蚕の村
空気が暖かくなってきました。
桜さんの一件から二週間ほど経ち、迎えた四月。お花見と暴風雨のニュースがいくつか流れていき、暦の上でしかなかった春はすっかり現実の気温となって、肌を包むようになりました。
夜蓋さんは相変わらず黒衣ですが上着の生地は薄手に変わっています。僕は彼から貰った『バイト代』の何割かで、春服と、首に巻く包帯を買いました。
そして今は、仕立て屋さんで数種類の生地と向かい合っています。
サマーウールやコットンなど、いずれも春を越えて夏の空気も感じる生地です。
僕はその中からリネンシルクを手に取ります。
織り方や絹麻の混合比率による技なのか、滑らかでハリがあり、程よくフォーマルにもカジュアルにも合いそうな布でした。透け感は強くありませんが薄手で、見た目の暑苦しさもありません。
「いかがでしょうか?」
仕立て屋のご店主、アンディさんに訊ねられます。クラシックなベストが似合うナイスミドルな彼の顔には、人間の眼が二つ、蜘蛛の眼が六つあります。僕は合計八つの眼のどれに視線を合わせるべきか迷い、ひとまず人間の眼を見て答えます。
「軽くて、着心地良さそうですね。この布がいいな」
「ありがとうございます。お色はいかがいたしましょうか?」
彼は色違いの生地を五種類、テーブルに並べました。白、黒、アッシュグレー、ネイビー、ベージュ。
「この中なら、これか、これが好きです」
選んだ黒とネイビーの生地をそれぞれ肩に当ててもらい、僕は自分の姿を鏡に映します。喉に生えた鱗の鮮やかな紅色は、どちらの生地ともそこそこ合いました。
「どっちが良いと思います?」
鏡面越しに、後ろにいる夜蓋さんへ聞いてみます。
「どちらも似合う。黒は品があり、ネイビーは夏らしくて良い」
そんなことを言われたら余計に悩んでしまいます。布を交互に当て変えた僕は、ふと思いついて夜蓋さんを「ちょっとこちらへ」と手招きしました。白い髪と黒い服で全体的にモノトーンな彼が、鏡の中で僕の隣に寄り添います。
「夜蓋さんと並ぶと、黒のほうがしっくりきません?」
「そうだろうか」
「僭越ながら、リッカ様のおっしゃるとおりかと」
よく分からないといった感じの夜蓋さんに代わって、アンディさんが答えてくれました。
「じゃ、これにします」
「承知いたしました」
アンディさんは注文票に生地の種類と金額を書き込むと、それを夜蓋さんに渡します。夜蓋さんは頷き、サラサラとサインをしました。
ジャケット着るのが僕でも、支払いをする契約者は夜蓋さんです。
暑い季節に向けて上着を仕立てる、というのは、僕が衣替えを始めた頃に夜蓋さんから提案されたことでした。
『これでも化生屋は客商売だ。接客向けに、夏用の上着があって悪いことはない』
『どうせなら既製品を買うよりも灯火通りの仕立て屋に頼みたい』
『これは支給制服のようなものだから、代金は私が持つのが道理だろう』
というのが夜蓋さんの主な言い分でした。
異論はあります。
が、反論するのも不粋かと、こうしてご厚意に甘えている次第です。
夜蓋さんがアンディさんに注文票を返します。と、ちょうどその時。お店の奥の方で電話が鳴りました。
アンディさんは「失礼いたします」とフィッティングルームを出て行って、数分後、電話の子機を片手に戻ってきました。
「すみません。少々、夜蓋様にご相談よろしいでしょうか?」
「化生屋としての私にか」
「はい。知り合いの養蚕家で、困り事のようで……。あ、リッカさんは、虫はまったく平気ですか?」
彼は人間の両目を閉じ、僕に顔を近づけます。虹彩もない真っ黒な真円の眼が六つ、僕を見ていました。
「蜘蛛は虫ではないのでは?」
「昆虫ではありませんが、広義の虫ではありますよ。それに、目玉が剥き出しなのは蜘蛛でも蝶でも同じこと。人間の皆様には、表情が読めず落ち着かないものと存じております」
「別に平気ですよ。コミュニケーションなら声で十分です」
「本当に? 無理はしなくて構いませんよ」
彼は人間の眼を閉じたまま念を押します。僕は、僕に恐怖がない事情を話すより手っ取り早い証明として、アンディさんの四対の眼のうち、一番大きな額の眼を覗き込みました。それは粒のびっしり集まった複眼ではなく、つるりとした単眼です。こうして見るとやはり昆虫とはまったく違います。
「真っ黒だし、フチまできれいに丸いし、ブラックパールを象嵌してるみたいですね」
仕立て屋さんが両目を開いて苦笑しました。
「それでは口説き文句ですよ」
* * *
二羽のアゲハ蝶が、求愛したりされたりしながら飛んでいきます。
