姫様のお願いごと
* * *
正継さんには、ひとまず自室で休んでいただくことになりました。
お一人暮らしでも部屋はきちんと整理されています。僕が布団を敷くと正継さんは大人しく横になってくれました。枕に頭を預け、やはり興奮からの気疲れはあったのか、深く息を吐きます。
「蛇神様。俺はもう大丈夫なんで、姫様のご様子を見てきちゃくれませんか」
彼は天井越しに、姫様がいらした二階の奥へと視線を向けます。
「やかましくしてしまったから、ご気分を害されたかもしれない。もしお気を悪くされていたら、桑の葉を摘んで、少し揉んで捧げてください。姫様は食べられんけど、においを好んでいらっしゃるはずだから」
「苛立っているとは思わないが、話はしてこよう」
僕達は、先ほど降りてきたばかりの階段をまた登りました。
姫君は僕達の姿を見るなり、「やっと来たか」とばかりに糸を動かします。
『まさぼうは?』
……まさぼう?
あぁ、マサ坊、ですか。
ご年配の正継さんを子供のように呼ぶ文字に、人ならざる彼女の親愛がありました。顔は幼くとも、この地で長らく正継さん達を見守ってきたのでしょう。
「命に別状はない」
姫には瞼も声もありませんが、糸の束を握った手がふわりと弛み、安堵されたことは存外はっきり分かりました。
『せわ を かけた』
「それは構わないが、蚕の姫よ。貴女に話したいことがある」
『なに』
「私と彼の話は聞こえてたか?」
その問いに姫様は、一度だけ頷いて返事をします。
「そうか、ならば話は早い。私は此度の依頼をお断り申し上げる」
ゆらゆらと、蚕の触角が、言われたことを吟味するように動きます。姫様は黒い複眼で夜蓋さんを見つめていました。
僕は少し呼吸を浅くします。恐怖は失くしましたが意識的な警戒はできます。
虫の姫君。注連縄の内に祀られたもの。オコダマに触れようとした時の、正継さんの忠告が思い返されました。
神は祟るものです。
姫君の手が動き、文字が紡がれます。
『まごが いやなら いい』
……肩の力が抜けました。
これはこれで正継さんが気の毒になってしまうくらい、何ともあっさりしたお答えです。緊張を解いた僕に、姫様が来い来いと手招きしました。僕は注連縄のすぐ前まで近付きます。が、手招きは更に続きます。
「これ、越えても良いんですか?」
注連縄を指差し、夜蓋さんに意見を求めます。
「禍津の神でもなし。招かれて入るなら問題ない」
そういうものかと、僕は縄をくぐって姫様の前に膝を付かせていただきました。
彼女は、うむ、とでも言うように顎を引きます。そして絹を纏った細腕をよろよろ持ち上げ、僕の頭に振り下ろしました。
ぺしょん。
と、全然痛くない感触が頭頂部に伝わります。
打たれたのか慰められたのかも分からないくらいの力でしたが、その意図は理解できました。「祟り神扱いなど不本意だぞ」といった感じでしょう。
「失礼しました」
謝ると追加でぺしょっとやられます。そして、彼女はまた言葉を紡ぎました。
『こちらこそ ゆるせ』
僕の頭に手を振り下ろしたことではなく、正継さんの態度についての謝罪でしょう。僕は「いいえ」とだけ答えました。夜蓋さんも「気にする必要はない」と返します。
「どれほど頼み込まれても是とは言えないが、頼まれること自体を迷惑とも思わない」
『ありがたい』
「しかし、せっかく来たのだ。貴女を衣裳に変えることの他に何か、望むことはあるか? 別段、変化以外のことでも構わないが」
夜蓋さんの言葉に、姫様はちょっと考えてから答えました。
『こんや したへ いきたい』
『まさぼう の そばに いたいが』
『そばにいたら まさぼうは』
『たぶん ゆっくり ねない』
『だから こっそりと』
いたわしげなお願い事です。夜蓋さんの答えはいつもどおり、端的で穏やかでした。
「承知した」
姫様は喜びを示すように触覚を上げ、鷹揚に頷きます。
『れい は なにが よい ?』
「礼?」
思わぬ申し出だったようで、夜蓋さんは、ふむ、と口元に指を掛けました。
「貴女を抱えて降りるだけのことに返礼など、……と言っては不敬となるか。では、リッカに何か、貴女の話を聞かせていただけるか。この子はあやかしをつぶさに見るが、直接関わった経験は浅いらしい。どんな話も糧になるだろう」
『なんでも かまわぬ?』
「貴女が語ることなら、何事でも」
『よかろう』
その言葉で彼女の限界が来たのか、糸が床に落ちます。
拾ってさしあげようと僕は手を伸ばしかけました。しかし姫様は、糸をひょいと小指にかけると、苦もなく手元に巻き取っていきました。
* * *
夢を見ました。
高窓の下、いくつも並んだ平たい籠の上で、たくさんの白い幼虫が、たくさんの桑の葉を食んでいました。蚕の数があまりに多いので、葉を喰む音がサァサァと小雨のように聞こえます。
その、強く儚い音に満ちた、広い部屋の隅で、坊主頭の男の子がうずくまっています。
声は殺していますけれど、肩がひっくひっくと跳ねて、泣いているのが分かりました。側に母親らしき女性の姿が現れて、諭す声音で言います。
『お蚕様は、繭から出ても、十日も生きられないんだよ』
男の子が口答えをすることはありませんでした。けれど、泣き止みもしませんでした。女性は諦めたように息を吐き、どこかへと姿を消します。
それと入れ替わるように、真白の姫君が現れました。彼女は綿入りの裾を引きながら、よたよたと頼りない足取りで、しかし確かに男の子へと歩み寄ります。
