけではない。あの衣装を着た花嫁をな、お前にもう一度見せてやりたかったのだ。この前の嵐で婚礼写真も駄目になってしまったろ? きちんと伝えずに悪かったなぁ。お前は私のことなど何でも分かると、胡座をかいていた」
「違う!」
正継さんが大きく首を横へ振り、わなわなと口を開きました。
「姫様は何も悪くありません!」
「うむ。そうだな、私は悪くない」
姫様はあっけらかんと答え、
「そしてお前も悪くない」
淀みなく言い切って、屈めていた背を伸ばします。正継さんの眼が彼女の顔を振り仰ぎ、花嫁が笑むのを見ました。
「せっかく得た蝶の身だ。私はこれより野へ飛び立ち、揚羽の嫁となって、翅に綾成す子を産もう。そなたは人ゆえ、これからも己の子孫に良くして、良く生きよ」
「そんな、姫様、わたしは……」
「これまで大儀であった」
ふらふらと正継さんが伸ばした手には応えず、黒い袖が翻ります。姫様が家から出ていく。その足取りはあまりに軽やかで、正継さんはそれ以上縋れないまま、泣き崩れました。
庭に嗚咽する声だけが残されます。
「リッカ。花嫁御寮の供を」
僕の口元から手を離し、夜蓋さんが囁きました。
「返礼を受け取っておいで」
そう促されて、僕も庭へ出ます。
あちらこちらからオコダマが漂い出て、姫様の後に付いていく。僕はその花嫁行列に加わります。そして養蚕の家から十分に離れた頃、彼女に呼びかけました。
「あの、姫様、その身体で」
「分かっておる」
黒い艶消しの、薄い草履で、ふわりふわりと歩きながら姫様は言います。
「あの蛇神から借り受けた身体で子は成せぬのだろう? 私が夫を得て卵を産めたとしても、それが孵る前に私と一緒に解けてしまうものな。蚕と蝶では子に成らぬよ」
やはり彼女は何もかも承知の上で、偽りごとを遺言にして、こうも軽やかに歩いているのでした。
「対価は……」
「我が身のすべて。ふふ、それでは重すぎると渋られたがな、『客を守る責務』と言って、守るものは命ばかりではなかろうさ。私はもう家に戻らぬと決めたのだ。あの化生屋は白く美しい。カラスの嘴で身を突き破られるのや、地に朽ちて蟻に食い荒らさるより、よほど趣のある終わり方だろう?」
花に彩られた黒い着物は慶事の装いですが、艶のない黒い草履は、弔事の装い。この歩みは彼女の葬列でもありました。
花嫁が振り返り、僕の浮かない顔を見ます。
「人の子や。憐れみも良いが、あまりお前の眼だけで私を量るでない。たとえ蛹が羽化しても春の蚕は夏を越えぬ。一度きりの更衣、一度きりの嫁入りが死出の旅にも等しき蟲など、珍しくもないものぞ。糸車のように季節を廻らせてきた我が身は、ちと、恵まれ過ぎていた。嫁かず後家もほどほどにせぬとなあ。一代きりの命でも紡いでゆけるもののあるヒトの女とは違うのだもの」
姫様はやおら、隣を飛んでいた蚕魂を捕まえます。
「砕く心があるのなら、マサ坊のために砕いておくれ。アレも根は善良なのだ。お前はその証拠を既に見ているぞ? 私を祀る者が私を怖れていたのに、私は一抹も穢れず白いままだったろう。坊は私を恐れたが、確かに私を慈しんでもいたよ。だからあの子の恐れはこんな風に――」
白い手が小さな繭を摘まんで割り開きます。転がり出るのは、身動ぎもしない、黒い蛹です。
「――けして孵らぬものの中に封じられた。いじらしいではないか」
朝日のもとに出された蛹は、風に吹き散らされて消えました。それを名残惜しんで手の平を撫でてから、姫様は白い襟の中で首を傾げ、僕に問いかけます。
「これも私に混じる人の心がそう言わせるのだと思うか? 人間に都合の良いように、蚕の心を騙っていると」
「そうだとしたら、あなたは誰かを恨みたいですか」
姫様は口を大きく開け、ケラケラと高らかな声で笑いました。
「馬鹿なことを。私は生まれた時から一寸など優に超えたる蚕の姫。人の魂を孕まぬ私など初めからおらぬのに、何を恨めと言うのやら」
新芽の桑畑を抜けて、花嫁行列は蚕塚へと辿り着きます。
その脇に通っている道を、一台の車が走っていきました。運転席の男性は姫様に気付かず僕にだけ会釈し、後部座席の女性は一瞬驚いたように花嫁へと顔を向けましたが、見間違いかという表情をして、すぐに視線を前へ戻しました。
姫様がどこか誇らしげに言います。
「なかなか似合いの番だな」
「今の、もしかして」
「マサ坊の孫だ。何だかんだ、心配になって様子を見に来たのだろ」
姫様は若い夫妻を見送りました。車は高窓の家の前に止まり、運転席から出てきた旦那さんが奥さんに手を貸します。彼女のぺたんこの靴は危なげなく地面に降りました。
「……幸いであったよ。この里に廻った命の、何もかも」
風が吹きます。
姫様は振袖をそよがせて、その風上へと向かいました。
「さぁ、良く見よ。この翅ならば飛べることは本当だ」
晴々と、角隠しが外されます。結われていた髪が広がると同時に、黒い振袖も錦の帯も数多の糸へと解け、端のほうから消えていきます。
いってしまう。
幾筋かの糸が頬に触れるのを感じながら、僕はせめて、餞の言葉を口に出しました。
「正継さんには」
舞う春風と絹糸の中、彼女が振り返ります。
「ここはきっと、シルクみたいに綺麗な蝶が飛ぶ土地になると、お伝えします」
「―――」
この村の神は、艶やかに笑みました。
そうして糸は解け切り、ひとひらのアゲハ蝶だけが、野に羽ばたいていきました。
* * *
帰りのバスは、行きよりも少し揺れました。
姫様をお見送りした後、僕はけして軽くはない足取りで正継さんの家に戻りました。彼とお孫さんは既にお叱りと謝罪のやり取りを終えて、これからのことを話していました。
正継さんは近いうちに左眼も手術されるそうです。
……僕は彼に、姫様に伝えたのと同じ言葉を、伝えました。
小さなバスは意外と力強く、未舗装の道をぐんぐん進みます。窓の向こうで蚕の家も石碑も遠ざかっていき、ぐらりと傾いだ僕の肩を夜蓋さんの手が支えました。
「すみません」
お礼を言って離れようとした僕の頭に手が回されて、彼の肩にもたれるよう引き寄せられます。
「気疲れしたのだろう。少し休んでいるといい」
「別に脅迫されても怖くないですよ?」
「刃は平気でも、最後に吐いた嘘が重かったろう」
「嘘も得意ですが」
「上手にできることと苦痛がないことは違う。嘘と演技も似て非なるものだ。まして、誰かの去り際では、その重さも一層のことだろう」
そう言われて僕は、最後に正継さんへ告げた言葉が、これまでしてきたような僕自身を偽る演技ではなく、純然たる虚言だったことに気付きます。
僕は素直に、夜蓋さんの肩にこめかみを預けました。
「僕、この仕事、好きですよ」
「そうか」
相変わらずの返事に安堵して、目を閉じます。




