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短編集。『五分間の奇跡』  作者: 鴉野 兄貴


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327/389

カモノハシVS日本軍!

 ラヂオが雑音と共に音楽と正午を知らせる。

 彼女は大学教授という身分に合わないツナギ姿でモップを動かし、床を磨く。

 先程まで汚れていた床には動物のフンがさらに大きく広がる残念なことになっていた。もう少し磨いて水で流さないと。

 痛む腰に手を添えてふんと軽く鼻を鳴らして奮起。


 彼女はララ。職業は動物学者。


 この研究所は水はけがよろしくない。ちゃんと傾斜をつけて水道の位置も見直さないと。彼女はバケツを持ち直し、モップを手に取ろうとして妙に重くなっていることに気づく。


 モップにしがみついてぱたぱた。


 くちばしに濃い毛皮、水かきに脂肪の詰まった大きなしっぽのそのいきものはララにじゃれる代わりにモップで遊ぶ。


「こら。ウィンキストン。もう!」


 右手右足と左手左足を交互にもたもた動く愛らしい謎のいきものはララから逃げようとするもあっさり脂肪の詰まったしっぽを持たれて無力化してしまう。のたのた。


 このいきものにはかかとには犬くらいなら死に追いやる危険な毒の蹴爪があるが、しっぽを持たれると無力化する。


 この獣の名前はウィンキストン。この国独自の珍獣である。

 重さにして一キログラム、これでも成体。


「さあ。おしおきしてあげようかしら」


 そういいつつウィンキストンを可愛がるララとされるままになるウィンキストン。ストレスに弱いはずのカモノハシが素直にグルーミングを受け入れている。


 そこにコツコツと革靴の音。この時代はゴム底の革靴は珍しいものだ。


「ララ。ここか」

「チャーチル!」


 両手を広げて抱きつくララ。軍務から解放され愛する人に出会えた喜びに頰を緩ませるチャーチル。


 しかし、ララのつなぎは動物のフンまみれ。チャーチルのスーツは買って初日で台無しになった。



 歴史は語られる歴史とそうでない歴史がある。

 この物語はとある男女と一匹のカモノハシを中心としたささやかな物語である。


 時は12月。オーストラリアと日本は季節が逆転している。この他のサンタクロースは南洋諸島の原住民が使うサーフボードに乗ってやってくる。



 オーストラリア連邦からすれば日本国は現在、唯一の本土侵略国家である。

 しかし日本国にとっては教科書の一行以内に『英連邦』『豪軍』と書かれているかいないか程度の扱いで明らかに歴史認識に差異がある。



 本邦では一般的な知識と言い難いが、オーストラリア連邦は日本と戦い多くの犠牲者を出した。

 特に捕虜となり収容所に入れられた人々は脱走者6名を除いて皆殺しの憂き目に遭っている。



 初期の日本軍は強かった。

 卑怯なる真珠湾攻撃とほぼ同時にイギリス連邦に挑み、瞬く間にシンガポールが陥落。第一次世界大戦でドイツから奪った南洋信託領もあって徐々に南下、遂にオーストラリア連邦を攻めんとしていた。


 ヨーロッパから遠いオーストラリア人にとっての黄禍は初期こそは職を奪い別文化を持ち込む中国人だったが、日清戦争に勝ち日露戦争で政治的解決を手にした日本の海軍力はやがて現実的な脅威となる。


 また、名目上とはいえ日本が人種差別を廃そうとしたのも理解不能な恐怖だったろう。


 この頃のイギリスは黄禍論を推し進める陰謀の一環として、山田長政がヨーロッパ人より早くオーストラリアを発見していたとする冒険小説をソースに論文を書いていたりするらしい。



 そんなわけで。


「ウィンキストンを英国に!?」

「そう。これは重要な作戦なのだ。ララ。協力してほしい」


「カモノハシを外交に使うなんて!」

「理解してくれ! ニホンジンどもに我が国の土を踏ませてはならないんだ!」



 史実のオーストラリアはマッカーサーが国内に連合軍本部を置き、パプアニューギニア戦にて日本軍を退けている。


 オーストラリア軍の活躍。そのあとの日本軍の凋落は語るまでもないがこの時点では。



「オーストラリアにとってニホンジンは現実の脅威であり、米国や英国との関係強化は必須なんだ!」


「反対よ! 反対! カモノハシは繊細な生き物なのよ! ちょっとしたストレスで死んじゃうの! そして優しく人に懐くわ! 特にウィンキストンを英国に送るなんてダメ! 許せない!」


