第六十四話 光を揺らす街
石畳に落ちる影は長く伸び、窓や宝石の装飾に反射する光がちらちら揺れながら通りを照らす。屋根の小さな風車や旗が朝の風に揺れ、街全体が軽やかに呼吸しているようだった。光は三人の歩幅に合わせてリズムを刻む。
鼻先をくすぐるのは焼き菓子の香ばしさ。香辛料のぴりりとした刺激と摘みたてのハーブの青々しい香りが重なり、朝の空気に複雑で温かい層を描く。
通行人の足音、子供達の笑い声。荷車の車輪の響きが石畳に跳ね、遠くで小鳥が囀る。街がまるで生きた音楽を奏でているみたい……。
「ララ、見ろよ!」
ニアが小さな手を伸ばす。指先が差す先には、屋台に並ぶ『宵星ゼリー』。
透明なジェルの中で光の粒がふわふわと漂い、まるで朝の空気に閉じ込められた小さな星のように揺れた。光の色はニアの胸の高鳴りに応えるように、淡く瞬く。
試食用のゼリーをひと口含む。ひんやりとした甘さが舌先にじんわり広がり、体全体が小さな喜びで震える。光がその振動に呼応して、ゼリーの中の星達も微かに揺れた。
「……食べるのが勿体ない。でも、美味しい」
私は微笑み、財布を開く。手に取れるのはニアの分だけ。
残金ぎりぎりでも、今はそれで十分だった。
「ララちゃん、今日は私が出すね!」
お姉ちゃんが小銭入れを差し出す。ニアは元気よく『じゃあ、二つ! ララの分も!』と宣言。
光の粒が手元で跳ね、ニアの喜びに呼応して輝いた。
「……お金、後で返すね」
「今日はいいよ! ララちゃんの分も含めて、ニアのおごりだから」
「そう? いつもそういって私からお金を取らないのに?」
「あれッ? そうだっけ? 覚えてないな」
お姉ちゃんは自然に微笑み、見え透いた嘘を交わす。ニアもそれを百も承知で元気に振る舞った。その光景に、二人の関係性が愛おしく映った。
「しょうがないから貸しにしとく」
苦笑しつつ囁くお姉ちゃん。宿代や食事代とは別に、パーティの財産管理を担う慎重さが垣間見える。
実家が喫茶店を経営しているだけではなく、性格からくるさり気ない気配り。ニアの自由奔放さを包み込む余裕こそ、お姉ちゃんの魅力だ。
一方、財布の紐を握る姉に対してニアは物怖じしない。ふたりの性格が正反対だからこそ、磁石のように引き合っているのだと思うことにしよう。
次のニアの配分は『利子』付きで減らされるかもしれない。それでも、ニアにとっては、今この瞬間を楽しむことの方が大事なのだろう。
明日が確実に訪れる保証なんてどこにもない。
だから今、この一瞬を大切にしよう――。
屋台の隣では、花飴を編む職人が魔導風車で火加減を一定に保ちながら、白い蒸気の中に色とりどりの淡い花弁を咲かせている。
「あの花、食べられる?」
ニアがつま先立ちでのぞき込み、目を丸くした。
「食べたら消えちゃう儚い花だよ」
お姉ちゃんが答えると、職人が気前よく小さな花びらをひとつ、そっとニアの掌に乗せてくれた。
ニアは私を見上げ、頷きを確認してぱくり。ほっぺをほころばせた。
通りの向こうでは、子ども達が小さな天光珠を追いかけて遊ぶ。淡い光を放つ珠が風に舞い、手のひらで跳ねるたび、石畳に光の軌跡が魚群のように広がった。
「ララ、メルト! 次はこれやろうぜ!」
ニアは跳ね、手を伸ばす。
お姉ちゃんはそっと手を添え、『気を付けてね』と囁く。彼女の表情は柔らかく、子供に自由を与えながら見守る絶妙な距離感を保っていた。
私達は天光珠の遊び場を後にし、宝石加工職人の店が並ぶ通りへ足を向けた。
宝石加工職人の通りに出ると、陽光が宝石の表面で弾け、七色の光が咲く。職人の指先が精巧な工具を操るたび、透明な花火のように光が開いた。
