人外用務員さん
振り返ると、モップとバケツを手にした、ツナギ姿の男性がいらっしゃいます。
見た目の年齢は二十歳前後。細面の釣り目ですが妙に愛嬌のある顔立ちです。髪は毛質の軽そうな茶髪で、お嬢様然とした学校には不似合いですが、たぶん用務員さんでしょう。
「雷令」
夜蓋さんに名前を呼ばれ、用務員さんはモップを持った手を「よっす」と軽く上げて気安い挨拶を返しました。
僕は初めてお会いしましたが、そのお名前は聞いていました。彼こそは悩める桜さんに化生屋の存在を教え、僕達に校内図を提供してくださった仲介者さんです。
雷令さんは僕の隣まで来て、話を続けました。
「ホラーの題材としちゃ、血と死人ならイイ塩梅の不気味さで想像できるけど、腐乱死体はあんまり縁がない割に生々しくて気色悪い。怪談は人が語って広めるもんだからね。腐った汁より真っ赤な血のほうが断然話しやすいでしょ?」
「なるほど」
納得した僕は、雑談の流れで初対面の挨拶をするタイミングを失してしまいました。夜蓋さんが雷令さんに尋ねます。
「この状態は、いつからだ?」
「絵が汚れたタイミング? それとも呪われたタイミング?」
「どちらも」
「絵が汚れたタイミングはわかんない。卒業式の後ってことは確か。呪いになったのはここ一週間くらいかな。コンサートのリハに来た吹奏楽部から話が広まっちゃって。いやー、春休みでも今時はみんなSNSとかで繋がってるっしょ? 吹奏楽部自体も大所帯だから、あっという間に生徒に拡散して、『桜に死体』のイメージ結びついちゃったらしくて、この有り様。学校生まれのあやかしは怪談に弱いね」
「話が拡散する前に、絵の彼女から何か助けを求めるようなことは?」
「無いっす。されてたらソッコー夜蓋さんに連絡しましたもん」
「そうか。近付いて、見ても良いか?」
「了解、ちょっと待っててください」
雷令さんは黒い羽虫を蹴散らし、持参したモップで勢いよく血溜まりを拭い始めます。血を吸ったモップはバケツに付いた絞り器にかけられますが、何度繰り返してもバケツの水は透明なままでした。雷令さん曰く「お神酒混ぜてあるから」だそうです。
あらかたを拭い終えると、滴り続ける血をせき止めるようにモップの先を壁際に置き、雷令さんからオーケーサインが出ます。僕は夜蓋さんを影に連れて、先日と同様、絵のすぐ目の前に立ちました。
絵を汚した紅色はやはり薄付きで、花を塗り潰そうとしたような悪意は感じません。
「起きているか?」
夜蓋さんの呼びかけに応じて、付喪神の姿が、足先から現れ始めました。
横たわった両足は彼女が倒れ伏していることを示しています。制服に包まれた腿や腹がじわじわと出現し、スカーフの乱れた胸元、広い襟、細い首と続きます。そして首の上に生まれたのは、愛らしい少女の小さな顎ではなく、数本の桜の枝でした。
その枝先に、桜色とは言い難く、紅の花が開きます。
少女の形をした前衛芸術、あるいはそれを気取った猟奇殺人じみて、呪いを受けた付喪神は力なく伏してました。
――ゴボッ。
華奢な体が痙攣するように咳をし、枝の挿し口となった頸部から、血の泡が飛び散ります。
夜蓋さんがそっと少女の肩に触れました。
投げ出された手の指先が一度だけぴくりと動きましたが、すぐに脱力します。それきり意思疎通できる気配はないまま、付喪神の姿はドロドロと溶けて消えました。
「どうすか。なんか分かりました?」
「……もう話せそうにはないな」
問う雷令さんに、夜蓋さんは眉尻を下げた憂い顔で答えます。雷令さんが仕方なさそうに首の後ろを掻きました。
「そっかぁ。じゃあ、焼き潰すしかないっすね」
いや、急に、何を言い出すんですか。
平然と発せられた暴力的な言葉に、僕は思わず抗議の声を上げてしまいます。
「なんですかそれ。焼き潰すって、どうして?」
「穢れだの呪いだのは大抵火に弱いから」
「それでは付喪神さんが無事で済まないでしょう」
「ていうか普通に死ぬと思うけど」
「呪いを祓って殺してしまっては本末転倒ではないですか!」
「いや別に転んでないよ? 俺が夜蓋サンをもう一回呼んだのは付喪ちゃんを助けたいからじゃなくて、呪いをどうにかしたいからだもん」
「それは……、だからって、他に手段があるのでは? 絵画なら、修復とか、クリーニングとか」
