しがない男爵令嬢なので社交でどうにかするまではしていません
マリア・ミヌエラ男爵令嬢には婚約者がいた。
イーサン子爵家の次男であるオリバー。
幼い頃からまるで天使のように麗しい美貌を持ったオリバーに、幼いマリアはすっかり恋に落ちてしまっていた。
低位貴族の、親同士が交流を持ち他に丁度いい相手もいないから、というよくある理由で結ばれただけの婚約。
将来マリアは男爵家を継ぐ事となる。この国では女性でも跡取りとなる事が可能であるが故に。
そしてオリバーは、そんなマリアを支える存在となるのだ。
そう、何事もなければそうなるはずだった。
けれども、この国の貴族たちは十五歳になった時点で、余程の事情がない限りは王立学院に通う事が義務付けられていて、今までの狭い世界から一気に人間関係が広がる事もあってか――
伯爵家の令嬢シルヴィ・レニータにオリバーは目を向けられ、そうしてコロッと靡いたのである。
しがない男爵家と比べれば伯爵家の方が歴史も資産も何もかもが上で。
マリアは不美人というわけではないが、まぁ男爵家の娘として見ればそこそこ愛らしい方だよなぁ、というのが周囲の評価である。あくまでも、見目に関するものだけであるが。
対するシルヴィは男爵家とは比べ物にならない程に磨かれてきたのがわかりきっている。
二人が直接並んで立った事はないが、しかしそれでも。
それでもマリアとシルヴィが二人揃えば、間違いなく人の目はシルヴィに向けられるだろう事は明らかだったのである。
シルヴィとオリバー。
二人並ぶとまさしく美男美女で、相手の事情を一切考えなければとてもお似合いであった。
だがしかし、実際は婚約者のいる異性に言い寄った伯爵令嬢と、身分や資産といったものも含めてマリアより上だから、と軽率に婚約者から別の相手に乗り換えた子爵令息――というのが現実である。
権力にモノ言わせて相手から奪うような真似をしたも同然なシルヴィに対して、彼女の友人たちはそっと距離をとった。自分たちまで同類と思われたら堪ったものではない。
シルヴィよりも上の身分を持つ者たちはどうしているかというと、そちらはそちらで色々と揉めているようだったので、下位貴族たちのごたごたに目を向ける者は少なかった。
取るに足らない下っ端貴族の三角関係よりも王家やそれに近しい立場の者たちのスキャンダルの方がより注目を集めていたのである。
だがそれに関して、マリアだって自分が当事者じゃなかったらそっちに注目していただろうな、と思っているのでそこに関しては何を言うでもないし、何を思うでもなかった。
ただ、言い寄られて乗り気なら、さっさと婚約を解消する方向に動くとか、まずそういうのをするべきでは? と思うだけで。
このまま学院内で恋人として浮かれた空気とともに過ごすのは勝手だが、そのしわ寄せがこちらに来るのだ。
マリアに非がないのは明らかなので、三か月ほど様子を見た上でマリアはサクッと周囲の証言などを集めた上で親に訴えた。
マリアからすれば、どうしてもオリバーと結ばれたいわけではないので。
マリアが彼の家に嫁入りするのならこのくらいの事で……などと言われて我慢を強いられるかもしれなかったが、しかし婿入りする予定の男というだけの話である。
しかも結婚前から婚約者の前で堂々と他の女に乗り換えようとしているのを見せられているのだ。
そんなのが婿に来たところで、一体我が家になんの得があるというのか。
仮にシルヴィとの関係が学生の間だけ、というので終わったとしても。
こういうのはまたやると相場が決まっている。
結婚した後、市井で平民の愛人をこさえられて知らぬ間にぽんぽん子を増やされても困るのだ。
一切こちらに迷惑をかけないよう立ち回ってくれるならいいが、今の時点でコレだ。
であれば、成人後もやらかすだろうなと思ったって仕方のない話。