ニアが身を乗り出しそうとして、お姉ちゃんが肩を押さえて制止する。
ガラス越しに見える薄青の石が、研磨盤に当たる瞬間だけ深い息をするみたいに明滅し、私も思わず見入った。
かつてジンがエンシェントジュエルで真氷蒼石を加工した時の光景が甦る。
あの石は内側から澄んだ光を放ち、魔力を宿していた。
ここで売られる宝石は光の反射だけで七色に揺れ、魔力の質も異なる。
職人の一人が、磨き終えたばかりの小片をニアに貸す。ニアは恐る恐る掌に受け取り、息を詰めて角度を変えると――。
「動いた!」
光が表情を変え、ニアが歓喜する。その声に反応するように、お姉ちゃんが身を屈め、宝石を覗き込む。
「光はね、見る人の心に合わせて表情を変えるんだよ」
ニアの手の中の小片は、彼女の笑いと同じテンポで瞬くようだった。
小さな広場に出ると、石畳の隙間から伸びた草が日光を受けてきらりと光る。
屋台の布が風に鳴り、金属の鈴が乾いた音を混ぜる。子供達は天光珠を追い、笑い声が木の葉に反射して軽やかに響いた。
風が通るたび、屋根の旗や装飾が揺れ、光が細かく砕けて石畳に散る。
空中の紙片や羽根も柔らかい光を纏い、朝の街に奥行きを加える。
広場の一角で魔導オルゴールを奏でる青年。ねじを巻くたび、透明な音符が空に浮かぶように響く。
ニアは足を止めてくるりと回り、音の尾を追った。
お姉ちゃんが、手拍子をひとつ打ち、『少し聴いていこうか』と目で問う。
私達は頷き、三人でベンチに腰かけた。
音は水のように澄み、すぐそばを走る魔導列車の微かな振動と重なって、街全体が同じ心拍で呼吸しているように感じられた。
演奏が終わると、ニアは小銭を二枚そっと置き、礼を言う。
お姉ちゃんがニアの肩にふれ、にっこり笑った。
音が背中に流れ、街の色が少し濃く見えた。
昼下がり、陽は高く影は短くなる。
パン屋で『光蜜パン』をひとつ買い、三人で分けた。薄く焼かれた生地に黄金の蜜がとろり。ニアが躊躇うと、お姉ちゃんがそっと端を差し、『最初はここからね』。甘さのあとにふわりと柑橘の香りが広がり、笑みが溶けた。
街路に射す光は柔らかく角度を変え、屋根や塔の輪郭を琥珀色に染める。
宝石やゼリーの光が揺れ、人々の動き、荷車の音、子供達の笑い声、屋台の匂い、風の騒めきが混ざり、街全体が生きた絵になる。
奥の小さな噴水広場では、水面が光を受けて緩やかに揺れ、天光珠を転がす子供達の影と光が絡み合う。
ニアは駆け回り、手を伸ばして光を捕まえようと跳ねる。お姉ちゃんは柔らかい声で注意しながらも笑みを絶やさない。私は二人のやり取りを見守り、街の詩的な空気を胸に刻む。
そのとき、旅人がすっと横切った。
長いマントの裾を揺らし、伴奏なしで短い詩歌を口ずさんでいる。
声は小さいが、空気に染み込むような不思議な響きだった。
ニアはぴたりと動きを止め、背伸びしてその背中を見送る。
「ねえララ、今の歌、ちょっと、この街の匂いに似てた」
「そうだね」
私は、ニアの言葉に頷き、小さな余韻が胸に灯るのを感じた。
街の時間はゆっくりと進む。
塔の上からは時を告げる澄んだ音が降り、屋台の影はたわむように伸び縮みする。
私達は日陰のアーケードに入り、冷たいガラスの手すりに肘を預けて人波を眺めた。
向かいの店先では、温色石を並べ替える店員が、客の肌色に合わせて微妙な温度の光を選んでいる。ニアはそれを真剣に見守り、やがて振り返って私に囁く。
「ララ、光って、優しいんだな」
「そう、だね」
私は、ニアにそう答えながら、彼女の言葉が今日一日のすべてを言い当てている気がしていた。
