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夢幻の少女ラクラス  作者: 明帆
第三部 リエージュ編 - 第ニ章 夜の底で浮かぶ風

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第七十四話 陽だまりにほどけた白い闇

 霧の奥に潜む閲覧室。

 高く積まれた書架の間を歩くたび、足音が吸い込まれていく。

 魔晶窓から差し込む淡い光が頁と頁の間に影を落としていた。


 私は体内に知識の園の空気を大きく吸い込む。

 冷たすぎず、湿りすぎず、肺の奥にすっと馴染む感触。


 ――大好きな本に囲まれている。

 ただそれだけで、私の心は軽くなる。


 お姉ちゃんも、ニアも、もうそれぞれの棚に向かっていた。

 視線を交わすことも、声をかけ合うこともない。

 それでも、同じ空間にいるという事実だけで、十分だった。


 闇精霊の里に伝わる文字置換の魔法。

 里で育ったニアにとっては、きっと馴染み深いもののはず。

 けれど――お姉ちゃんはどうなのだろう。

 そんな私の疑問とは裏腹に、文字が読めるかどうかも曖昧(アイマイ)なまま、お姉ちゃんは迷いなく本を手に取り、頁をめくっている。


 誰も説明しない。誰も気にしていない。

 ただ心地好い沈黙が、ゆっくりと流れている。

 ここでは、それが()()だった。


 家族と同じ部屋で、それぞれが好きなことをしている。

 干渉せず、離れすぎず、ただ気配だけを確かめ合う時間。

 その感覚が、心の中にじんわりと広がっていく。


 革装丁に指先が触れる。

 ひび割れた表面の凹凸。

 頁をめくるたびに立ち上る、紙と年月が混ざった匂い。

 指に残る、わずかな粉塵(フンジン)


 それら一つ一つが、ここに『積み重ねられてきた時間』そのものだった。

 誰かが読み、考え、残してきた痕跡(コンセキ)

 知識というより、思考と感情が折り重なって綴られた――魂そのものだ。

 それを、今の私が、こうして受け取っている。


 棚の奥で、ふと目に留まった一冊の文献を手に取る。

 頁を開くと、そこに並ぶ文字は、石碑や遺跡で見たものに似ていた。


 形は追える。

 線の流れも、配置も、知っている。

 それなのに、意味が立ち上がってこない。


 どこかで触れた記憶が、確かにある。

 けれど、手応えがない。

 掴めそうで、掴めない。


 ……変だな。


 読めない、という感覚とは少し違う。

 文字の置換ができない、という言葉もしっくりこない。

 情報が足りない、という感覚とも違う。

 断片は確かにそこにあるのに、それらが意味になろうとしない。


 断片は(ソロ)っている。

 なのに、それらが意味になる前に思考そのものが立ち止まってしまう。


 “ 今の私が触れてはいけない ” と、いうより―― “ 今の私には、意味が起きない ” という感覚。

 理由は分からないのに、進むべき道だけがそっと示されているような――。

 導かれているという気配だけが、そこに残っていた。


 集中しようとすればするほど、その感触は、するりと指の間から抜けて落ちていく。

 魔法を使おうという発想に至る前に、思考そのものがほどけてしまった。


「……これ、読めるのかな……」


 独り言のように零れた声に、フィリエルが小さく応える。


「いつか導きの時がくる。今はまだ焦らなくていい……」


 それ以上は言わない。

 視線も、文字から私へは移らない。


 答えを与えないというより、今は、踏み込まない。

 それが私のためなのか、彼女自身の理由なのかは、分からなかった。

 ただ最初から、そう決めているように、私には見えた。


 私は頁を閉じ、本を棚に戻す。


 胸に残った理解とは異なる感触。

 ただ、わずかな違和感だけが行き場を失っている。


 それでも不安はなかった。

 だって、私はもう……、独りじゃない。

 この違和感は、失われてなんかいない。

 まだ来ていないだけだと、どこかで知っていたから。


 ――だから今はそれでいい。

 そう思えた。


 少し離れた棚で、お姉ちゃんが分厚い本を抱えて振り返る。


「ララちゃん。これ、なんか面白そう」

「どんな話?」

「古い魔法の話。今のとは、だいぶ違うみたい」


 二人の間で本が行き来する。

 紙の()れる音が、空気に溶け込んでいく。


 ニアも隣りで頁を覗き込み、そっと眉を寄せた。


「この精霊の章、ちょっとややこしいな……」


 短い言葉。

 でも、目は真剣そのもの。


 ……魔核って、そういうことか。


 理解に至る前の、わずかな引っ掛かり。

 意味はまだ掴めない。

 けれど、この引っ掛かりが、いつか誰かの記憶と繋がることを、私は疑っていなかった。


 本と家族の温度が、静かな時間を紡いでいく。


 頁をめくる音。

 誰かの呼吸。

 遠くで微かに鳴る、結界の脈動。


 世界が、きちんと続いている音。


 理解できない文字も、掴みきれない違和感も。

 今はまだ、ここに置いておけばいい。


 私はもう一度、本に視線を落とした。


 本の始まりにある空白。

 それは、かつて、孤独で真っ白だった私の心と似ている。

 でも、今は違う。

 頁は、人の感情や記憶、様々な想いを受け止めながら、これから静かに満たされていくことを、私は知っている。


 小雪の混じる暗がりの中で、独り立ち尽くしていた頃の記憶は、もう遠いものとして胸の奥に沈んでいた。


 こうして、私達はしばしの息抜きを楽しんだ。


 緊張がほどけた心の隙間。

 そこには、新しい物語を書き込めるだけの余白が残っている。


 次に続く世界の紙をめくる指先。

 その感触が少しだけ軽くなっていることに気付く。


 今は、この始まりの予感に身を委ねていよう。

 これからも、物語はちゃんと続いていく。

 ――私が、それを信じられるようになった今なら。


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