彼らが学生の間だけの関係なのか、それとも娯楽小説のようなノリで卒業式だとかそれ以外の大勢が集まる催しの時に婚約破棄を突き付けるつもりなのかは知らないが、仮にそうだとしても待っていてやる義理はない。そうなってからマリアの新たな相手を探すとなると相当大変なのは言うまでもないので。
こういうのはさっさと済ませるに限る。
それに関しては、マリアの両親も同じ考えだったのが救いだ。
もうちょっと様子を見てから……と言われるのを予想して、一応三か月は様子を見たのだから。
様子見期間を延長するにしても、あと三か月が限界である。
けれども延長したところで、結果は変わらないだろう。
マリアよりも身分が上の、マリアよりも美しい令嬢に言い寄られたオリバーはすっかり舞い上がっていたのだから。
そしてシルヴィも婚約者を略奪したという事実をどう考えているのかは知らないが、オリバーが自分に振り向いてくれたという事実に浮かれているのは確かだった。
むしろ、自分の方が相応しいのだから当然と考えているのかもしれない。
だとしたら、レニータ伯爵家の名も落ちるだろうけれど。
マリアにしてみればそんなものは知ったこっちゃないのである。
マリアの父は速やかに行動に移って、イーサン子爵家との話し合いに臨み婚約の解消をもぎ取ってきた。
ついでに慰謝料もぶんどってきた。婚約破棄じゃないのに慰謝料まで……と思ったけれど、これに関してはイーサン子爵家が払ったものではなく、レニータ伯爵家が迷惑料として払ったものだという。
うちの娘がホントごめんね? みたいな感じだと捉えていいだろう。
確かに、娘が気に入ったのだから、で人様のものを堂々と略奪したようなものなのだから、それをそのままにしておくのは伯爵家からしても問題だったのだろうとはマリアにもわかる。
だってそれを罷り通しちゃうと高位身分の者は下々の者から略奪しても良い、ってなっちゃうものね。高貴な盗賊とか流石にちょっと。っていうか、普通は下々の者が上を羨む挙句手に入れたくても手に入らないものを眺めるのが当たり前であって、上が下を羨んで奪うとかはね……そういう価値観が当たり前であるとか思われたら他国からも色々と言われはしなくても思われるのは間違いない。
だってこれ、身分をちょっと変えたら、うちの王子がお前のところの婚約者を気に入ったからもらってやろう。有難く思え、とか言って強奪するようなものになっちゃうし。
それが当たり前として通用しちゃダメなのはほとんどの貴族なら理解できるだろう。
今回は下位貴族だったからそこまで大きなニュースになってないだけで、でももし高位身分の貴族たちの方でのごたごたがなかったらそれなりに話題になっていたと思われる。
シルヴィの友人だった令嬢たちの婚約者が奪われるような事にならなかったのは、単純にシルヴィの好みではなかったからか、同じ身分の友人から奪うとなれば流石にただでは済まないと理解していたからか……
ともあれ、マリアとオリバーの婚約はなくなって、二人は無関係となった。
シルヴィとの距離が近づいた時点でマリアは面倒事の気配を察知していたからあえてオリバーに近づいてシルヴィに目の敵にされないようにしていたけれど、これからはもう話しかける必要すらなくなるのだ。
清々したと言ってもいい。
次の婚約者を探すという手間は確かにあるけれど。
最終手段としては優秀な平民を迎え入れるというのもあるにはあるので、マリアはそこまで焦ってもいなかった。
高位身分だと平民をそのまま婿にするには問題しかないけれど、男爵家ならそこまで珍しい話でもないのだ。
あくまでも男爵になるのはマリアで、次の後継者はマリアが産んだ子になるのだから。
そうはいっても、なんとも思っていないわけではない。
あっさりと自分を捨てたオリバーに対してこの野郎と思う気持ちも確かにあったし、自分より下の立場だからと軽んじて人様の婚約者を奪うような真似をしたシルヴィにも伯爵家の教育どうなってんの、と思いはした。
教育がマトモであっても、彼女の人間性はマリアからしても疑うしかない。男爵令嬢に常識疑われるって相当だぞ……?
