第七十二話 楽園
存在しながら存在していないように揺らぐ虚ろの書庫。
アーカ・ルミナを形作る魔術論理と魔導技術。
そのすべてが計算され尽くした、静かで深い知の境地――。
私達は、フィリエルに登録された記憶の回廊へと足を踏み入れた。
そこは空気の層がひとつ変わったかのように重く、外の時間の感覚が遠のいていく。
おぼろげな明かりが欠落の名残を揺らすこの場所には、かつて存在した世界の亡骸が転がるように虚しく散らばっていた。
途絶えた空間には、触れれば消えてしまいそうな光が瞬いている。
大樹の魔力が編む記憶と魂は、触れるたびに姿を変える迷宮。
天冥の巫女の導きなくして進めば、偽りの記憶に飲まれ帰れなくなる――そう聞いた。
クラウディアがフィリエルに導きを求めるのも当然だ。
「……フィリエル。始めるよ」
クラウディアの呼びかけに、彼女は小さく頷く。
巫女としての本質を宿したその姿は、柔らかな魔力の光に包まれ、どこか儚い。
近付けば、自らの存在が消されていくような錯覚すら覚えてしまう。
フィリエルの導きを受けながら、クラウディアは胸元に手を添え、祈りを解き放つ。
言葉なき祈りは、音もなく空気に浸透し、零域に浮かぶ光点がふわりと舞い上がった。
世界がゆっくりと芽吹き始める……。
煌めきが連なり、薄氷の粒のように冷たい光が深層に静かに降り積もる。
「これが……、『揺らぎの祈り』。願いや祈りの力を増幅する力……」
その光の広がりに囚われているうちに、世界はゆっくりと満ちていく。
祈りが循環し、世界をつなぐ原始の境域――『零域』。
中心に立つフィリエルは目を閉じ、導きの術式を展開する。
クラウディアが紡ぐ『零環の理』が重なり、深層の静寂が少しずつ色を帯び始めた。
周囲が落ち着き、深層が呼吸を柔らかくする。
空気が澄み渡って……。
やがて、漂う光の中から――。
魂の記憶が、ひとつ、またひとつと浮かび上がった。
漂う気配は、どれも " 淡い悲しみ " を宿していた。
触れれば消える蜃気楼のように揺れながら、私の目の前で世界の断片を結んでいく。
最初に映ったのは、かつての世界の姿だった。
それは『楽園』と呼ばれた時代――。
人も魔族も精霊も。
種族の境を越えて共に暮らす世界。
光の中で揺れる穏やかに流れる時間。
無邪気な笑い声、柔らかな風、揺れる樹々。
そのすべてが、あまりに優しくて、胸を締め付けるほど愛おしかった。
次に映ったのは、平和が崩れる瞬間。
外界の争いが影を落とし、種族たちは何度も話し合い、そして――決断した。
それは『古い約束』に基づくものだった。
禁忌の魔術。
罪を負った魔族から生じる穢れた魔石。
それらを融合し、浄化の力を持つ魔法植物――天冥の樹を創るという代償の道。
私は息を飲む。
そんな “ 犠牲の上に成り立つ平和 ” など、到底想像すらできなかった。
その大樹こそ楔であり、封印であり、別れの証でもあった。
互いが棲家を隔て、その繁栄の歴史を『大樹の記憶』へと隠された。
引き裂かれた友情、果たされることのない約束、失われた家族――。
胸に小さな痛みが走る。
それでも、この光景からは目が離せなかった……。
悲劇が生んだ痛みだけを残して、世界はやがて零へと還された。
新たな秩序のために封じられた記憶。
いつか再び種族の隔てられない世界が紡がれることを願い、先人達は、この地で起こった出来事の記憶を魔力に宿す術までをも大樹に施したのだった――。
理裔珠が『魔石』と『記録』の国になった理由。
この国の起源にまつわる哀しい物語に、私の心が静かに揺れていた……。
言葉なき祈りが生み出す零域の光は、三者の循環を静かに映し出す。
冥は穢れを受け止め、地上は自然を抱き、天はそのすべてを見守る監視者となる。
そして、それら三つをつなぐのは――。
天冥の巫女と司書をはじめとする混血の末裔達。
半霊族ルナリア、半魔族レガリア。
かつての平和の象徴達が橋渡しを担ってきたという真実。
少し前に感じたあまりに優しくて愛おしい日々の記憶が蘇り、胸に微かなざわめきを覚えた。
天冥の樹に刻まれた浄化の仕組み。
それは、穢れを冥に沈め、清らかな魔力を天から地上に戻すという理。
三者が循環することによって世界の均衡が保たれていた。
そこで光の像は静かに途切れた。
中央を絶対と信じ、魔を恐れ、精霊を虚構として扱ってきた歴史。
その根幹が覆されつつある気配に、心が重くなる。
クラウディアの言っていた『真実を知れば戻れなくなる』という言葉の意味を、今、痛いほど理解していた。
光の像を眺めるうち、ひとつの疑念が脳裏をよぎる。
……ストロー博士は、この仕組みを “ どこまで ” 知っていたのだろう?
ベリーの生い立ち。
悪魔を使った実験。
もしその悪魔が “ 秩序を犯した存在 ” なら――。
密かに引き取られ、司法取引の名で『外へ出された』としても、不自然ではない。
ベリーが深層の知識を持っていた理由も……重なってしまう。
寒さが全身に駆け巡った。
それでも、私は歩みを止めない。
ここで迷えば、真実から目を逸らすことになる。
ニアの穢れは、この循環で本当に浄化できるのか。
できないのなら、いくつかの疑問が生まれる。
例えば、この仕組みを知る者が、それをすり抜ける術を生み出したのか。
あるいは、別の種族がニアの精霊の力を利用しているのか。
過去の像に答えはない。
ここに集まった種族同士の『対話』の中に道がある。
ニアの穢れが背負った運命はあまりにも重い。
それでも、この世界を見ていると――。
その重さでさえ、長い歴史の中の一滴に思えてしまう。
この世界が紡いできた途方もない時間。
そこには、まだ誰の手にも触れられず、長い眠りの中で息づく ” 未知の記憶 ” があるのだから――。
今回で、第一章は終了です。
次回より、第ニ章「夜の底で浮かぶ風」が開始となります。
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