紅色の正体
* * *
血だまりの講堂に白い蝶が飛びます。
頭も胴もない、和紙の翅だけを持つ純白のアゲハ蝶です。
蝶は迷わず紅色の花に止まります。
すると、その翅に、じわりと赤色が移っていきました。
白かった翅が口紅に染まっていき、レースのような翅脈だけが白色を保って浮かび上がります。
艶やかな蝶がふたたび飛び立った時、桜の花はすっかり元の色に戻っていました。
同時に床に広がり続けていた血だまりも消えていきます。黒い羽虫が集る先を見失ってバラバラとさまよい出し、かと思えば、辺りを包んだ金色の炎によって、灰も残さず焼き払われました。
僕の鼻先を焦がした熱は開けた窓から逃げていき、夕暮れ時の春先の、瑞々しく冷えた外気と入れ替わっていきます。
「―――――」
誰かが、やっと息をしたような、かすかな気配がしました。
「助手さん……?」
制服姿の付喪神さんがふわりと現れます。彼女は僕と、僕の隣に居る女性を見て、困惑した顔をしました。ちなみに夜蓋さんと雷令さんの成人男性組は講堂の外でお留守番です。
「わたし、いったい……。そちらのかたは……?」
「お初にお目にかかりますわ」
桜さんの前に、紅い蝶を指先に留めて女性が進み出ます。体のラインに沿った黒いスーツを着こなした長身の女性です。さきほど蟲を焼き払った彼女の影には、狐の尾が七本も揺れていました。
「灯火通りより参りました、揺月化粧堂が店主、玉葉と申します」
その『化粧』というキーワードを聞いたとたん、桜さんが怯えたように肩を揺らし、自分の唇を両手で隠しました。
想定通りの反応です。
僕はつとめて優しく言います。
「花の赤色が呪いを呼んでいたので、勝手ながら拭わせてもらいました。あれ、口紅だったんですね。あっ、責めるつもりはないんですよ」
気軽さの演出として、両手をぱたぱた振ってみせて。
「他人の物を勝手に使うのはよくなかったですが、お化粧を変えたくなった気持ちを悪くは思いませんから。罰は十分受けたでしょうし、花盗人に罪は無しとも言いますしね。……ちょっと意味が違うかな?」
「え?」
冗談めかして言う僕に、桜さんは戸惑った声を漏らします。その反応を図星と解釈したことにして、僕は話を進めました。
「卒業生さんたちを見て、誰かの口紅を、つい拝借してしまったんでしょう?」
この学校に化粧品売り場があるわけもなく、そもそも桜さんはお財布なんて持っていません。桜さんが口紅を付けるなら誰かの物を借りるしかない。
そう、実に分かりやすい話です。
部外者がいるはずのない学校では防犯意識も弱く、他人の荷物に触れる隙くらいはあったでしょう。少なくとも絶対に無理と言えるシチュエーションではないと思います。
「確かに、僕達に事情は話しづらいですよねぇ。……違いましたか?」
僕はあくまでも穏やかな口調で問いかけます。桜さんは答えに迷ったように視線をおろおろと揺らしてから、
「いえ、違わない、です。ごめんなさい……」
と、頭を下げました。
はい。一件落着ですね。脳内でこっそりと安心する僕の隣から、玉葉さんが一歩進み出て、蝶を留めた指先を桜さんへと差し伸べました。
「お嬢さん。よろしければこちらをどうぞ」
口紅に染まった蝶は『どんなあやかしの肌も傷めずに拭い去る』という謳い文句の化生用化粧落としです。玉葉さんの指から飛び立ってひらひら舞う蝶に、桜さんは見入られたように呟きます。
「きれい……。いただいて、良いんですか?」
「ええ。あなたの元にあってこそ価値のある蝶ですもの」
玉葉さんが命じるように手首を返すと、蝶は桜さんのカンバスへ飛んでいきました。絵の表面に翅を平らにして張り付いたかと思えば、するすると横へ滑って裏側へ潜り込みます。桜さんが、はたりと自分の手首を見ました。彼女の白い肌に蝶の紅い影が映っています。その影はセーラー服の袖の中へひらりと舞い込みました。そのまま腕を伝い昇ったのでしょう。数秒後、桜さんは愛おしげに、蝶の留まったのであろう左胸のあたりを撫でました。
それから、
「助手さん、あの……」
まだ迷っているらしく、言葉を濁しながら僕を見ます。
「はい。どうかされましたか?」
問題を解決して満足している僕は、彼女の視線の意味などサッパリ分かりません。なので馬鹿のような清々しい笑顔で応じます。
僕はいまだにセーラー服ですが、桜さんは僕が男であるのをご存知です。
彼女はこの鈍そうな男子に何か言うのをやめて、ただ、もう一度頭を下げました。
* * *
講堂から出た僕達を風令さんと夜蓋さんが迎えます。
「リッカくん! 姉貴!」
「無事に終わったか」
「はい。きれいに落とせました。呪いも消えましたよ」
答えた僕の肩に、背後から、ほっそりとした女性の腕が絡みつきました。
「どういうことか教えてもらいましょうか、リッカさん?」
耳元を息で撫でるように玉葉さんが囁きます。香水の甘い香りがしました。頬を撫で上げられて、彼女の指先が僕の目元にまで迫ります。視界の端ギリギリに、ナチュラルなベージュ色だったネイルが、派手に真っ赤に染まって尖るのが見えました。