彼我を隔てる屏風も注連縄もそこにはありません。彼女の手は子供の頭に伸びて――。
目が覚めました。
板張りの天井が見えます。肌に触れる空気は少しひんやりとしています。
ここは、どこだっけ。寝惚けながら、ごろんと寝返りを打ちます。すると目の前に大きな黒い眼がありました。
かいこのひめさま。
「わっ」
僕は飛び退くように逆側へ転がって体を起こします。
「すみません、髪とか袖とか巻き込んでないですか」
僕の隣に横たわっていた姫様は、ふるりと触覚を揺らしました。首を横に振って否と答え、糸で『おはよう?』と綴ります。最後にわざわざ付けられているクエスチョンマークに、ちょっとした寝起きドッキリの空気を感じました。
「はい、おはようございます」
「………」
今度は『なんだつまらん』とでも言うように、彼女は細い顎でそっぽを向き、華奢な腕を伸ばしました。傍に控えていた夜蓋さんがそれに応じて、彼女が起き上がるのに手を貸します。
昨晩、あまり進まない食事を終えて正継さんが就寝された後。僕達はご依頼どおり姫様を一階へお連れしました。
僕は客間で就寝させてもらいましたけれど、夜蓋さんと姫様は正継さんの部屋の前で一晩を過ごされたはずです。
「貴女は、蚕室へお帰りになるか」
夜蓋さんが声を密やかにして姫様に問います。農家の方は朝が早いと言いますから、正継さんももう起きているのでしょう。姫様は首肯し、夜蓋さんは彼女を抱き上げて二階へ上がっていきました。
他所様のうちでいつまでも寝間着でいられませんし、僕もさっさと着替えます。そうする間に正継さんの足音が聞こえてきました。また倒れはしないかと、僕は念のため耳を澄ませました。彼の気配は洗面所へ向かい、顔を洗うと台所へ寄って、最後は居間にいらっしゃるかと思いきや、勝手戸の開く音がします。
「どちらへ?」
僕は部屋から顔を出して訊きました。正継さんは靴を履きながら言います。
「畑の様子を見に」
「今からですか? せめて朝ごはんを食べてからにしては」
「さっき漬物摘まんできたから、大丈夫なんで」
正継さんは庭を抜けて出て行ってしまいました。
夜蓋さんはまだ戻ってきません。姫様と何かお話でもされているのでしょうか。
しかたない。
僕は「外に出てきます!」と二階へ向かって声を張ってから、玄関に回って靴を履き、正継さんの後を追いました。
「ご一緒しても?」
「……別に、構いませんが」
正継さんは畑を歩き、木々の様子を見て回りました。時々しゃがんだり、新芽に触れたりして、僕にはよく分からない何かを確認します。
ひととおり廻り終えて、最後に向かったのは、桑畑の傍に立つ蚕塚でした。
彼は塚に供えられていた葉と水を新しいものに入れ替え、両手を合わせます。
僕は後ろから、その背中をただ見ていました。
同じように祈るのが礼儀かも知れません。でも真剣な人の隣で形だけの真似事をするのは、たいそう気が引けます。どちらにせよ生まれる居心地の悪さを天秤にかけて、僕は棒立ちしていることを選びました。
正継さんは祈る目を開けると、ポツリと言います。
「坊ちゃんは、蚕が人の手元でしか生きられないってのは、ご存じか」
「詳しくはないですが、はい」
僕はいつ習ったのか覚えていない『動物愛護と農業を考える』授業の内容を思い返します。
牛や豚には、農場から逃げ出しても野良で生きていける可能性がある。けれど『家蚕』と呼ばれる養殖された蚕は違う。
「枝を登れないほど脚が弱いから碌に食事ができないし、白い身体は目立つから鳥に狙われやすい。奇跡的に成虫になったとしても飛べないから、パートナーを見つけて子孫を残せる可能性もほとんどない……ですよね?」
「ああ。その通りです。そんな風に品種改良した上で、糸のために殺しちまうのが養蚕業ってもんだ。生きるために仕事してんだから、他人に残酷だって責められるのは腹に据えかねますがね。業はある」
正継さんは固い声で言って立ち上がりました。睨むようで、縋るようでもある顔で僕を見ます。睨まれても縋られても臆する心のない僕は、その眼差しを、ちょっとだけ困りながら受け止めました。
……が、つい視線を外します。
正継さんの背後に、ふわりと浮かび上がる白い繭がありました。
昨日見かけたものより一回り大きいオコダマです。どこから出てきたんでしょうか。手足が弱いどころか無いのだから、正継さんの背中に引っ付いて来れるものでもないでしょうに。
正継さんは、空へと逸れた僕の視線に気付いて言います。
「オコダマですか」
「はい」
僕が答えると、彼は奥歯を噛んで顎を強張らせました。そして僕が眼をやったあたりへ顔を向けますが、やはり彼は、ふわふわ漂っているオコダマに視線を合わせられません。正継さんは黒い右眼と白い左眼を交互に擦り、諦めて、踵を返します。
「……坊ちゃん。ちょっと、付いて来てくれるか」
それはもちろん、付いて行くために付いて来たのですが。
わざわざ念押して何処へ案内されるのかと思えば、彼が向かったのは畑の隅に建てられた何てことない小屋でした。嫌な感じも神聖な感じもしません。
「外にいてください。中は散らかってて、危ないんで」
言われた通り、僕は雑草の生えた道端に残ります。
正継さんが農具でも探しているのか、ガチャガチャいう音を背に、オコダマが風に流れていく野を眺めました。村に着た時にも見たアゲハ蝶が今度は一羽で飛んでいて、オコダマをひらりと避けて
──僕の目の前に、鎌の刃が現れました。