だが、今更二人に対して何かをするにしても、既に関係は終わっているので話を蒸し返すような真似をするのも面倒だった。
周囲は幸いにして常識を持っていたので、マリアをあからさまに婚約者を奪われた哀れな娘として嘲笑うような事はなかったけれど、それでもやられっぱなしでいるのも何となく癪だった。
だが下手な事をすれば子爵家と伯爵家を敵に回す事になりかねない。そうなれば弱小男爵家などプチッと潰されてしまうかもしれないのだ。
だからこそ面と向かって喧嘩を売るつもりもない。
周囲はそんなマリアの心情をわかっているのかいないのか、若干気遣わしげな目を向ける事もあったけれど、同情されたいわけでもないのだ。
だからこそマリアは。
思うところはあれど、面と向かって敵対するつもりなんてありませんよという態度を周囲に見せる事にした。
脳内ではムカつくあんちくしょうをぼっこぼこにぶん殴る妄想はそりゃあ既に何度もしているけれど、現実で何かしてやろうなんて思っていなかったのだ。ただ、そう、大々的ではなくとも噂の渦中にいつまでもいたくないという気持ちでしかなかったのである。
「あら、イーサン子爵令息とレニータ伯爵令嬢だわ。いつ見てもお似合いね」
食堂のテラス席を選んだのは、今日がとてもいい天気だったからに過ぎない。
そしてそこで友人たちとランチを堪能していたマリアは、とりあえず話題もないし見かけた二人の事を口に出した。
それにぎょっとしたのはマリアの友人である。
いや、確かに二人並べば美男美女でお似合いだとは言われていたけれど。
けれどマリアが直接そんな事を言うとは思ってもいなかったのだ。
「お、お似合いって、マリア……」
何故だろうか。とても気まずい。
声が引きつっていなかったかしら、と友人でもあるフレンダ男爵令嬢は同じように他の友人たちへ目を向けた。
「あら、そう思わない? 私前からそう思っていたのよ?」
「そ、そうなのね……」
えぇ、これどう答えるのが正解なのかしら……? と友人たちは困惑した。
ここでそうよね、と同意したら、それってつまりマリアとオリバーが婚約者だった時はお似合いじゃないと遠回しに言うような事にならないだろうか、と勘繰るし、そんな事ないわと否定するのもなんだか白々しく聞こえてしまいそうで。
返答次第で友人関係が終了したりしない? 大丈夫? という戸惑いでいっぱいだった。
別にマリアと友人をやめたいわけではないので、とても答えに困る。
「だってそうでしょう? 見た目もだけど中身もぴったりでお似合いだわ」
マリアとしては、別に他意があったわけではない。ただ、価値観が似ている相手なら今後の付き合いも長くなるだろうし、是非とも末永く結ばれていてくれという気持ちだったのだ。
「な、中身……?」
「えぇ、価値観とかそういうの。私、イーサン子爵令息とはあまり話も合わなかったから。家同士の付き合いがあったってだけで、それ以上でも以下でもなかったもの」
実際マリアの言葉に嘘はない。
淑女としての仮面をつけているわけでもなく、素直な笑顔で言ったからか友人たちも一瞬だけきょとんとしたものの。
「そ、そうだったのね」
「でもそこまで話が合わなかったの? あまりそんな感じはしなかったように思うのだけど……」
「それはだって、二人でいる時ってパートナーが必要な場面だけだもの。それ以外で二人きりでデートしたりだとか、そういう事はあんまり……」
どこか言葉を濁すような言い方に、薄々友人たちは気付いていた。
気付いていたけれど、それを面と向かって聞いていいのか悩んだ。
だが、そんな一瞬の葛藤や躊躇は意味がなかったらしい。
マリアは「だってね?」なんて誰も続きを促してくれなくとも、そのままの勢いで話し始めたのだから。
――テラス席でランチをしている少女たちの中に、オリバーのかつての婚約者がいる事にシルヴィは気付いていた。シルヴィもこれからランチを取ろうと思って向かう途中の事である。
オリバーと共に向かおうとして、他愛ない話をしながら移動中の時だった。
レニータ伯爵家にシルヴィ宛の釣書が届いていた頃の話だ。シルヴィに婚約を申し込んできた相手の経歴はシルヴィの目から見てもいまいちパッとせず、シルヴィは彼らとの縁を繋ぐ事を拒んだ。
父はあまり選り好みをするものではないぞ、と言っていたが、母がまぁいいではありませんか、とシルヴィに甘い顔をしたものだから、その時の婚約の話はどれもあっという間になかった事になった。
その後、その中の数名がシルヴィの友人たちと婚約を結んだと聞いて、内心でちょっとだけ笑ったりもしたのだ。
私が選ばなかったおこぼれを選ぶなんて、随分とまぁ……なんて。
友人ではあるけれど、内心で見下していた事は否定しない。
自分はもっと素敵な方と結婚するのよ、と思いながら相手を選んでいたけれど。
しかし自分がこの人となら! と思った相手は既に婚約を済ませていてシルヴィが入り込む余地がなかった。
自分の家よりも身分の高い相手の婚約に割り込む危険性をシルヴィとて理解はしている。
同格の伯爵家から目ぼしい相手を探そうにも、ほとんどパッとしなかったし、かといって下位貴族の中にマトモなのがいるとも思えない……
それならいっそ他国に目を向けるべきかもしれない。
そんな風に思っていたのに、いたのである。
自分の理想を具現化したかのような麗しの男性が。
子爵家、と身分はシルヴィより低いけれど、しかしまぁそこまで離れているわけでもない。多少教育をすれば伯爵家の一員となるのは問題ないだろう。
問題は、相手に婚約者がいた事である。
だがしかしそちらは男爵家。
それならまぁ、どうにかなるかしら……?
