第七十一話 祈りの言葉
司書クラウディア。
彼女が使う特殊能力『揺らぎの祈り』と古代魔法『零環の理』。
それこそが、天冥の樹が遥か昔に刻んだ記憶を揺り起こす、唯一の手掛かりだった。
天冥の樹も、穢れの根源も。
すべてはこの深層の根に繋がっている。
そんな確信めいた予感さえあった。
深層は、結晶柱から放たれる魔光に照らされ、薄く明るい。
光量を調整しなくても、周囲ははっきりと見える。
思ったより、ずっと明るかった。
「フィリエル、いるんでしょ? 導いてくれる?」
「わかった……。記録の登録は済ませてある」
空間を縫うように光が裂け、少女が現れた。
淡い青の法衣と外套。杖を手にしたフィリエルだ。
銀糸のような髪。澄んだ天色の瞳。
でも、以前とどこかが違うような……。
背後では二体の光の妖精が揺らめいていた。
魔光の反射で、灰銀の髪と青灰の瞳が淡く輝いている。
「あなたが案内人でよかったわ。話が早くて助かる」
「ここは魔術の根源を記す場所。記憶と魂の回廊を読むのがフィリエルの役目……」
見た目が変わっても、声は前と同じだった。
それだけで、ほっと胸をなでおろした。
「 “ 起源 ” って、つまり……」
「ええ。リエージュが『魔石』と『記録』の国になった理由。この大樹の都こそが、その始まりなの」
「フィリエルは、この地の秩序を導いている……。覚えておいて。クラウディア、本を起動して……」
クラウディアは息を整え、手を伸ばして古びた魔導書に触れる。
すると、本の表紙が淡く光を帯び、魔力が注ぎ込まれていくのが分かった。
次第に満ちていく魔力に呼応する結晶柱の光が増した。
霧が螺旋を描き、天井の魔紋がゆっくり回転しだす。
刻まれているのは『古代ルナリア』の祈りの言葉。
“ 魂は光に還り、穢れは眠りへと帰す ”
文字置換の魔法で解析すると、刻まれた文字にはそう記されていた。
文字を読み解いたその瞬間、光の中に黒い影がひと筋混じった。
「……穢れている」
ニアが小さく呟いた。
掌が震え、皮膚の下を光が走り、青い紋様が浮かび上がる。
「ニア!」
思わずニアに駆け寄ろうとすると……、結晶柱が静かに割れた。
中から噴き出したのは黒紫の靄。
それは形を持たず、不気味に蠢めいている。
「下がって!」
フィリエルが詠唱を始める。
祈りの言葉が空気を震わせ、光の紋章が周囲に浮かぶ。
すると、喰らうように靄がその光を包み込み、紋章を次々と消してしまった――。
「……だめ、反応している!」
ニアの体から漏れ出る穢れた光が、靄に引き寄せられるように伸びていく。
私は迷わず彼女の手を掴んだ。
「ニア、離れて!」
「……無理。これは、あたしの――中にある “ 穢れ ” が、呼ばれている」
声は震えているのに、瞳は動じていなかった。
ニアは息を整え、前へ踏み出した。
「この穢れ……ここにも封じられていたんだね」
靄の中心に近づくにつれ、霧が渦を巻く。
フィリエルの詠唱が止まり、代わりに息を呑む音がした。
「待って、それは “ 封印の記録 ” 。下手に触れれば――」
「危険……だな。でも、これは私の中にもある。……逃げるだけじゃ、何も変わらない」
靄の中の影から形が生まれた。
輪郭のない黒。紅い目だけが、闇に浮かぶ。
――まるで言葉にならない “ 記憶 ” の塊のようだった。
フィリエルが咄嗟に光の魔法を放った。
古代語でどんな魔法を使ったかまでは分からない。
魔力が空気に溶け、静かな波紋を描いていく。
「穢れよ止まって――お願い」
光と影がぶつかり合う。
空気が震え、結晶柱が悲鳴のような音を上げた。
――そして、すべてが止まる。
靄は霧散して、静寂が戻った。
ニアの体の紋様も消え、呼吸が落ち着いていく。
結晶柱は光を取り戻し、穏やかに脈動を刻み始めた。
「……今のは?」
お姉ちゃんの声は震えていた。
フィリエルが深く息を吐く。
「 “ 封印の残響 ” ……。この国の根に沈んでいた穢れ。ニアが触れたことで、ほんの一部が呼び覚まされた」
「……つまり、ニアの中にあるものと――」
クラウディアが静かに答える。
「同質。けれど、あなたたちが抑えた。これは、浄化への道がまだ残されている証よ」
私はニアの手を握る。
その掌は雪のように冷たかった。
「……怖かった。けど、少し分かった気がする」
「何が?」
「穢れって、すべてが “ 悪 ” じゃない。もともとは、この世界の循環の一部。ただ、流れを止められた時に、痛みになるだけ」
フィリエルの瞳が揺れた。
「君は “ 魂を視る者 ” なの? その感覚を失わないで。クラウディアも、きっと同じ答えを探している」
「…………」
クラウディアは何も言わなかった。
穢れは、まだ消えていない。
それでも――確かに道はひとつ見えた。
『リエージュの起源』にまつわる哀しい物語。
それに触れれば、もう後戻りはできない。
それが希望となるか、深い絶望に沈むのか。
決めるのは、私達。
迷いはない。
信じた道を進むだけ。
――ニアを蝕む穢れの浄化は、私達できっと。




