中年キッド(4000字)
ふわり。ぶん。ぐるんぐるん。
頭が揺れる冷や汗飛ぶ。舌も脚もがくがくする。
彼は今、にこやかにほほ笑む若者の腕に抱えられている。
若者に支えられて、分厚いマットの上で一回転。
浜田紘一41歳。二男一女の父。
バク転を決めたのは実に二〇年ぶりだった。
『パルクール・ボルタリング・スラックライン・KARATE』
中年太りを諦めて早一〇年。
妻は産後太りだが本人も紘一も『幸せ太り』と呼んでいる。
奥様方と毎週ランチの妻は自分の事を棚に上げ紘一に運動をするように迫った。
「なんか運動しないと、死んじゃうわよあなた」
もともと紘一は煙草もしない。酒も辞めた。
高校生になる娘を筆頭に、中学生の長男、小学生の次男と遊ぶのが唯一の趣味だ。
活発な今どきの高校生である娘は最近遊んでくれないが、中学生の長男とは時々キャッチボールをするし、帰宅すれば次男が隠したものを家族で探したり、皆で絵を描きその描いたものの当てっこを楽しんだり、けん玉といった昔ながらの遊びをする。
ゲームも少々やるが、あくまでたしなむ程度である。
紘一にとっては日常事が趣味と云えば趣味であり、今更なにかを始めたいと思ったことはなかったのだ。
「バク転ってどう」
「はい?」
妻はテレビを見ながら『中高年のバク転教室』特集とテロップの浮いた番組を見せる。
「お父さん、昔はスポーツ万能だったじゃない」
「いや、そんなことはない。バク転なんて子供のころからやったことない」
戸惑う彼に娘が楽しそうにはやし立てる。
こら、話しながら箸を動かすなとたしなめる彼を無視し、彼女は面白そうだ。
「いいんじゃない!? お父さん! お父さんがバク転出来たらみんなウケるもん!」
「そうかな。この歳だよ」
「いけるいける。ぼくも自慢する」
「めっちゃおもしろいじゃん。僕も賛成」
中学生と小学生の長男次男も何故かこの提案に乗った。
こうして紘一は、バク転を習うこととなったのである。
紘一の給料は間違っても良いものではない。
夫婦二人の稼ぎとその両親たちから頂く(※彼にとってはとても心苦しいものだが)年金や仕送りでやっと養育費や住宅ローンを支払っている立場だ。幸い紘一は残業がなく、家が職場に近い。
「いや、まって。家事はどうするの。誰もやらないだろ。それは無理だよ。母さんはいつも遅いんだよ」
中学生の息子と高校生の娘は意味ありげに笑った。
『任せなさい』
翌日、息子の彼女と娘の彼氏が汚した分まで彼は掃除する羽目になった。
とにもかくにも、『週に一回の教室に通うだけは家事を代わってあげる』とはしっかりものの次男の台詞である。
姉弟は仲が良く、特に次男に甘い。次男が率先すれば二人は否応なく真面目に家事をするだろう。
正直、受験勉強こそを頑張ってほしいのだが。
「やった! 木曜日はお父さんやお母さんの監視なく、家で遊べる! ゲームできる!」
姉弟の発言にいささか不安を感じる夫妻だったが、妻の思い付きは実現の運びとなった。
そういうわけで、紘一は若々しい美男子に抱っこされる事態となっている。
空中回転のし過ぎで軽い脳震盪になったらしい。
紘一と同じく中年男性が何人かいる。
一人は弁護士。かなり鍛えている。
もう一人は紘一と同じサラリーマン。ただし紘一と違い独身で体格は痩せており表情は暗い。
さらに一人は女性である。明るく愛想の良いいかにも運動が得意そうなスタイルの良さが際立つシングルマザーだった。
後ろで応援していた妻が殺気立った表情を紘一に向けていることに気づき、紘一は彼女と話すのをそうそうに切り上げた。
妻と彼女がLINE交換しているのを横目に、男たちはFacebookのフォローをし合う。
中年でパルクールをするなんて面白いじゃないか。弁護士の言葉に男たちは少年のように笑い合う。
『中年キッド』
グループ名は即決された。
四人は家族付きで後日呑みに行った。
膝の力を抜いて壁登り。
パルクールは派手なパフォーマンスが目を引くが、受け身を覚える事。垂直の線を正確に早く歩くこと、そして的確な身のこなしが重要だ。それには強靭な体幹を必要とする。
スラックラインは登山用ザイルを使って綱渡りをする余興が発達し、トランポリンのようなトリックを決めるのがスノーボードの経験がある紘一にはやりやすかった。妻と出会った頃を思い出して紘一は微笑んだ。話によればどちらも日本の輸入会社が関わっているらしい。
ボルタリングは簡単なルールを教えられる。指定された石以外を使ってはいけない。
予想以上に脚を使う。むしろ握力は必要ではあるがそれほど重要ではない。