 ララの婚約者チャーチルはそれなりに温和な男で、ある程度はニホンジンを知ってはいるが、ちょっと前まではアボリジニをマンハントして遊んでいたこの大陸の一部の、あるいはあるコミュニティでは大部分かもしれない人たちの感覚においてニホンジンは人間というより得体の知れないエイリアンのような不気味な存在である。


 そして忌まわしくも彼ら彼女らと交配できる。



「知っているだろうが、彼らは我々と交配できる」


 チャーチルはニホンジンの中の陽気な知己たちをほんの僅かに思い出したが……彼の男性にしては優美な指先が軽く彼の額からこめかみを撫でるのをララは見ていた。そして彼に反論した。


「私は生物学者よ。交配できるなら同じ生き物だわ」


 ララは希少生物に見せる母性に反して男性よりも理論的な一面がある。

 フンまみれの彼女の指先は、わずかに最新のマニュキュアが見える。

 根本の白と指先の白は残して赤く塗る。

 化粧気のない女性だが紅は丁寧にひいていた。オリーブ油を塗ったかのような艶やかなララの唇の赤。


 誰にも奪われたくない。ましてやつらに。

 この国を、街を、友人を、女たちを、子供たちを。

 何よりこの生意気で甘い唇を。



「君はアボリジニやニホンジンや黒人が我々と同じというのか? 知能でも体格でも美醜でも大幅に劣るアレらと、神自ら作りたもうた我々が!」


「あなたは非理論的な感情論者よ! 軍人に向かないわ!」

「君は女だてらに学者なんてやっているから逆に優生学を理解できないのだ!」


「ダーウィンをあなたはちゃんと学ぶべきよ!」

「……現実問題として、ぼくだってウィンキストンがかわいいんだ。ニホンジンとは比べるまでもないけど、英国にモノのようにあげたり無理矢理輸送して死なせたくない。生物学者として、彼を殺さずに英国に輸送するプランに協力してほしい」


 チャーチルにとって個人的な知己がニホンジンにいないわけではないが、手足の短く小柄で肌の色も髪の色も異なる人間に似たグロテスクな毛無ザルもどきに婚約者をはじめとした乙女たちの純潔を散らされる恐怖はかなり現実的であった。


 急に話題を打ち切るチャーチルにララはウィンキストンを手放すのは決定事項だと悟らされた。


 職業夫人の証であるルージュを噛み締め、マニュキュアを塗った爪先が彼女の掌を傷つけ。


 二人の悲しみを知らぬウィンキストンはララ及び久しぶりに会ったチャーチルに甘えている。のたのた。



「カモノハシは繊細な生き物。人間にはわからない知覚神経があるかもしれないわ。例えばこの子の嘴は柔らかくて全く役立たない器官に見えるけど、実際は生物の発する微弱電気を感知出来るかもしれない。温度、湿度、水温、あらゆる環境の変化に耐えるとは思えない」

「その辺は軍も考えた。潜水艦を使う予定だ」


「環境を維持する水槽を私に作れと?」

「……ごめん」


 のたのた。逃げようとするウィンキストン。彼をあやすチャーチル。


 チャーチルは動物学者ではないが、ウィンキストンは彼のグルーミングを受け入れている。


「……軍人になったのは間違いだった。僕は君が、そしてウィンキストンがかわいい。他よりずっと。……もちろん軍人として国を、国民を守りたいという使命感はある! でもね。僕はそんなプライベートを優先してしまう自分は軍人に向いているのか、悩むのさ」


 モップで遊ぶウィンキストンと戯れるチャーチル。

 もはや久しぶりに婚約者に会うため仕立て直したチャーチルの服の裾は動物の糞でひどい状況だった。


「その辺よね。私たちがお互いを好きになったの。いつもあなたには驚かされるわ」

「それは僕の方がだよ」


 指先が絡み合い、乾いたヒルと艶やかな赤いヒルが睦み合うように二人はそっとその口先を重ねあう。


 その間、ウィンキストンはのたのたとチャーチルの裾で遊んでいた。



 オーストラリアから英国までの道のりは遠い。

 各補給をおこないつつ、安全を確保したら海上を、日本海軍の通商戦打破をせんとする戦力とはなるべく交戦せず、確実に英国にたどり着く必要がある。また、オーストラリア固有種であるカモノハシを輸送中に殺すわけにはいかないので細心の注意が必要であり。



