第八十四話 空の跡
――妖艶。
その言葉が、いちばん近い気がした。
視線が、静かに留まってしまう――ソラノア。
幼さの名残を宿したままの少年には、目を離せなくなる美しさがある。
夜風に揺れる浅青の髪。
涼やかな横顔を、月明かりが静かに縁取っていた。
その視線の先に立つフィリエル。
銀糸のような髪と、天色に澄んだ瞳。
ふたりが並ぶと、それだけで一枚の絵になる。
甘いお菓子を小さくかじっていたあの少女とは思えない。
整いすぎた光景の中で、私たちは、息を潜めるように最初の言葉を待っていた。
やがて、フィリエルが言葉を落とす。
「だから、必要ないって言った……」
月光を映した瞳を潤ませ、ソラノアが応じる。
「僕はただ……」
ふたりが交わした言葉は、たったそれだけだった。
そして再び、静寂のときが流れた。
「なぁ、フィリエル。ソラノアって、何者だ?」
しばらく続いた沈黙を破ったのは、ニアだった。
「樹冥の使者。穢れを扱う者の末裔」
「樹冥?」
「そう。フィリエルが樹天の使者で、浄化を導く者。それと……幼馴染。敵じゃない」
その言葉に、ニアが分かりやすく安堵の顔をした。
……あ。
「ニアさん。嬉しそうだね?」
やっぱり。
お姉ちゃんが見逃すわけがない。
「な、メルト。悪いヤツじゃなかっただろ?」
ニア、それは――。
「あら? なぜララちゃんに『黙ってて』って言われたか、分からなかったのかしら?」
「なッ……」
言葉を失うニア。
立場が完全に逆転している。
仕方ない。助けよう。
「フィリエルとソラノアは空間を裂いて移動できた。それに、フィリエルは、あの人のことを気にもしていなかった」
「あぁ……そういうことか」
「まぁ、ニアさん。仕方のない方ですね♪」
「……うぅッ」
空気が、少しだけ軽くなる。
「それに、幼馴染という話に敏感な私とニアさんでは、少し差がありましてよ。ねぇ、ソラノア君?」
「……フィリエルは、昔からそうだ。危なっかしいし、言葉も足りない。だから心配なんだ」
ソラノアの声は低く落ちていた。
ふたりの間だけ、時間の進み方が違う気がした。
ニアをからかいながらも、この重たい空気をほぐそうとしていたお姉ちゃん。
さすがだけど……ちょっと楽しんでいる。
それはそうと、私もニアに言うことがあったんだ。
「さっきは『黙ってて』なんて言ってごめんね、ニア」
「ちょっとだけ怖かったぞ」
ニアは笑っているのに、視線だけがすぐに外れた。
足元の草をつま先で押す、小さな癖。
言葉より先に出る、安心の合図だった。
胸の奥がちくりと痛んだ。
――本当にごめんね、ニア。
あとは……。
気持ちを切り替えるみたいに、私は顔を上げた。
ちらっとフィリエルの方に視線を向ける。
ソラノアに心配と言われたフィリエル。
彼女は頬をふくらませ、どこか不満げ。
でも、強がりは長く続かない。
フィリエルの尖った心も、ほんの一瞬でほどけた。
それを理解しているかのように、ソラノアは何も言わない。
「フィリエル、どうしたの?」
私が、優しく声を掛ける。
「ソラノアは昔からそう。心配性。もっとフィリエルのことを信じてほしいのに」
「…………」
ソラノアは、黙ったまま。
「きっと、大丈夫だって分かってたんじゃないかな」
「なら、どうして必要な場所にいつも居る?」
「……心配なだけだ」
その言葉の奥に、まだ何か隠れている気がした。
ふと、お姉ちゃんを見ると、何やら気付いたような顔をしている。
なんか、とんでもないことを言い出しそう。
「ソラノア、本当は……?」
「もう、分かった。えっと……」
「メルトだよ。そっちがニアで、あとはララちゃん」
「まぁ、なんだ、フィリエルを守ってくれてありがとう。彼女が無事でよかった」
少し照れたように笑う。
思っていたより、ずっと表情に出る人だった。
フィリエルは、いつの間にか、あの森で見せた無垢な顔に戻っている。
ああ、そうか。感情を抱えた、ただの女の子でもあるんだ。
「えと、フィリエルからも礼をいう。それと、ソラノアのこと黙っててゴメン」
「すまなかった。改めて、挨拶させてもらおう。僕はソラノア。フィリエルが君らに伝えた通り、冥との橋渡しと、穢れを扱う者。よろしく頼む」
「よろしくね」
「おう」
「うん」
挨拶を交わし終えると、ソラノアが言った。
「次に向かう冥の街、『クロノハデス』まで案内しよう。僕とフィリエルがいれば、問題ない」
「分かった。お願い」
フィリエルが頷いた。
「石碑の通り、この先は三つの刻印が必要。一度街へ戻る」
そう言うと、フィリエルは鞄を探り始めた。
緊張の続いた空気の中で、甘いお菓子を探すその仕草だけが、場違いなくらい穏やかで――。
ソラノアの肩が、ほんの少しだけ下がっていた。
張り詰めていたものが、戻ったというより――思い出したように自然な動きだった。
フィリエルは何も言わない。
ただ、その変化を知っている目をしていた。
言葉にしないまま、誰も急がない時間がそこにあった。
包み紙が、夜に小さな音を立てる。
気にもならないはずの音なのに、不思議と耳に残った。
さっきまで張り詰めていた空気が、そこでようやくほどけた。
――けれど、そのほどけ方だけが、この場の静けさと、ほんのわずかにずれていた。
今回で、第三章は終了です。
次回より、第四章「封樹に咲く童景」が開始となります。
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