そんな風に思って、シルヴィは何食わぬ顔でオリバーに近づいたのだ。
オリバーもシルヴィの美しさに見惚れたのか、二人は視線を交わした段階でお互いあっという間に恋に落ちた。
オリバーは婚約者であるマリア男爵令嬢の事をあまり気にいっていない様子だった。まぁ確かにオリバーの隣に立つにはパッとしないし、何より華やかさに欠ける。
オリバーの隣に並ぶのであれば、それこそ大輪の薔薇やユリのような美貌の持ち主であるべきだ。そう、自分のような。
シルヴィは傲慢にもそう思っていたし、オリバーもまたそれを受け入れていた。
マリアという存在は障害という程のものでもなかったが、しかし多少の恋のスパイスにはなったのである。
だがそのスパイスは少し前になくなってしまった。
オリバーとマリアの婚約はなかった事になった。
そうしてシルヴィとオリバーの婚約が結ばれた。
それは、本来ならば喜ぶべき事だ。
邪魔者が消えたのだから。
けれど、シルヴィは両親に激しく叱責されたのである。
納得がいかなかった。
自分の隣に立つのであれば、相応の美貌が必須だ。
能力的な面は教育すればどうにかなるが、見た目に関してはちょっと手を加えた程度ではどうしようもない事がある。
流石に侯爵家や公爵家の婚約者を奪うような事をすれば問題があるのはわかっていたから、こちらに逆らえないような相手の中で最上の相手を選んだだけなのに……!
よりにもよってうちからあの男爵家に慰謝料を払ったなんて聞かされて、何でそんな事を!? なんて声を上げてしまったくらいだ。
その後お説教が長々続いたけれど、それでも適当に聞き流して。
相手から奪うような真似をした以上、この後何があってもシルヴィとオリバーの結婚は決定事項。後になって「やっぱりイヤだ」は通用しないというところだけは、しつこいくらいに念を押された。
それから。
本来ならばシルヴィに婿を取って伯爵家を継がせる予定だったが、しかしお前のやらかしのせいでそのまま継がせるのは問題でしかないと判断した、なんて言われて。
従弟を養子に迎えてそちらに跡を継がせると言われてしまった。
それでは私はどうなるの!?
思わず叫べば、家にあるもう一つの爵位を渡すと言われた。
ノーリア子爵。
伯爵ですらない、という事実に納得がいかなかったが、嫌なら籍を抜いて平民にでもなれと言われてしまえばそれ以上何も言えなかった。
悔しい!
そんな風に思ったところで、流石に母も今回ばかりは味方してくれなかった。
だったら、子爵から何らかの功績を出してのし上がるしかない……!
そう簡単にいくわけがないのだが、怒りに燃えたシルヴィはオリバーとならやり遂げてみせますわ……! 今に見ていなさい……!!
と、やる気に満ちていたのだ。
向上心がないわけではない。
ただ、その方向性が若干ずれているだけで。
オリバーにも結婚後はノーリア子爵家としてやっていく事になると伝えて、そうして二人で頑張っていきましょうと誓いを新たにしたのだ。
オリバーからすれば、どちらにしても学院を卒業し成人した後は家を出ないといけないので、婿入りする先が子爵家になってしまったのは誤算だが、マリアと結婚していても男爵家に入る事になっていたのだ。
そういう意味ではまぁ問題ないな、と妥協したに過ぎない。
晴れて、二人は婚約者として堂々と振舞える。
学院を卒業後はきっと忙しくなるのだから、今のうちに目いっぱい恋人として楽しまなくては。
そんな風にシルヴィは思っていたのだ。
そんな中で、かつてのオリバーの婚約者の姿を見かけたのだ。
もしかして、友人に婚約者を失った愚痴でも零しているのかしら?