「私も同行するわ。いいでしょう」

「絶対ダメだ。彼の相手は私がする」


「あなたには無理よ」

「まだ塞ぎ足りないのかい」


 卑怯だわという言葉が途切れる。

 その間、ウィンキストンはチャーチルの投げたシルクのハンカチを新たなおもちゃとしていた。



 旅は順調に進んだ。

 ウィンキストンも多少の体調変化はあったもののチャーチルのわかる範囲ではいつもどおりである。


 しかし軍人になってカモノハシの世話役になるとは。

 部下たちに笑われるのは致し方ない。


「我々よりエアコンを使えるカモノハシ様!」

「幸運の聖ウィンキストン様。この航海を守り給え」


 ガハハと皆が笑う。

 狭い艦内ではほぼプライベートが存在しない。

 チャーチルはすでに身分の低い水夫たちの信頼を得ていた。


「こう、うちの犬みたいにメシを食わせられないのですか」



 移民時代に持ち込まれ、その雑食性と適応性で多くの有袋類が滅ぶ原因となった犬とカモノハシを一緒にしてはいけない。


「俺、この任務が終わったらララと結婚する」

「おい副官。最近のロマンス小説ではそういうことを言うとひねくれ者の作者がそのキャラクターを殺して悲劇の演出に使うらしい」


「読んだことがないぞ。何というひねくれ者が書いているのだ」

「さあ? 女房が言ってたし。まあコアラみたいな顔しているやつだけどアレでも長年一緒だとかわいいもんでしてね」

「おまえの女房、どんだけ偏食で寝てばかりで凶暴なんだよ!」

「うっせ! おまえのカンガルー女よりマシだ!」


 寝食を共にし、沈んで死ぬときは一蓮托生。潜水艦乗りの気質はウィンキストンを受け入れ、ニホンの梅雨の如きだったチャーチルのウジウジした気持ちを大いに晴らしてくれた。


