断られる依頼
それは、なんとも奇妙なご依頼でした。
僕が化生屋さんの助手となってから二ヶ月弱。風変わりな体験もたくさんありましたが、衣類への変身という希望はさすがに初めて聞きます。
「確認だが、姫の御召物を変えるのでなく、姫自身を衣装に変じる依頼で違いないか?」
「その通りです」
答えた正継さんは、タンスから平たく大きな和紙の包みを取り出してきました。
畳の上で包みが広げられると、無残な有り様となった白い着物が現れます。裾に綿が入っていました。これが打掛というヤツでしょうか。ひと目で分かる立派なものですが、袖の一部は大きく裂け、水濡れらしき薄茶けた染みが広範囲に広がっています。
「妻の白打掛です。白無垢と言った方が坊ちゃんには分かりやすいかね」
正継さんは懐かしむような眼差しで打掛を見ます。
「俺が子供の頃は花嫁衣装といったら黒の本振袖でしたが、俺が嫁を取った時には白無垢が流行りでして。大抵は貸衣装だったが、これはちゃんと仕立てたものです。ウチの村じゃあ、花嫁衣装にこの村の糸で刺繍を入れるのが習わしでね。姫様は白い花嫁をお喜びになってなぁ」
彼はしみじみと語りました。
夜蓋さんが軽く身を乗り出して、白無垢の状態を確かめます。
「こうなる前の保存状態は良かったようだな。正絹は黄ばんでしまうものだが、年代のわりにずいぶん白い」
「姫様のお傍では不思議と糸が衰えんのですよ」
正継さんが、袖に入った糸巻き模様の刺繍を撫でます。残念ながらその刺繍も、水濡れに縮んで引き攣れていました。少しでも直らないものかと願うように触れていた正継さんの手が、ぐっと拳を握ります。
「もうすぐ孫が結婚するんです。これを着せてやるはずだったのに、俺の不手際でこうなってしまって。もっとちゃんと、奥にしまっておけば……」
彼は涙ぐみ、傷のある手で両目を押さえました。打掛を落涙で濡らすことを危ぶんで顔を反らし、声を震わせながら言います。
「それで姫様が、ならば自分が白無垢に変じてやろうと言ってくださったんです。化生屋を頼ればよい、仕立て屋に紹介してもらえ、と」
「化生屋を頼るなら姫君自身が変化の代償を払うことになるが、彼女はそれも承知なのだろうか」
「あぁ、あぁ……。妻の白無垢もずいぶん喜んでいらしたから、きっと孫にも、よっぽど望んでいらっしゃるんだろう。しかし、その、本当にそんなことができるので?」
「可能かと問われれば、可能だ」
夜蓋さんは、ほんのすこし、歯切れの悪い答え方をしました。よく見なければ気付かない程度ですが眉を寄せて、何か気乗りしない様子で言います。
「あなたの事情は把握した。次は、姫様ご自身の意思を確認したいのだが」
「承知しました。どうぞ、こちらへ。姫様なら二階にいらっしゃいます」
正継さんは着物を和紙に包んで箪笥に戻すと、僕達を家の奥へと先導しました。通り過ぎた廊下の隅に、割れた瓶や木材の破片、濡れて傷んだ本やアルバムがまとめて置かれているのが見えました。
正継さんは突き当りの階段を登っていきます。
「この上で蚕を飼ってるんですか?」
「えぇ。今はまだ時期じゃありませんがね」
その言葉のとおり、ワンフロアぶち抜きの広い二階には、大きなザルが、まだ空のままガランとして置かれていました。天井はスノコのようになっていて、その向こうに天窓と、ブルーシートが覗きます。瓦が飛んだのかと思っていましたが、被害はもっと深刻でした。高窓の一部が屋根ごと剥ぎ取られてしまっています。これは、簡単には直りそうにありません。壁や床には雨漏りの跡が濃く残っていました。
そして、壊れた屋根から一番遠く。
部屋の最奥に、そこだけ畳を敷いた空間がありました。三方は白い屏風で囲い、残りの正面には細い注連縄が張られています。尊く区切られた結界の中、白無垢姿の女性は、オコダマ同様に八割ほど透明な姿で座していました。