そんな風に思って、少しだけ意識を向けた。
だがしかし聞こえてきたのは、二人はお似合いだという言葉。
確かに、シルヴィの隣に並ぶのであれば、オリバーは相応しいと思う。
当然だ。だからこそ選んだのだから。
けれどもまさかオリバーのかつての婚約者がそんな風に言うとは思っていなかった。
いいえ、と思い直す。
いいえ、彼女と私とでは比べるまでもない。
身の程を弁えていた、という事ね。
そう考えれば、彼女がこちらを祝福していても何もおかしな話ではなかった。
そうね、折角だから、結婚式を挙げる時に招待してあげてもいいかもしれない。
そんな風にも思い始める。
結婚式で愛を誓う二人。かつてオリバーの婚約者である彼女がそれを祝福している光景を見れば、周囲だってシルヴィとオリバーの愛は何も間違っていないと確信する事だろう。
私の婚約者が自分たちよりも素敵な相手だからと気後れして、何かと理由をつけて離れている友人たちだってきっと。
シルヴィは気付いていない。
友人たちはシルヴィの非常識さにドン引きして関わりをやんわりと絶っていっているという事を。
かつて自分に婚約を申し込んできた、それでもシルヴィが選ばなかった相手を選んだおこぼれに与るしかなかった惨めな友人。
そういう風に見下した感情のせいで、既にシルヴィの事を友だなんて向こうは思っていないと気付いてすらいない。
他にどんな賛辞が彼女の口から飛び出るのだろうか、と思って、ほんの少しだけ意識を向ける。
「だってね? イーサン子爵令息ったら街に出かけた時も、他の女の子ばかり見てるし、声をかけられたら簡単に誘いにのるのよ? 私、婚約者だった時は一応そういうのどうかなって注意はしたの。
でも、友人だから、なんて言って聞く耳持ってくれなかったわ。まぁいいけど。
いやぁ、本当にレニータ伯爵令嬢が貰ってくれて良かったわぁ。
手段も順番もおかしいけど、そういうところだけ見たら本当にお似合いの二人だもの」
……は?
と声に出さなかったのは単純に何を言われたのか理解が追い付かなかったが故だ。
「他所の令嬢に手をだしていないだけマシだけど、もしかしたら既に市井に彼の子ができてるかもしれないし。
遊び相手が一人だけならいいけど、複数いるのは把握済みだったし。
あと娼館も利用してたっぽいのよね」
えぇっ!? だとか、きゃあ、なんて小さな悲鳴がマリアの周囲で上がる。
突然の暴露。
大声でないものの、それでも聞こえたであろう相手が耳を澄ませている事にマリアは気付いているのかいないのか、その口は止まる様子がない。
「正直、ねぇ? 利用した娼館、そこまで質が良いところじゃなかったみたいで。
もしかしなくても、性病患ってるんじゃないかな、って思ってたのよね。
ほら、ああいうの、潜伏期間とかあるって聞くし、すぐに自覚症状が出ない病だってあるわけでしょう?
もし仮に結婚したとしても、初夜とか無理。その前に医者に診てもらって問題なしって診断出ないと無理。
診断出ても、潜伏期間内とかだと発見できない場合とかあるって聞くし、婿入りしてもらったらしばらくは外に出ないでもらって絶対に安全だってわかってからじゃないと子作りできないなって思ってたの。
でも、そういうの本人に面と向かって言えないじゃない?
こっちが女遊びを控えてほしいって言ったところで醜い嫉妬か? とか言われて話にならないし。
こっちは純潔守ってるのに、向こうのせいで変な病気とか感染されたくないってだけなのに。
だってもし病気感染した後で子供ができましたよ、なんて事になったら、産む時絶対大変だもの。下手したら命を落とすかもしれないわけでしょ?
感染しなくたって、よそでばらまいた種のせいで貴方の夫の子ですとか言われて跡取りとして受け入れて下さいなんて見知らぬ子ども押し付けられるのも困るし。うちで認知なんて絶対しないし種を蒔いたのはあちらなのだから、責任を取るのであれば彼の個人資産からとらせるつもりだけど、面倒である事にかわりはないでしょ?