 ともすれば真っ暗闇の海の中、迫り来る敵軍に震え、あるいは気候の変化に戸惑い、それでも明るい潜水艦乗りの気質がどれだけチャーチルの心を晴らしてくれたか分からない。


 のたのた。

 マイペースなウィンキストンも。


 しかし、遂に日本海軍所属のとある潜水艦は、敵と思しき音を見つけていた。


 終わりの始まりが迫ってくることをチャーチルたちは知らない。


 のたのた。

 珍しく暴れるウィンキストンに「うん? 聖ウィンキストン様がご機嫌斜めですぜ飼育係」「副長な!」陽気に笑い合う男たち。


 ここのところ何ヶ月も妻を抱いていないし風呂にも入らず垢まみれ。ウィンキストンの生育環境を守るため人間の環境はかなりよろしくない。


 これまで敵の兆候も存在もなく、ユルんでいる彼らに日本海軍が誇る酸素魚雷が迫りつつあることなどわかろうはずがない。


 この日本潜水艦を預かる、『水鏡』という男はその端正な容姿に反して勇猛かつ理知的な理論家であり、また情を知る人物として部下に慕われている。


 水鏡率いる艦は一週間にもわたり、チャーチルたちの艦を尾行していた。

 英国から潜水艦を借りたオーストラリア海軍が外交上重要な物品を英国に運んでいるという情報も得ていた。



「必ず沈める」


 慎重に。理想は一撃必殺。ただしこちらも補給は意識せねばならない。

 水鏡艦のクルーは声を顰め、足音に気をつけて、徐々にチャーチルと艦内スタッフ、そしてウィンキストンに迫っていた。



 カモノハシの遺伝子は鳥に恐竜もどきに爬虫類などさまざまな特徴があるという。

 この原始的ないきものが何故長年の生存競争に耐えたのかは彼の婚約者ならざるチャーチルの知るところではない。


 しかし、船員が『聖ウィンキストン』と揶揄い半分に命名し、皮肉とはいえあたかも聖者の如く接する遊びの対象であるこのカモノハシが普段と違う様子であることは気づいた。


 実際、ウィンキストンはその人間ならざる知覚を持って、水鏡率いる潜水艦の放つなんらかの攻撃意図を察知していたのだ。



「ウィンキストン……チャーチル」


 その時、世界の『上』、地球の南側で二人を待つララはウィンキストンを模したぬいぐるみを抱きしめていた。

 チャーチルの意外な特技はぬいぐるみ製作。

 それは亡くなった母から学んだらしい。



 枕の代わりにとチャーチルはそれを残していったが。


 ぬいぐるみのボタンでできた目をじっくり眺めつつララはつぶやく。

 物資は不足しており、そのぬいぐるみもまたボタンでできた瞳は左右異なり、その間抜けな面構えがかえってオリジナルを表していた。


「帰ってきてね」



 そのとき、彼女の聞き取れない遠く、深い昼間の闇にて大きな爆発が起きた。



「仕留めたか?」

「いえ。回避されました」


 舌打ちを我慢したのはこの日だけではないが、冷静を保って見える水鏡は内心驚愕していた。


「気づかれた痕跡はなかったはずだが」


 チャーチルたちも驚いていた。


 チャーチルの監視を潜り抜け、懐に隠した酒飲んで任務をほっぽり出していた二人の船乗りは親愛なる『聖ウィンキストン様』の尋常ならざる動きに気づいた。


「次ぁ。ウィンキストン様が右に動いたら右に舵を切ります」

「マーク! 舵で遊ぶな」


 呆れるチャーチル。最初カタブツ扱いだった副長様は随分丸くなられた。


 爆発音がしたのは、そのあとである。



「なんだあ?!」

「静かに! 敵襲だ」


 シッと声を顰め、あるいは口元を抑えてモガモガするクルーたち。

 ほんのスプーンひとつの落下音すら、奴らに勝てる機会を与えてしまうのが潜水艦乗りの戦い。


 ここでガスを放つおろかないきものがいなければ。


 ばぶー。


「おっさんが屁をこいたぁ!?」


 Yellow Submarine!


 もちろん水鏡率いる潜水艦はその音を聞き逃さなかった。


 揺れる艦内。どこかでブレーカーが落ちたらしい。

 震える男たちに水がかかる。


「もう、ダメだ」


 幼子の写真を握りしめて泣く髭面を叱咤し、修理作業に向かわせる。

 毒ガスが発生する。沈没させられる。水圧で圧壊する。

 ありとあらゆる恐怖と潜水艦乗りは戦わねばならない。


 のったくった踊ってみえる謎のいきもの以外。



 遥か海の果て、彼らの愛する人々を守るため、暗闇の中息を顰めて彼らは戦う。



 その彼らの本国、ある部屋にて、花に水を与え香りを嗅ぎ、ぶさいくなぬいぐるみと向き合うララ。


「ウィンキストン。あなたはとても賢い子だから、チャーチルを生かして帰ってくるようにしてくれるよね」


 陽光が差し込み、ウィンキストンを模したぬいぐるみを、乾きかけたカップを照らす。



 チャーチルの艦はかろうじて致命傷を避けた。

 被害は軽微であり、航行は可能だ。



「神よ! 主よ! 救いたもう!」

「瑞穂の國の神々よ。扶桑のみたまよ。我らの戦い御照覧あれ!」


 それぞれの国の母を、妻を、友を子供を脳裏に抱き、彼らは己たちのカミに祈る。

 我を助けたまえ。

 荒ぶる神よ。願わくば手出ししてくれるなと。


 のったくったする水槽の中のいきもの以外。



「今だ! インド人を右に!」

「上からくるぞ気をつけろ!」



 舵を切る操舵手たち。

 修理に向かうもの。

 敵音に傾聴する娘。


 それらを、人間たちを、輝く電気の人形のように把握する……カモノハシ。



 カモノハシの視力はないに等しい。もともと泥の中で餌を求めるいきものだ。

 カモノハシをまじめに研究するものは現実世界の現代日本においても限られる。



 この物語は虚構なので、ウィンキストンが感じる、音と、踊るような光たちの世界は、作者の空想に過ぎない。


 微かな音が織りなすハーモニーも、ふつふつと湧き立つ海底火山の熱の優しさも、太古より続く波の鼓動も、最近この星にて輝き出した電気信号をやたら脳内で放つニンゲンといういきもののことも、それらをこの小さくか弱いウィンキストンが把握していることも、作者の空想である。


 ウィンキストンは彼に共感してくれる青年に天啓の如く何かを、そう音でも匂いでも味でも皮膚感覚でもない原初的な何かを伝えた。


 それは哺乳類や鳥類や爬虫類や両生類、あるいは魚類やそれ以前、我々とウィンキストンの先祖が同一だった時代あるいは『神』なる何者かが彼らに授けた何かなのかもしれない。