「姫様」
正継さんの声に応えて彼女が顔を上げます。
その顔には口がありません。
それゆえ際立って目立つ大きな黒い目が、こちらをじっと見つめてきます。体格は大人の女性ですが、眼が大きく顎の小さな顔は幼い子供を思わせました。頭に角隠しや綿帽子はありません。額の上から黒い櫛状の触覚が生えていて、白い髪は打掛に負けぬ豊かさで広がっています。
ひと目で分かる、彼女こそは蚕の姫君でした。
夜蓋さんが姫の前に進み出て、跪くように重心を落とします。
「お初にお目にかかる、蚕の姫よ」
「はじめまして」
僕も夜蓋さんの傍に正座してご挨拶を申し上げます。正継さんは僕達よりも後ろに控えたままです。
蚕姫は、表情のないお顔で、触角だけをわずかに震わせました。
「姫さまは見ての通り口が利けません。代わりに、糸を操って、字を書いてお話になる。最近はそれも、あまり長くは続けられませんけれども」
正継さんの言葉のとおり、蚕姫の手元には太く縒った絹糸の束があり、それがするすると宙へ伸びて僕達の前に字を綴ります。
『よろしく たのむ』
夜蓋さんは頷き、まずは訊ねました。
「婚礼衣装に化けたいというのが、あなたの願いで間違いないだろうか」
『そうだ』
「付喪の出自でないモノが非生物に化けるのは、あまり愉快な心地ではない。視覚や聴覚は残せるが、皮膚感覚は曖昧となり、動かせる指ひとつない。それでもよろしいか?」
姫様は自分のほっそりとした指を見ました。デメリットの是非を吟味するように手を開閉させてから、『かまわぬ』と綴ります。
「では、対価が必要だ。あなたを打掛に変ずるなら、翅を先から三寸ずつ」
この質問には、『かまわぬ』の字を頷くように上下させることで答えられました。
そこに怯えや躊躇はありません。お姫様らしい粛々とした様子ですが、もっと考えなくて良いのかと心配になってしまいます。
「なぁ、化生屋さま」
やり取りを見守っていた正継さんが、いてもたってもいられない、という声を出しました。
「その対価っての、俺が肩代わりはできませんか」
「……方法がないわけでも、ないが」
夜蓋さんは手の影から肉のかけらを取り出して、正継さんに差し出します。
「あなたの血を変化の薬に変じる。対価は左右の薬指の爪。応じるのなら、これを食べるといい」
正継さんの喉が、生唾を飲んでごくりと上下します。
彼は夜蓋さんの肉へと手を伸ばしました。指が震えています。それでも意を決したように掴み取って、口に含みました。
ですが、彼にできたのは、そこまでです。
広い部屋にげほっと濁った咳が響きました。
酷く苦いものでも食べたように顔を歪め、正継さんは夜蓋さんの肉を吐き出します。床に転がったその欠片は、瞬く間に泡になって消えてしまいました。
「も、申し訳、ない」
咳き込みながら謝る彼に、夜蓋さんは首を振ります。
「あなたが悪いわけではない。人には喰うのが難しい肉なのだよ」
「そう、ですか……」
正継さんは落ち着きなく指を擦り合わせながら、姫様の絹糸を見ました。そこにまた言葉が綴られます。
『きにするな』
正継さんはそれでも、指を擦るのを止めませんでした。
* * *
「そうしたら、婚礼の日にまた来てくださるということで、良いんでしょうか」
姫様の前を辞して一階に戻ると、正継さんが遠慮がちに訊ねてきました。
夜蓋さんが、軽く片眉を上げて返事をします。
「まだ依頼を受けるとは言っていないのだが。話を聞かねばならない相手がもう一人いるだろう?」
「もう一人……? すみません、誰のことで」
「無論、花嫁御寮のことだ」
正継さんのこめかみがひくりと動き、視線が泳ぎました。あきらかに狼狽しています。それは、もう取り繕うのが難しい反応でしたのに、彼は舌をまごつかせながら言いました。
「けど、孫はオレと違って姫様の姿も見れんのです。説明のしようがない」