「これ脅されてます? 色仕掛けされてます?」
僕が聞いて、
「おそらく両方だ」
夜蓋さんが答えて、
「若者に絡むのやめろよ女狐」
雷令さんが吐き捨てて、
「もう! 不粋な男ばかりだこと!」
玉葉さんが憤慨しました。
存外とかわいらしいリアクションです。いえ、ここでかわいらしいと思ってしまうのも、彼女の術中でしょうか? 玉葉さんは拗ねるように僕の肩をぎゅーっと抱いて言います。
「話くらい聞かせなさいな。夜蓋様の頼みですから私も融通したけれど、雪白蝶は簡単に手に入る物ではないのよ?」
「それはそれは貴重な品をありがとうございます。でも話なら、たった今終わったばかりでしょう? 玉葉さんも聞いてらしたじゃないですか」
「あのお嬢さんが自分で口紅を塗った、ですって?」
ふん、と玉葉さんが不機嫌そうに、見事に引き締まったフェイスラインの顎を上げます。
「馬鹿を言わないでちょうだい。桜の付喪が桜色を塗り替える? ええ、そうね。一本の樹にも季節は移ろうわ。常春の絵画だって装いを変えたい時もあるでしょう。……日常のちょっとした気分転換になら、ね! けど特別な日なら話は別よ。ハレの日に相応しい一番きれいな自分を、自ら以外の色で粧うソメイヨシノなどいるものですか」
「どうでしょうか。相応しいとは、言い換えればスタンダードってことでは? だからこそ違う赤色で特別さを演出したかったのかも知れませんよ。桜さんもお化粧について、そんな感じのこと言ってましたし」
もっとも、心の中だけで言わせてもらえば、僕も別の可能性を考えてはいますけれどね。
例えば、二度とない春の日に。
ある女の子たちが、二人だけの、特別な、思い出を残したいと望んだとして。
結果的に、人の唇と桜の唇が触れ合って口紅の色が移った、とか。
しかし、桜さんは、口紅を借りたのかと問われて肯定したのです。
それが真実だったのです。あれから再度手分けして聞き込みを終えた結果、残念ながら、学校のあやかしたちから桜さんの自白を否定する目撃情報なども出て来ませんでした。
だからこの怪談はこれでお終い。
言わぬが花とも、言いません。
「ふふ、ふふふ」
知らぬ存ぜぬを通す僕に、玉葉さんは一転、機嫌良く笑い出しました。
「いいわ。ええ、それでいい。お口の軽い男など、私の店には二度と入れてあげないもの」
僕の肩を解放した玉葉さんは、長い睫毛でウィンクします。そして踊るようにその場でターンすると、金色の炎になって姿を消しました。一足先に帰られたようです。雷令さんが子供っぽく「ベーっ」と舌を出して見送ります。
そして、夜蓋さんは、
「よくやってくれた」
と、僕に労いの言葉をかけてくれました。
「助手ですから、はい」
平然と答えたつもりですが、もしかしたら、頬は紅くなったかもしれません。
血塗れの桜さんを見た時、雷令さんに何か分かったかと聞かれた夜蓋さんは「分からない」とは答えなかったのです。
変化の主たる彼には、あの紅く染まった一輪が人間に化けた桜さんの唇にあたると、理解できたのかもしれません。となれば、僕がしたのと同じ想像は一瞬でできたでしょう。そもそもの話、『メイクした顔を見せたい』ではなく『メイクをしたと気付いてほしい』なんて、友人に向ける感情としては甘酸っぱすぎるのですから。
もし夜蓋さんがとっくの前にその予想を立てていたなら、それを最後まで語らなかった彼は、僕が何を考え、それをどう隠すか、最初から信じてくれていたことにもなります。
照れ隠しに偽Bカップの位置を直すフリなどしていたら、雷令さんが「うちの女狐がごめんね」と声をかけてくれました。
「いえ、お気になさらず。面白いお姉さんでしたね」
「リッカくんがそう言ってくれるのはいいケドさ。これ、お礼とお詫びにもらっといて」
雷令さんが手に何かを握って差し出してきます。僕が自分の手を受け皿として出すと、そこに一枚の十円玉が置かれました。
製造年は五年前。ぴかぴかに磨かれているわけでも、青錆が浮いているわけでもなく、年数相応に茶色くなった変哲のない小銭です。
……幼稚園児のお小遣い?
困惑する僕の手の上で、雷令さんの人差し指の先が十円玉に触れました。
「『狐狗狸さん、狐狗狸さん』ってね。何かあったら呼んで? 学校か神社か四つ辻で使えば、霊道すっ飛んで駆けつけるから」
「つまり召喚アイテム?」
「そーゆーこと」
にっこりと気の良い笑みを浮かべる雷令さんに、僕はその硬貨と同じ青銅の身体をした女性を思い出します。
七不思議の七倍は四十九です。
校内あやかしリストの、二ページ目の最終行が四十九番というのは、妙に半端な数ですよね。まるで誰か一人について気付いていないことにするため、あわてて一行削った痕跡のように。
勿論そんなことも口には出しませんが。
僕はありがたく、十円玉をポケットに入れました。