 咄嗟だった。

 チャーチルは、操舵手に噛み付くように飛び掛かり舵を切らせた。


 魚雷が当たらなかったことを水鏡は知った。



 チャーチルは見た。

 視覚でも聴覚でも、めでみえるもの、ましてみみできこえるものではない。

 味でも匂いでは痛みでも柔らかなキスでもない。


 この星に、いきものが満ちて、そして波打つように消えて生まれている光の洪水を。

 バチバチと弾けて生まれて消えていくいのちたちを見守るなにかおおきな、この星の暖かく冷たくそしてそれ以上の何かを。



 チャーチルは水槽の中でのたのたするウィンキストンに気づいた。



 自分が涙を流していること。少し離れた、彼の視線の先でニホンの潜水艦がいて、隠れて、そして自分たちと同じく戦っていることを。



 チャーチルは感じた。



 水が唸り。風が世界を循環し。この手の暖かさが遥か彼方のララに届いていること。彼女の匂い。笑い声。優しい目が自分を、ウィンキストンを今だ守っていることを。



『主よ。守り給え』



 ララが彼らの無事を祈っていること。

 あの潜水艦の中に入るニホンジンたち、その妻たちの想いを。



「かみさま。おとっさんをおまもりください」

「愚息の武運長久を祈らん」

「南無八幡大菩薩」

「お狐様。これが最後の厚揚げになります。どうか、どうか夫だけは」

「ヰヱスの神よ。愚かなる我らに慈悲与えたまえ」



『ウテヱ!』



 艦長が、水鏡が叫ぶ。ソナー主は互いの声を聞いた。

 ウィンキストンは、チャーチルは、水鏡は、鉄より分厚い水の中、お互いを感じていた。


 なぜおれたちは戦っている?

 剣に聞け! 我ら武人なり!


 尊敬し合い、心通じ合う者同士が、殺し合う。

 タノシイ。カナシイ。


 お互いの想いが像を結ぶ。


 それはオーストラリアのあの汚い研究室の飼育室にてモップを動かすララであり、あるいは奇妙な服を纏った日本の美しい夫人てあった。



「報告。戦闘継続は不可能。弾が切れます」

「……艦長、ウィンキストンの飼育槽に損傷あり。本作戦は失敗です」



 直せないこともないが、イギリスまでウィンキストンを運ぶのは無理だ。今ならオーストラリアに帰れるだろう。


 深い深い水の底。臭い油で動く鉄の檻たちは、その中にある人々は遠くお互いを見ることはできなかった。


 国、民族、人種、思想に宗教。そして愛する人。全て異なる。


 しかし、些細なものだ。


 こつこつこつ。


 ある一定の間隔で日本艦より音が聞こえる。


「モールス信号です。残念ながら意味は不明です。『我惜しくも弾と燃料尽きし。帰投する。お互いの武運を祈る。願わくば再戦したし』」


 それは日本語であったが、チャーチルには理解出来た。


「『バカヤロー』」「はっ?」「『バカヤロー』と答えとけ!」


 苦笑いし、艦長を、操舵手を抱き抱えて大笑いするチャーチル。

 緊張が徐々にとけ、なんとなく状況を理解しだす艦内。


「俺たちの勝ちだ!」

「オーストラリアに帰るぞ!」


「ざまぁだぜ! いけすかねえイギリス野郎どもに俺たちの聖ウィンキストンを渡さないで済むし、日本軍も追い返した!」



 苦虫噛み潰した顔の高官どもを今から思い浮かべて苦笑し、彼らは某日堂々帰還せり。



 歴史に、戦時中オーストラリアからイギリスへカモノハシを送った事実はない。



 だから、己よりララが唇を覚えし小指に婚約の想いを託したチャーチルなる青年も、その足元で新品のスーツに戯れるウィンキストンなるカモノハシも存在しない。


 野のくれないを自ずから摘み取り、くちびるに塗っていとしき、一度しか会ったことのない夫を出迎える夫人と、その夫も。

 ……余談と言えるが別の物語で主人公となる水鏡澪の曽祖父と曽祖母と思しき男女(なんにょ)もまた、作者の空想の産物である。


 だけど、この世界ではないどこかで彼らは存在し、愛して死んでまた生きるのもまた、真実なのだ。



 その仔細は一匹の、空想の世界に存在せしカモノハシに聞かむ。

論文紹介

オーストラリアにおけるカモノハシ外交

https://mie-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=11152&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1&page_id=13&block_id=21

山田長政と黄禍論について

https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-25370413/25370413seika.pdf


水鏡澪は『Review!!』の主人公。代々軍人の家系。(※物語によっては御鏡の表記ゆれあり)


参考書籍。

生物ミステリーシリーズ

 カモノハシの博物誌

 ~ふしぎな哺乳類の進化と発見の物語〜


この本を紹介したのが2020年11月だから、随分塩漬けしていたなあ。


2025/08/04追記

現実の歴史が判明。

送ったけど殺してしまっていたらしい。

https://www.bbc.com/news/articles/cglzl1ez283o

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