アーケードを抜けた先の角で、風がふっと向きを変えた。
香辛料の香りに、海の塩気が微かに混じる。遠い港からの風に感じた。
お姉ちゃんが立ち止まり、耳を澄ますように目を閉じる。
「汽笛までは聞こえないけれど、潮が近い」
彼女の言葉に、ニアが手を広げて風を抱え込む仕草をした。私はふたりの間に流れる見えない線を感じ、その線がこの街の光と結ばれているのを確信する。
しばらく歩くと、坂道の途中に小さな展望台があった。手すりは木で、ところどころ磨耗して手の跡が残る。
私達は並んで寄りかかり、街を見下ろした。屋根の群れは鱗のように重なり合い、塔の影は琥珀色の海に長い舵を切っている。
魔導列車が遠くを渡るたび、細い電光が線のように走り、その周りでガラス窓が小さな星座のように瞬く。
ニアは鼻先を手すりにくっつけるほど前のめりになり、『あの線の先に、まだ見たことないお菓子屋さんがあると思う』と真顔で言った。
お姉ちゃんは笑い、『きっとあるよ』と即答する。
私は、「じゃあ、次はそこに行こう」と提案し、三人の視線が同じ一点で重なった。
帰り道、ニアが髪留めのリボンを失くしたことに気付いた。
さっき噴水の縁でほどけたのかもしれない。
ニアの肩が少し落ちるのを見て、お姉ちゃんがすぐにしゃがみ、視線の高さを合わせた。
「探してみよう。見付からなくても、私のリボンで新しい結び方を教えてあげる」
その一言でニアの顔が持ち直す。
広場を探すと、天光珠の遊び場の隅で、風に押されて引っかかった青のリボンをお姉ちゃんが見つけた。
「あった!」
ニアが駆け寄り、私は受け取ったリボンの埃を指先で払う。
お姉ちゃんはニアの後ろに回り、ほどけにくい小さな結びを作りながら、『風にほどけないように結ぶね』と囁いた。
リボンは新しい形になって、昼下がりの風の中で小さく揺れた。
影はまた少し伸び、街の音は落ち着いたテンポになる。
三人の歩調は自然と揃う。ニアは時折振り返り、展望台を指さす。お姉ちゃんは微笑みで応える。光は角を曲がるたび色を変え、私たちは同じ色を胸に仕舞った。
通りの終わり、青いタイルの敷かれた小さなテラスに出る。
テラスの縁には低い欄干があり、その向こうで魔導列車の軌道が緩やかに弧を描いている。車輪の代わりに浮遊石を抱えた車体が、ほとんど音を立てず滑っていく。
ニアは欄干に肘を乗せ、頬杖をついて、その滑空を見送った。
「なぁ、いつかあれで海まで行こうな」
「行こう」
お姉ちゃんも笑い、続けた。
「海に着いたら、最初に塩キャラメルを買う~」
「おぉ、メルト。さすが、分かってるじゃねぇか!」
ニアは満足げに頷いた。
三人の未来の地図に、今この光景がしっかり描き込まれた気がした。
街の時間はゆっくりと歩みを進めた。
昼下がりの陽射しは柔らかく、塔や屋根の影がまた長く伸びる。
最後にもう一度だけ宵星ゼリーの屋台を通る。
朝とは違う角度で差し込む光が、ゼリーの中の小さな星を別の場所へ押しやる。
ニアは容器を両手で包み、星の行先を目で追う。
お姉ちゃんが私を見て、問いかける。
「今日の光は、持ち帰れるのかな?」
私は首を傾げる。
そして、「味にしてなら」と答える。
三人で小さく笑った。舌に残る甘さ、指先のひんやりした記憶、肩に置かれた手の重み、風にゆれるリボンの気配──。
それら全てが、昼の底に敷かれたやわらかな絨毯のように、私たちの足取りを支えていた。
そして私達は、まだ見ぬお菓子屋のいるかもしれない通りへ、同じ歩幅で踏み出す。
ティラミスの昼は揺らぎながら続き、光は私達の前で何度でも新しく生まれ、何度でも優しくほどけた。