いやぁ、本当に、レニータ伯爵令嬢がイーサン子爵令息を見初めてくれて良かったー!
だって私、性病に感染してる可能性のある彼との性行為なんて仮に病気に感染してなくても何となくイヤですもの。こっちは純潔守ってるのに向こうは汚れてるとか、ねぇ?
最悪の初夜になりそうで。
だから私は絶対に無理だったもの」
決してマリアは大声で喋っているわけではない。
ないのだが、しかしそれでも聞いてしまった者たちはいた。
それはマリアと共に会話に興じていた友人たちだけではない。周囲の席にいた他の者たちもそうだ。
それから、つい意識をそちらに向けてマリアの言葉を聞こうとしていたシルヴィも。
マリアが高位貴族であれば、こんな話をこんな場所でしなかっただろう。
というか、それ以前にもっと言葉を濁して遠回しに言っていた可能性が高い。
けれどもマリアは周囲の人がこちらの話を聞いているとは思っていないし、あくまでも友人たちの中だけでの話のつもりであるからこそ、明け透けな物言いをしたに過ぎない。
シルヴィがギリギリでマリアの声が聞こえる範囲にいて、聞いてしまったなんて気付いてもいなかった。
「婚約者がいるってわかっててそれでもイーサン子爵令息を望むような人だもの。レニータ伯爵令嬢ならきっとうまくやれるに違いないわ。
既に仲は深まってるから今更のように婚約者としての交流としてお互い手探りで距離をはかるような事もないし、結婚後の生活だって……ね?」
本当に、マリアに他意はない。
心の底からそう思っている。
マリアにとっては、オリバーとシルヴィは美男美女でお似合い、というのもそうだが、オリバーのクズっぷりを知った上でそれでも手に入れたいと行動に移したシルヴィ、という意味で言っている。お互いに自分の事ばかりで、他人を気遣う事もない自己中カップル。そういう意味でお似合いだとも。
もし周囲にもうちょっと気遣うつもりがあるのなら、そもそもオリバーは婚約者であるマリアに対してちょっとくらいは殊勝な態度で表面上でもこちらを気遣うべきだし、シルヴィだってオリバーとの仲をマリアのみならず周囲に見せつけるような真似をしないでミヌエラ男爵家とイーサン子爵家に話を持ち掛ければよかったのだ。
オリバーのやらかしはマリアも一応親に相談したりもしたのだが、流石に娼館利用はオリバーも巧妙に隠していたからハッキリとした証拠がない。
利用する時もオリバーとして堂々と行ったというよりは、変装して利用していたようだし。
動かぬ証拠がない以上、言い逃れされてしまうとマリアもわかっていたからこそ、コツコツと証拠を集める方向性で努力はしていたのだが……
オリバーは決定的な証拠を残さなかった。ほんのり疑いの目が向いてしまう程度で、たまたまその場に居合わせただけだとかの言い訳で逃げられそうな状況ばかり。
怪しいと思われないよう気を付けるよ、なんて白々しく言い逃れされてしまって、マリアの中で相当なフラストレーションが溜まっていたところに現れたのが、シルヴィである。
オリバーもシルヴィに乗り換えるつもり満々だったので、そちらに関しては証拠がたんと集まった。
シルヴィも見せつけるようにしていたから、目撃証言も自分以外の者から集める事が容易だった。
おかげで婚約を解消できたのだから、マリアからすれば是非ともオリバーとシルヴィにはお幸せにという気持ちであるのだ。
だからこそ二人の仲を素直に祝福すらできている。
だがしかし周囲はというと。
マリアが助かったとはいえ、それでもオリバーは女遊びをしている事が発覚したクソ野郎だし、シルヴィはそれを理解したうえで婚約者を略奪した泥棒猫だ。
マリアのいう二人はお似合い、という言葉の意味を、周囲はそういう方向で認識してしまったのである。
マリアの声が聞こえていて、ついでにシルヴィの姿を見つけてしまった周囲数名の視線がシルヴィにチクチクと突き刺さる。
シルヴィは知らなかった。
オリバーが女遊びをしていた事を。
今この場でマリアから暴露されて、何それ知らない……とほんのり呆然としてしまったくらいだ。
シルヴィと付き合う前の話であればいいけれど、でももし今もそれが続いていたら……?
