第七十四話 陽だまりにほどけた白い闇
霧の奥に潜む閲覧室。
高く積まれた書架の間を歩くたび、足音が吸い込まれていく。
魔晶窓から差し込む淡い光が頁と頁の間に影を落としていた。
私は体内に知識の園の空気を大きく吸い込む。
冷たすぎず、湿りすぎず、肺の奥にすっと馴染む感触。
――大好きな本に囲まれている。
ただそれだけで、私の心は軽くなる。
お姉ちゃんも、ニアも、もうそれぞれの棚に向かっていた。
視線を交わすことも、声をかけ合うこともない。
それでも、同じ空間にいるという事実だけで、十分だった。
闇精霊の里に伝わる文字置換の魔法。
里で育ったニアにとっては、きっと馴染み深いもののはず。
けれど――お姉ちゃんはどうなのだろう。
そんな私の疑問とは裏腹に、文字が読めるかどうかも曖昧なまま、お姉ちゃんは迷いなく本を手に取り、頁をめくっている。
誰も説明しない。誰も気にしていない。
ただ心地好い沈黙が、ゆっくりと流れている。
ここでは、それが自然だった。
家族と同じ部屋で、それぞれが好きなことをしている。
干渉せず、離れすぎず、ただ気配だけを確かめ合う時間。
その感覚が、心の中にじんわりと広がっていく。
革装丁に指先が触れる。
ひび割れた表面の凹凸。
頁をめくるたびに立ち上る、紙と年月が混ざった匂い。
指に残る、わずかな粉塵。
それら一つ一つが、ここに『積み重ねられてきた時間』そのものだった。
誰かが読み、考え、残してきた痕跡。
知識というより、思考と感情が折り重なって綴られた――魂そのものだ。
それを、今の私が、こうして受け取っている。
棚の奥で、ふと目に留まった一冊の文献を手に取る。
頁を開くと、そこに並ぶ文字は、石碑や遺跡で見たものに似ていた。
形は追える。
線の流れも、配置も、知っている。
それなのに、意味が立ち上がってこない。
どこかで触れた記憶が、確かにある。
けれど、手応えがない。
掴めそうで、掴めない。
……変だな。
読めない、という感覚とは少し違う。
文字の置換ができない、という言葉もしっくりこない。
情報が足りない、という感覚とも違う。
断片は確かにそこにあるのに、それらが意味になろうとしない。
断片は揃っている。
なのに、それらが意味になる前に思考そのものが立ち止まってしまう。
“ 今の私が触れてはいけない ” と、いうより―― “ 今の私には、意味が起きない ” という感覚。
理由は分からないのに、進むべき道だけがそっと示されているような――。
導かれているという気配だけが、そこに残っていた。
集中しようとすればするほど、その感触は、するりと指の間から抜けて落ちていく。
魔法を使おうという発想に至る前に、思考そのものがほどけてしまった。
「……これ、読めるのかな……」
独り言のように零れた声に、フィリエルが小さく応える。
「いつか導きの時がくる。今はまだ焦らなくていい……」
それ以上は言わない。
視線も、文字から私へは移らない。
答えを与えないというより、今は、踏み込まない。
それが私のためなのか、彼女自身の理由なのかは、分からなかった。
ただ最初から、そう決めているように、私には見えた。
私は頁を閉じ、本を棚に戻す。
胸に残った理解とは異なる感触。
ただ、わずかな違和感だけが行き場を失っている。
それでも不安はなかった。
だって、私はもう……、独りじゃない。
この違和感は、失われてなんかいない。
まだ来ていないだけだと、どこかで知っていたから。
――だから今はそれでいい。
そう思えた。
少し離れた棚で、お姉ちゃんが分厚い本を抱えて振り返る。
「ララちゃん。これ、なんか面白そう」
「どんな話?」
「古い魔法の話。今のとは、だいぶ違うみたい」
二人の間で本が行き来する。
紙の擦れる音が、空気に溶け込んでいく。
ニアも隣りで頁を覗き込み、そっと眉を寄せた。
「この精霊の章、ちょっとややこしいな……」
短い言葉。
でも、目は真剣そのもの。
……魔核って、そういうことか。
理解に至る前の、わずかな引っ掛かり。
意味はまだ掴めない。
けれど、この引っ掛かりが、いつか誰かの記憶と繋がることを、私は疑っていなかった。
本と家族の温度が、静かな時間を紡いでいく。
頁をめくる音。
誰かの呼吸。
遠くで微かに鳴る、結界の脈動。
世界が、きちんと続いている音。
理解できない文字も、掴みきれない違和感も。
今はまだ、ここに置いておけばいい。
私はもう一度、本に視線を落とした。
本の始まりにある空白。
それは、かつて、孤独で真っ白だった私の心と似ている。
でも、今は違う。
頁は、人の感情や記憶、様々な想いを受け止めながら、これから静かに満たされていくことを、私は知っている。
小雪の混じる暗がりの中で、独り立ち尽くしていた頃の記憶は、もう遠いものとして胸の奥に沈んでいた。
こうして、私達はしばしの息抜きを楽しんだ。
緊張がほどけた心の隙間。
そこには、新しい物語を書き込めるだけの余白が残っている。
次に続く世界の紙をめくる指先。
その感触が少しだけ軽くなっていることに気付く。
今は、この始まりの予感に身を委ねていよう。
これからも、物語はちゃんと続いていく。
――私が、それを信じられるようになった今なら。
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