空手は……紘一はケガを何より恐れたが、週に一回の教室であり、自主参加である。
基本と型を見せてもらい、その練習だけでいいらしい。これは社交ダンス経験がある紘一にはとてもわかりやすかった。
紘一はこれらを仕事の合間や休み時間に少しづつイメージトレーニングや練習をするようになった。
合間にスクワットがてらに片足膝の上にもう片方の足首を乗せ、股関節を拡張する。この動きはスラックラインで必要なバランス感覚と体幹の強化にもなる。
次男と同い年位の子供たちに交じりスラックラインやボルタリングに汗を流し、彼らに教えを乞う。
謙虚で、時として彼らと同じ目線で遊ぶ紘一はすぐ子供たちに馴染んだ。
空手も、型だけはなかなかうまくなった。組み手をやらずに済むのが逆に紘一にとって上達と精進の原因となった。
グループ『中年キッド』は仲間を増やしつつ、月に一回の会合を重ねていたが、新型コロナウィルスという病の所為でなくなってしまった。オンライン飲み会やZOOM飲み会もやってみたが馴染めなかったのだ。
そんなある日。
紘一は『中年キッド』と名乗る怪盗の噂を聞いた。
どこともなく金持ちの家に忍び込みお金を手にし配るらしい。
「けしからん奴がいる」
弁護士は憤慨していた。
「いや、彼はヒーローだよ。格差社会を知らないのかい」
痩せた男は目をらんらんとして口角泡を飛ばす。
「私は別に……」
紘一はその人望から初期メンバー四人の内からリーダー格となっていた。
その紘一にシングルマザーが叱咤する。
「でも、こんなの許せない。紘ちゃん、捕まえられないかな」
「ぼくらはただの社会人。警察とかに任せようよ」
紘一は憤慨する彼女をパソコン越しになだめ、テーブル側でビールを飲む妻に変わっておかわりを冷蔵庫に取りに向かう。
その日は、それで終わった。
翌日。奮発して買ったテイクアウト寿司店の安売りを片手に帰る紘一の目にパトランプの明かり。
噂の怪盗が現れたらしい。紘一は厄介ごとを避けて狭い通りに入る。猫くらいしか通らない道だ。安全に帰宅できるはずだった。
壁の上、猫にしてはあまりにも大きな影が駆けていく。
ふと見上げた紘一。街灯が影を照らし、その大きな隈のういた目と彼の瞳があった。
「君は!」
「ちっ!」
見まごうことのない、痩せ男。『中年キッド』の初期メンバー。
紘一は走った。狭い路地を走った。
痩せ男は躊躇うことなく、屋根がついて走りにくいはずのブロック塀を疾走していく。
「110番!」
紘一は携帯電話を取り出し、警察を呼ぼうとして……痩せ男が時々見せた笑顔を思い出し躊躇った。
彼との友情、彼が憤慨する世の中の理不尽。そして彼が妻を持てなかった経緯を知っていた。
それでも110番通報をクイックボタンで行おうとしたとき、痩せ男は跳んだ。
「なっ!」
痩せ男は隣の家の壁に向かって易々とジャンプし、膝で勢いを殺してそのまま立ち、90度角に走り、屋根を超え、電柱にぶら下がり、あるいは電線を跳ねて飛んでいく。
「待ちなさい!」
紘一は気付いた。
彼はナイフを持っている!
「見られてしまったからにはお前の家族を殺す」
「なんだって」
今、彼は何を云った?
思考停止に陥っていたのは紘一の感覚として永遠に近くしかし実際には一瞬。
妻を、子供たちを守らねば。住居侵入? 知ったことか。
紘一は駆けた。街灯に照らされたブロック塀に直撃する寸前、彼の膝からは力が抜け。……夜空に向かって駆けだした。
電柱の握りを握り舞い、エビぞりのまま街の明かりを受けて飛ぶ。
盆栽を飛び越え、SNS映えを気にする学生たちを駆け抜け、二つの影は疾走していく。
「とまれ! 娘たちに手を出すな!」
「今どき子供三人を育てられるとか、ありえねえんだよ!」
悪態をつきつつ走る彼を追って、紘一も屋根瓦を蹴り、あるいは受け身を取って進む。
ナイフをかざした痩せ男の刃をクッション代わりに使っていたかばんで受け止める。
紘一の視界いっぱいにナイフが迫る。
力を抜け。
身体の芯を通せ。
線を伸ばして。
飛べ!
バク転。足の切っ先が痩せ男の顎へ。
サイレンの音が近づいてくる。
紘一はそっと家族を抱き寄せた。
紘一は会社員の傍らジムの指導員になった。
図らずしも侵入したご近所さま方には平謝りした。
町おこしパルクール大会の出店の一つである『体験教室20分五百円』の看板を掲げつつ、紘一はあの一夜を想っていた。弁護士は痩せ男の弁護についた。シングルマザーは再婚した。
紘一の腹には相変わらずの脂肪と、愛といっぱいの夢が詰まっている。
(『中年キッド』 了)