性病患ってそう、とか普通に令嬢の口から出てこないだろう言葉すぎて、衝撃が凄い。
オリバーが自分の婚約者になったという事実に舞い上がっていたけれど、そんな気持ちに水を差されたようだった。水どころか氷の塊をぶち込まれたとも。
流石に婚前交渉はどうかと思っていたのでそこまではしていなくとも、既に何度か口付けを交わしている。
だが、オリバーはマリア以外の女とも遊んでいたという話だし、であれば他の女とも――
そこまで考えて、シルヴィは具合が悪くなってややふらついた状態で踵を返した。
ランチどころではなくなってしまった。
それどころか、隣にいるオリバーが気持ち悪い存在に思えてしまって、咄嗟に突き放すようにしてしまった。どうやらオリバーにはマリアたちの会話が聞こえていなかったらしく、急に黙り込んだシルヴィが突然オリバーを突き飛ばして駆け出したようにしか見えず、困惑した声を上げながらも、シルヴィの後を追っていった。
この場でどういう事!? と糾弾するような事をしていたのなら、周囲は思い切り二人に注目しただろうけれど。それを理解していたからこそ、シルヴィはなるべく目立たないようにこの場を立ち去るしかできなかったのである。
マリアは知らない。
シルヴィが聞いていた事なんて。
周囲も気付いていた者はいたけれど、わざわざマリアに知らせたりはしなかった。
さてその後の話ではあるのだが。
オリバーとシルヴィの仲は以前のようにとはいかず、ぎくしゃくし始めた。
オリバーはマリアに不満があって他の女に目移りしてはいたけれど、シルヴィに不満はなかった。故に彼女との婚約が決まった時点で女遊びはすっぱりとやめていたのだが。
しかし過去に様々な女と遊んでいた挙句、性病を患っている可能性があると元婚約者が言っていた相手と知ってしまったシルヴィは、今女遊びをやめたからって過去にしていたわけなんでしょう!? となったのである。
シルヴィは確かにマリアから婚約者だったオリバーを略奪した。
けれども、その時点でしていた事はまだ健全な触れ合いである。隣に身を寄せて座るだとか、手を握るとか、腕を組むとか。決して自らの胸を押し付けるまでの接触はしていない。人目を避けて見つめ合う事はしたし、そのうち口付けを交わした事もあるけれど。
だが、その先に進んだりはしていない。神に誓って言える。
シルヴィとて貴族令嬢としての教育を受けていたのだから、婚前交渉だけはどんな理由があろうとも問題であるとわかってはいたのだ。
だからこそ、そこまでは許していなかった。
婚約者となって、卒業後に結婚した後で……と思っていたのだ。これでも。
略奪しておいてなんだが、まだ常識的な面を残していた。
けれども、オリバーの女遊びについて一切知らなかったとはいえ、それでもだ。
オリバーの元婚約者であるマリアの口から、二人がお似合いと出た事で。
美男美女という外側だけのお似合いだけではなく中身もお似合いとまで言われた事で。
周囲はシルヴィもまた男を落とすために手段を選ばない性に奔放な女という風に見なしたのだ――と、シルヴィは気付いてしまった。
違う。今までそんな複数の殿方に言い寄るようなはしたない真似をした事はない。
けれどもオリバーを奪った事実のせいで、過去にしていないとどれだけ言ったところで、でもオリバーの事は奪ったじゃない、と言われてしまえば否定もできないのだ。そうして過去にもどうせやったんでしょ? と疑いを持たれるようになってしまったのである。
オリバーが女遊びをしていたからといっても、それがそこまで話題にならなかったのは彼がとるに足らない低位身分の存在だったからだ。その美貌を使って高位身分の令嬢にコナをかけていたのであれば早々にどうにかされていたけれど、彼は危険な火遊びをするつもりまではなかったからだ。
何か失敗しても泣き寝入りで済ませるだろう平民を相手にしたり、金さえ払っておけば問題のない娼婦だけに狙いを絞っていた。
娼婦はともかく、平民はあわよくばを狙った者もいたので完全な被害者とも言えない。
だがそれがどうしたというのか。
パッとしない婚約者を持つオリバーの事を選んだのはシルヴィである。
どうしても欲しかった。