「説明など、どうとでもなる」
『そうだろう?』と問いかけるように、夜蓋さんが僕へと目配せします。
「あ、はい。どうにでもします」
「しかし、結婚前でバタバタしているもんだから、あんまり面倒はかけたくないもので」
「花嫁の着る予定の衣装が傷んだなら、それこそ大慌ての大問題ではないのか」
「それは……。でも、その……」
「私は客の嘘を咎めない。隠し事を無暗に暴きもしない」
夜蓋さんは前に猫又さんへ告げたのと同じ口上を述べました。
「だが、それらによって断る仕事はある。あなたは私の客そのものではないが、客たる姫の願いの源だ。花嫁の意思をあくまで隠すというなら、私に叶えられることはない」
その凛とした断言に、正継さんは歯噛みして押し黙りました。やがて、渋々ながら「わかった」と呟き、電話機を取ってきます。
短縮ボタンを押して、全員に会話が聞こえるよう、ハンズフリーにした受話器が座卓の上に置かれました。電話は数コールで繋がります。
『おじいちゃん? どうかしたの?』
スピーカーからは溌剌とした女性の声が聞こえてきました。正継さんのために、大きめの声で話しているのが分かります。
「ん、あぁ。何ってワケでもないんだが」
『屋根は大丈夫?』
「まぁ、何とかな。今春の蚕は手がかかるかも知れんけど」
言葉を濁した遣り取りを何度か経て、正継さんは切り出しました。
「それで、その、花嫁衣装のことなんだが」
『……またその話?』
電話越しにもはっきりと、お孫さんの声が刺々しくなります。
『和装はしないって言ったよね?』
「分かっとる、分かっとるが、もう一回考えくれんか」
『しつこいよ。だいたい、お母さんの時はドレスで良いって言ってくれたんでしょ? なのにどうして私の結婚式にはそんなにこだわるの』
「そりゃ、後悔してるんだ。あの子に打掛を着せてやらんかったのはいかんかった。伝統は守らんといけん」
『伝統伝統って、ただの養蚕農家じゃない。文化財みたいな資料館はちゃんと別にあるし、おじいちゃんだって今はもう小規模にしかやってないんでしょ。それが孫と曽孫より大事?』
「『曾孫』?」
僕が思わず口を挟むと、花嫁さんは『どなた?』と、不機嫌混じりにもギリギリよそ行きの声で言いました。僕は見えもしないのに電話に向けて会釈をします。
「ご挨拶遅れて申し訳ありません。お着物についてご相談うかがっていた者です」
そうして僕と夜蓋さんが名乗ると、スピーカーから短いノイズが流れました。たぶん、お孫さんの溜息です。
『あぁ、悉皆屋さんか何かですか? おばあちゃんの大事な着物だし、直すのは反対しませんよ。でも、私は着ませんから』
「差し支えなければ、理由をお聞きしても?」
『……妊娠したんです』
「おめでとうございます」
「お慶び申し上げる」
話の主題はさておいて。
僕と夜蓋さんがお祝いの言葉を述べると、お孫さんは一瞬黙ってから、先程までより若干和らいだ声でおっしゃいました。
『ありがとうございます。それで、体調のこともあって、結婚式は簡単な食事会程度にするんですよ。白無垢なんて絶対無理です。アレ、着るだけでもすごく大変なんでしょう?』
「衣装一式で重さが約五キロ、着付に一時間程度は見込むだろう。着るだけで母子に危険が及ぶとまでは言わないが、苦労な服ではあろうな」
僕は和装のことは知りませんが、今聞いただけでも疲れそうな内容でした。夜蓋さんは電話の向こうのお孫さんへ向けて、きっぱりとおっしゃいます。
「そういう事情なら、あなたに着せる白無垢は用意しない」
「待って、待ってくれ!」
正継さんの声が割って入りました。
「そんなこと言わんでください、なぁ、孫は説得するから!」
「断る。赤子に障る」
「そうとは限らんでしょう! 和装ってのは、上手い人が着せてくれりゃあ、見た目よりずっと楽に着られます!」
「関係ない」
……?