翌週、群馬県某所。僕が荷物を肩に電車を乗り継ぎ、お客さんの少ないバスを降りて辿り着いたのは、小さな村でした。低い山に囲まれた平野部に、畑と、無秩序に雑草の生えた空き地の広がる農村です。野草は春を迎えて盛んに茂っていますが、畑の多くはまだ休眠期間のようでした。一番広い果樹園の木は枝を丸刈りにされて、幹も腰下ほどの低さまで切られています。遠目には、というかたぶん近づいても、僕には何の木なのかもわかりません。
まばらに建つ民家はいずれも古く、いくつかの家は、瓦屋根に天窓のようなものを付けた特徴的な造りをしていました。
その屋根の一部がブルーシートで覆われていたり、畑の端にビニールハウスの残骸が積まれていたりと、村の端々に先日起きたという嵐の爪痕が残っています。
しかし、割れて穴の空いたまま段ボールも当てられていない窓は、はたして嵐で割れたのか、もっと昔から放置されているのか。
草木と虫の気配が濃く、人の気配は薄れていく途中にあるような土地です。
それでも畑はよく手入れされている印象でした。村へ足を踏み入れて果樹園に近付くと、短く刈り込まれた木に、若葉が芽吹き始めているのが分かります。畑の傍に建てられた石碑には摘まれた葉が供えられていました。
「桑畑だな」
影の中から身を起こして、夜蓋さんが呟きました。
……ということは、果樹園というのは間違いでしたね。桑の葉といえば蚕が食べるものです。
夜蓋さんの視線が、桑畑の先にある大きな家へと向きます。地図と照らし合わせれば、その家こそ僕達の目的地、お客様たるあやかしの棲まう場所です。
「かなり前から養蚕を生業としているのだろう。屋根についている高窓は蚕を育てる家の特徴で、温度や湿度を調整するためのものだ。蚕は熱や乾きに弱い」
その大事な窓の一角は、痛々しく青いシートに覆われていました。
* * *
古い木造家屋に後付けされたインターホンを押すと、チャイムではなくブザーといったイメージの、ビィーッという音が響きました。
「おぅ」
家の奥から返事があり、少しして、木枠の戸がガタガタと開かれます。
出ていらっしゃったのは七十歳くらいのお爺さんです。これも嵐の被害か、額と手に医療用のテープを貼っていました。年齢にしては体格が良く、日焼けた顔をしています。左の瞳孔だけが真っ白に濁っているのは白内障でしょうか。片目ずつ治療されている途中かもしれません。
「うん? 見ない顔だな。いったい何の用で、」
彼の言葉が止まり、ヒッ、と鋭く息を呑む音がしました。
「坊ちゃん、蛇神様をお連れかい……!」
おや。
「夜蓋さんが人ではないとお分かりになるんですか」
「分かるよ、分かるとも!」
お爺さんはあきらかに怯えた様子で、戸の縁を握りしめています。閉めたいけれど、閉めるのも怖い、といったところでしょうか。
なるほど。人間が夜蓋さんの骨を直視すると、こんな感じになるんですね。
振り返れば夜蓋さんは意外と冷静で、懐から黒い布を取り出し、淡々と背骨に巻き付けました。
「目隠し、のようなものだ」
きゅっと結び目をきつく締めたとたん、お爺さんが息をついた気配がします。
「……そんな怖いひとじゃないですよ、夜蓋さんは」
恐怖の喚起はお爺さんの問題ではなく、夜蓋さんの体質の問題だろうことは分かっていますが、どうしても不満げな口調になってしまいました。
「あ、あぁ、失礼したな。それで、坊ちゃんたちは何の御用で?」
「ご依頼を聞きに参りました、化生屋です」
「……! そうか。そうでしたか。これは本当に申し訳ない。俺は、片倉正継といいます。姫様をお守りしてる者です」
彼はどうぞどうぞと僕を家の中へ通しました。
広い土間には靴が二足だけ。どちらも正継さんのもののようです。
「お一人暮らしで?」
「今はウチに姫様がお住まいですから独りってわけでもないですが、妻は少し前に逝ってしまって、娘は街の方で就職してからずっとあちらに住んでます」
「では、養蚕は」
「何とか続けられんかと思ってるんですが、難しそうです。今はもう、俺一人で面倒が見られる分の、趣味に毛の生えた程度しか育てておりません」
「そうですか……」
僕は上がり口に腰掛けて靴を脱ぎます。立ち上がった時、鼻先に何か白くて丸いものが漂ってきました。
それは、繭でした。
長さが三センチくらいの小さな繭です。半透明、というか八割透明くらいのうっすらとした姿で、内部に小指の先程度の黒い影が透けて見えます。
思わず眼で追った僕に、正継さんが言います。
「坊ちゃんにはオコダマも見えますか」
「これ、木霊なんですか?」
「山のコダマじゃありません。薄すぎて俺にはもう見えないものですが、繭玉がそこらを飛んでるんでしょう? ここらではお蚕様のことをお蚕様とも呼ぶんで、お蚕の魂で、オコダマです。あぁ、あんまり触れんようお願いします」
僕は今まさに触れようとしていた指を引っ込めました。