キラキラと輝く星に手を伸ばすくらいの気持ちでやらかしたのはどうしようもない事実。
けれどもその星が既に様々な手垢のついたものだと知って。
確かに奪いはしたけれど、シルヴィの貞操観念はそこまで終わっていなかったからこそ。
オリバーに対して若干距離を取り始めたのである。
潜伏期間過ぎてから確実に性病に罹っていないとわかってからじゃないと、おちおち触れたくもない。
まかり間違ってこのまま結婚して初夜を迎えるとなった時、自分の体内に穢れたブツを受け入れたくはなかった。
本当だったら婚約もなかった事にしたいくらいだったけれど、しかしそれはできなかった。
仮に婚約を解消されたとしても、そうなればシルヴィはオリバーの婚約を割り込んでまで奪ったくせに台無しにした責任を取れと言われるだろうし、そうでなくともどういう事情であれ略奪した事実は消せないとなれば。
シルヴィの次の相手など親子以上に年の離れた相手の後妻か、愛人か。下手をすれば異国のハーレムに売られる可能性だってあり得てしまったのだ。
そうでなくとも、シルヴィはレニータ伯爵家の後継者の座から既に外されている。
それを今更騒いでごねたとして。
そうなれば次は子爵の立場もいらぬとみえる、なんて言われて平民に落とされるだけだ。
少し前までなら母がどうにかしてくれるかもしれない、と淡い望みも持てたけれど、しかしオリバーを奪ったという時点で今まで自分に甘かった母からその甘さが抜けてしまった事をシルヴィは嫌でも理解してしまった。
後悔したところで今更なのだ。
ノーリア子爵となった後、二人で功績をたてて爵位を上げようと思っていたが、恐らくそれは無理だろう。
シルヴィはその事実にも気付いてしまった。
マリアは茶会などで二人の事を吹聴したわけではない。あくまでも友人たちとのちょっとした話で、それをわざわざ他でも何度も口にするわけでもなかった。
けれどもそれを聞いてしまった者たちからすれば、大層面白いゴシップニュースだ。
だってそれを語った時のマリアは、周囲が話を聞いているなんて思っていなくて、友人たちとの間のちょっとした愚痴くらいのノリで語っただけ……なのだが、それはつまり。
建前すら取っ払った本音である。
社交辞令だとか、美辞麗句だとか。そういったものが何一つとして含まれない、真実の言葉。
信憑性という点では、思い切り信用できてしまうものであるが故に。
間違いなく醜聞として広まるのだ。
それを察してしまったシルヴィは、後悔しながらもどうにかオリバーとやっていくしかないのだ。
今から嫌だとごねたところで、オリバーと別れる事は不可能。
仮面夫婦として表面上だけ取り繕うにしても、そうなればオリバーは再び女遊びに走るだろう。
成人後、婿入りできなければ家を出るしかなかった男が、わざわざマリアから奪うまでしたシルヴィという存在を簡単に手放すとも思えない。
今後の自分の立ち位置が、間違いなく笑い物になるとわかってしまった。
今まで見下していた友人たちの事を、もう笑えなくなってしまった。
だってもしシルヴィがオリバーの事を愚痴ったとして、返ってくる言葉が簡単に想像できたからだ。
パッとしない男だと侮っていた友人たちの婚約者は、しかし間違いなく誠実で浮いた話なんて出てすらいない。
そういう男をわざわざ選んだのは貴女でしょう、なんて言われるのがわかりきっている。
自分以外の女ととっくに関係を持っている男なんて汚らわしいとすら思っているのに、しかしそれを自ら選び取ってしまったのだ。今から結婚後の初夜を考えただけでも吐き気がしてくる。
お先真っ暗とはまさにこの事ね……とシルヴィは自らの視界が黒に染まるのを強く感じていた。
彼女が幸せになれる道は、いっそ己の潔癖さと折り合いをつけて吹っ切って開き直る以外にないのだが。
彼女の精神がそこまで図太くなれるかどうかは……今はまだ、誰にもわからないのである。
次回短編予告
親の再婚。結果できあがったのは義理の姉妹。
邪魔者扱いの姉。優遇される妹。
今や姉の持ち物はほとんど残っていなくて、全てが全て妹のものとなった。
次回 お義姉様から全てを奪う強欲な義妹とは私の事です
ゆるふわなノリで書き始めたのに後半がとてもじめじめしている不思議。