僕は夜蓋さんに向けて問い、夜蓋さんは「そうだな」と肯定してくれました。
「見たところ、発端の一輪を染めているのは現実の何かだ。あれを除去できれば自然と呪いも清められるだろう」
その言葉には希望があるようなのに、夜蓋さんは難しそうに眉間に皺を寄せています。その顔を見て「ほら大丈夫じゃないですか」とは言えない僕に、雷令さんが肩をすくめました。
「先生たちも専門業者に問い合わせとかしてくれてるけどさ。もう入学式に間に合いそうにないんだよ。せめて倉庫とかに移したかったんだけど、このサイズだと移動させるのも危ないだろうって嫌がられちゃったし」
「入学式……?」
「うん」
雷令さんの周りにボッと火が飛び散って、また集り始めた羽虫を焼き飛ばしました。彼の眼球全体が真っ黒に染まり、口は耳元まで裂けて肉食獣の鋭い歯が覗きます。
「式は『儀式』だ。こんな呪い垂れ流しのままで、新入生を迎えるわけにはいかない」
獣が唸るのに似た低い声で言い、雷令さんは夜蓋さんの方へ首を廻らせると――両手をぱちんと合わせて懇願のポーズをしました。
「だからさ、夜蓋サン。オレらで何とかできるように、桜ちゃんがこうなった原因調べるの、手伝ってくんない?」
雷令さんの顔が獣から人間へと一瞬で戻っています。……あれ?
一転してお優しい方向に切られた話の舵。ぽかんとする僕に、夜蓋さんが「この子を脅かそうとしないでくれ」と溜め息混じりに言いました。
「人間が頼れないならあやかしに頼れば良い。化生連中になら入学式までに絵を修復できる者もきっといる。だが経緯すら不明で請け負ってくれる心当たりまではない。頼る相手を見定めるためにも、あの赤色の正体が必要だ。ということだろう」
「そうですそうです」
「答えよう。手伝うも何も、私の客だ」
「はは、夜蓋サンならそう言ってくれると思った」
嬉しそうに言った雷令さんは、今度は僕に向けて謝罪の所作で両手を合わせました。
「怖いこと言ってゴメンね。オレ、あやかしだけど、用務員さんの仕事は真面目にやってんの。だからさ、あやかし仲間の付喪神より生徒の君たちのほうが大事ってのは、しっかり伝えておきたくて」
なんだ、雷令さんも良いあやかしさんか。
ほっと肩の力を抜き、僕は自分のスカートの裾をべろんと捲り上げました。
「えっ、なっ」
品性によって顔ごと視線を逸らした雷令さんが、
「ん!?」
それでもしっかり見えていたらしく、逸らした顔をぐいっと正面へ戻します。その目には僕のボクサーパンツが見えていることでしょう。流石にこんなとこまで女装はしていません。
しーん、と無言で過ぎた五秒の後。
僕が見せたものの意味を理解した雷令さんは、天を仰いで叫びました。
「化ッかされた! あああ、じゃあキミが、夜蓋サンのお手伝いしてるリッカくんか!」
「はい。おっしゃる通りのリッカです」
そう答えてる間に夜蓋さんが僕の手に触れ、穏やかながらも断固とした所作で、スカートの裾を降ろすように促されました。抗う理由はないので素直に戻します。
「というか雷令さん、僕を何者だと思ってたんですか?」
「霊感ある系の子が桜ちゃんの様子でも見に来たのかと思ってた。あー、そっかー、言われてみれば夜蓋サンのことちゃんと見えてるっぽいのに全然怖がってないもんなぁ。……女装メッチャ上手いね? ネタバレしてから見ても女の子だわ」
「これは揺月化粧堂さんの腕ですよ」
「姉貴の店ェ!? あの女狐に顔いじらせて年頃の男子がよくご無事で……、あ。ヤバ。騙されたこと姉貴にはナイショにしといてね?」
「構いませんよ」
「ありがとう恩に着る! んで、リッカくんも協力してくれる?」
僕は勿論ですと頷きます。
「桜さんがこうなった原因を調べるんですよね。具体的には何をすれば良いですか?」
「そりゃもう捜査のキホンってやつ。聞き込みだね」
「聞き込み、ですか?」
なかなか難しいことをおっしゃるなと思いました。
その場しのぎの嘘くらいは幾らでも吐ける僕ですが、先生たちを相手に近くで顔を見られては、さすがに生徒でないとバレる可能性が高いです。あるいは生徒たちが相手でも、各自の在籍や交流関係なんてわかりませんから、ボロを出さないのは至難の業に思えました。




