第七十話 空白の世界
扉の向こうは、世界そのものが書き換わったかのようだった。
壁も天井もない、ただ真っ白な世界。
ゆっくり漂う光の粒だけが、ここが “ 現実 ” であることを示していた。
足元の薄い通路は、書物の一頁を踏んでいるように頼りない。
それでも一歩進むたびに、道は静かに形を取り戻していく。
まるで――『進んでいい』と告げられているようだった。
お姉ちゃんが辺りを見渡す。
「ここ……本当に “ 記録の間 ” なの?」
「ええ。記録は紙や石には収まらない。霧と光の層の中に、すべてが刻まれているの」
クラウディアの声は静かな風みたいで、辺り一帯に染み渡っていった。
揺らぐ光の中で彼女の姿は移ろい、前にいたと思えば次は横に現れる。
どこまでが『幻』で、どこからが『実体』なのか判断がつかない。
……油断していたら道を見失いそう。
そんな不安が胸によぎった。
通路には、浮遊する書片がふわりと舞っていた。
指先で触れれば光が瞬き、過去の断片が像になってほんの一瞬だけ映り込む。
それは、人々の祈り、儀式、誰かが泣いている姿――。
まるで、この国の記憶そのものが現実のように再現されている。
音も、色も、想いも……。
風が髪を揺らす感覚も、花々の彩りも、心の温度さえも。
記録と現実の境界を薄くしていく。
「……ねえ、ララちゃん」
お姉ちゃんの声が、震えるほど小さい。
「これぜんぶ……命が宿っているみたい」
「記録は生き物よ」
クラウディアが迷いなく答える。
「 “ 知 ” は流れ。閉じれば腐り、触れれば変わる。あなたたちが踏み入った瞬間から、この記録は姿を変え始めている」
その言葉が、胸に引っかかった。
――変化。
ニアが反応したのも、やっぱり偶然じゃない。
そう思った瞬間、空間が小さく振れた。
光の粒が弾け、霧の色が淡く揺らぐ。
青白い光が赤紫に染まり、血のような色を帯びていく――。
「うぅっ……!」
陰影が歪み、苦しげな息を漏らすニア。
彼女は肩を押さえ、膝を折りそうになっていた。
ニアの内に潜む穢れが、記録の波に呼応している。
ただの残滓ではない。
この国の『記憶の深層』に通じる何か――。
「止まりなさい」
クラウディアの声が鋭く響く。
「これ以上進めば、記録と魂の境が曖昧になるわ」
「でも……!」
思わず前へ踏み出しかけたその瞬間、足元の光が音もなく裂けた。
霧が捻じれ、空間が反転する。
視界が裏返り、私達は裂け目へ沈むように吸い込まれた。
落下。
そう感じたのも束の間、気付けば柔らかな床に膝をついていた。
目を開けると、そこは巨大な円形の部屋。
中央には静かに輝く結晶柱。
周囲には古い紋章がいくつも刻まれている。
空気はひどく冷たいのに、どこか懐かしい匂いが漂っていた。
「ここは……?」
「記録の間の深層。普通なら誰もたどり着けない場所……」
クラウディアの声には、さっきまでの余裕がない。
「あなたたちは “ 触れた ” の。ニアに眠るそれが、閉ざされた記録を呼び覚ましてしまった」
私はニアの肩に触れる。
黒く濁った光が彼女の体からわずかに漏れていた。
例えるなら……、精霊の核。
それが外へと滲み出ているみたいだった。
「……ごめん、抑えられなかった」
「いいの。むしろ……これで、確かめられる」
私は結晶柱に目を向けた。
浮かび上がる紋様は、天冥の樹の意匠にとてもよく似ていた。
根から伸びる線は、もっと深い何かへと続いているようだった。
「これは――」
「起源……」
クラウディアが目を伏せ、小さく呟く。
「この国が、そして天冥の樹が、どこから力を得ているのか。その最初の記録」
彼女の瞳には、深い寂しさと、消えない哀しみが宿っていた。