どうしたのでしょう。普段の夜蓋さんからは想像しにくい切り捨てっぷりでした。
あやかしを見ないというお孫さんに配慮してか、夜蓋さんは電話の集音口を指で塞いで言います。
「まだ自我の柔い幼子には、あやかしの影響が染み付きやすい。胎児など言わずもがなだ。おそらくはあなたも、姫の御座す家に生まれたことで私達を直視できる性質を得たのだろう。あやかしを見るのも良し悪したが、霊感のない母親に我が子の変質を受け入れろと説得する気はない」
「それはっ……、しかし、神様とお会いできるようになるんだ、良いこともあるだろう!? なぁ、後生だから……っ」
夜蓋さんにすがりつこうとした正継さんの身体が、急に傾ぎました。
座卓の端に付いた手がずるりと滑って、彼はそのまま畳の上に倒れ込みます。
「正継さん!?」
『え、なにっ? おじいちゃん? どうしたの?』
夜蓋さんの指が電話から離れ、お孫さんにも騒ぎが伝わったようです。驚いた声が響く中、夜蓋さんは正継さんに素早く近寄って横向きに寝かせました。正継さんは呻きながら、平気だ、と腕を振って夜蓋さんを払いのけるようなジェスチャーをします。
僕は電話を手に取りました。
「もしもし。聞こえますか? お祖父さま、体調を崩されたみたいです」
『えっ!? すみません救急車を……!』
「いらん!」
叫んだ正継さんが、畳に手をついて身体を無理矢理起こそうとします。夜蓋さんが諫めようと肩を押さえるのも無視して叫びました。
「ちょっとフラついただけだ! 病院なんぞ行かん!」
『そんなこと言って、脳梗塞とかだったらどうするの! この前の嵐の時だって無理して怪我したんじゃない!」
「かまわん、死ぬならここで死ぬ!」
『馬鹿なこと言わないでよ!』
喧嘩している場合でないでしょうに、二人の会話はぐんぐんヒートアップしていきます。夜蓋さんが正継さんの手首に触れて脈を取ろうとしているのですが、肝心の本人が握り拳を震わせて喚き散らしているものだから、碌に分からないようです。夜蓋さんは、いったん諦めて手を離しました。そして。
「二人とも」
パチンッ、と両手を打ち鳴らす音が響きます。
「落ち着いて、少し黙れ。そしてあなたは大人しく横になりなさい」
手を鳴らした夜蓋さんが有無を言わせぬ声音で命じます。彼がこれほど強く命令形で話すのもなかなか珍しい。
気圧された正継さんは一瞬呆けた顔をしてから、気まずそうにおずおずと、畳の上に寝転がりました。夜蓋さんは早速その手首に触れ、脈拍を測り始めます。
「持病や既往症はあるか? 手術歴は?」
「別に、何も」
『重たい病気はしたことないはずです。手術は、何年か前に骨折でボルト入れたのと、少し前に右眼を。ホントなら日をずらして左眼も治すはずだったのに急にキャンセルしちゃって……』
「既往症無しなら眼の手術に糖尿病は関係ないな? 血圧は?」
「ただの白内障だ。血圧も普通だよ」
『ちょっと高めらしいです』
「別に医者に怒られるほどじゃない」
「具体的にいくつだ」
「……上が一四〇、下が九〇」
「そうか」
夜蓋さんの診察は手際よく進みます。頭痛、胸痛、背痛、吐き気、耳鳴りの有無。眼と唇の動き。両手の握力に差はないか。足のむくみはないか。などが次々確かめられました。出る幕のない僕はお孫さんにその様子を実況します。最後に夜蓋さんは正継さんを立ち上がらせて、まっすぐ歩けることを確認しました。
「急を要する症状はなさそうだ。電話診療を受けて、問題無ければ様子見としてはどうか」
『そんな、万が一ってこともあるじゃないですか』
「僅かな可能性というなら、否定はしない。しかしこの様子では、救急車を呼んでも素直に乗らないだろう。興奮状態にさせるデメリットが勝るのではないか、と、私は思う」
『でも……』
お孫さんは不安げな様子です。
僕は客間に置いていた自分の荷物を見ます。
灯火通りからこの村までは、新幹線と在来線とローカル鉄道とバスを乗り継ぐ必要があります。移動時間を考えると今日中に灯火通りへ帰るのが難しく、元から駅周辺で一泊する予定でした。僕のバッグにはお泊りセットが詰められています。
視線を戻すと夜蓋さんと目が合って、僕の考えを読んだように頷かれました。僕は「よろしければ」と、正継さんと電話の向こうのお孫さんの両方へ声をかけます。
「一晩、お付き添いしましょうか?」
「……………。そりゃ、アンタ方がいいなら、俺は構いませんが」
正継さんの答えに何かを考えるような間が空いたのは、夜蓋さんを説得する時間を得られるのでは、と打算を巡らせていたためでしょうか。
お孫さんの方は正継さんよりも長く躊躇されていましたが、夜蓋さんが脳卒中や不整脈などの可能性について詳細をお伝えすると、最終的にはお祖父様を夜蓋さんに預けることを了承してくださいました。