「すみません。繭を傷つけてしまいますか」
「逆です、逆。坊ちゃんの身に何かあったら申し訳がない」
「そんな危ないものなんですか?」
「見た目だけで侮っちゃいけません。二軒隣のヤツは両足を折って今も上手く歩けんくらいです。その上、息子の嫁まで寝込んだそうで」
「……偶然ではなく?」
オコダマは無害にふよふよ漂っているだけに見えました。自力で進行方向を選べているかも怪い儚さです。何より、夜蓋さんがオコダマに触ろうとした僕を制止していません。祟るようなあやかしには思えませんでした。しかし正継さんは首を厳しく横へ振ります。
「蚕飼いを辞めるって言い出した途端です。偶然のわけがない」
それは思考のバイアスというヤツでは、と僕は思います。
家業を畳むとなれば、普段とは違う仕事も色々とあるはずです。慣れない作業でうっかり怪我をする確率も上がるでしょう。そして年配の親族が両足骨折となれば、お見舞いにリハビリにと周囲も忙しくなって、心身の疲労から体調を崩す人が出るのもありそうな話です。まぁ、余所者が知ったかぶって語るには失礼な意見に思えたので、口には出しませんでしたが。
僕たちを座敷に通した正継さんは、夜蓋さんが飲み食いできるのかを確認してから「茶を淹れてきます」と台所へ行きました。
「夜蓋さん。質問です」
オコダマを見て思い出し、けれど正継さんの前では聞きづらかったことがありました。
「絹糸を取るために蚕を煮て殺さなきゃいけないって、ホントですか?」
「九割九分は事実だな」
「どこまで合ってて、どこが間違い?」
「蚕を殺めることは合っている。彼らの繭はすべて繋がった一本の糸で出来ているが、羽化すれば繭は破られ糸が切れてしまうし、唾液で溶かされた部分は変質して生糸として使えない。羽化時に出る体液による汚れの問題もある。故に、良い糸を取るには羽化する前に蛹を殺めねばならない。しかし「煮殺さねば」という表現は少し違う。繭を煮るのは、殺めるためというより糸を解して紡ぎ取るためだ。殺蛹処置は煮るより前に薬や熱風で行っていることが多い。さて、リッカ。蚕を殺める方法を煮沸に限っていたら、どういう問題がある?」
問いを与えられて、僕は台所の気配に意識を向けました。風通しの良い木造建築は音もよく通すようです。正継さんの沸かすお湯は、元々ある程度温められていたらしく、もうコポコポと鳴りはじめています。
「時間がなさそうなのでヒントください」
「蚕の蛹は二週間ほどで羽化する。絹一反を作るのに必要な繭は約三千粒だ」
僕の脳内で、糸を繰る女性たちが大量の繭玉に埋もれて悲鳴を上げました。かの富岡製糸場にもキャパシティというものはあるでしょうし、シーズン毎に二週間しか稼働しない工場というのも非効率です。
「羽化するまでの短期間にすべての繭を煮て糸にするのでは、作業スケジュールが偏りすぎますね?」
「正解。乾かした繭と書いて乾繭と言うが、これなら貯蔵が利くということだ。品質は乾燥工程のない生繰りの方が勝るらしいがな」
なるほどなぁ、と、僕はまた何処からか漂ってきたオコダマを見上げます。
「どっちが苦しいんでしょう。煮られて死ぬのと、干乾びて死ぬのと」
「分からない」
空中でふらりと軌道のよろけたオコダマが、夜蓋さんの肩に降ってきました。そのまま転げ落ちてしまう蟲を、彼の手は躊躇なく受け止めます。
「自然発生したあやかしには他者の祈りや畏れが宿る。この子たちと意思疎通ができたとしても、熱や乾きの記憶が虫の記憶か人の想像かは、解き明かす術のないことだ」
夜蓋さんはオコダマを載せた手を差し出して、僕に見せてくれました。やっぱり、そう危険なものではないんですね。手も足も羽もない、ちいさなあやかしです。経済動物という言葉を思い出した頭に、偽善も良いところな罪悪感が生まれました。僕はリネンシルクを喜んで選んだばかりですのに。
夜蓋さんが「ひとつ言い添えるなら」と囁きました。
「完全変態する昆虫は、一旦、蛹の中で身体の大部分をゲル状に溶かしている。神経系さえも再編する変身の最中なら苦痛はあるまいと、信じたくはある」
夜蓋さんはオコダマをそっと宙に放ってやります。家の中を通っていく空気に乗った繭は壁をすり抜けて、またどこかへ漂っていきました。
「お待たせしました」
お茶を載せたお盆を手に、正継さんが戻ってきます。
僕はちょっと熱すぎるお茶を礼儀として一口いただきました。湯呑みを置いたところで、夜蓋さんが切り出します。
「大まかな話は聞いているが、依頼の子細を聞かせてもらいたい」
「もちろんです」
正継さんは卓上に両手を置き、背を丸めるようにして頭を下げ、その願いを口にしました。
「うちの姫様を、花嫁衣装にしていただきたい」




