漢文
一方その頃の野口家では、ウォッチを掌サイズのスクリーンに移してSNSを流し読みする凛桜と、読み聞かせをする凛姫とそれを聞く凛士の姿があった。
「敵になる 、と云は 我身を敵になり替て思ふべきと云所也 。世の中を見るにぬすみなどして家の内へ取籠る様なるものをも敵を強く思なすもの也 。敵になりて思へば世の中の人を皆相手としにげこみてせんかたなき心也 。取籠るものは雉子也 。打果しに入る人は鷹也 。能々工夫有べし 。大きなる兵法にしても敵といへば強く思ひて大事にかくるもの也」
ふんふんと頭を上下に振る凛士。
「よき人数をもち兵法の道理を能知り敵に勝と云所を能うけては気遣すべき道に非ず 。一分の兵法も敵になりて思ふべし 。兵法能心得て道理強く其道達者なるものに於ては必ず まくる と思ふ所也 。能々吟味すべし」
更にふんふんと頭を下げる凛士。そして何かを書き始めた。早速昨日買ってもらった羽ペンを使っているようだった。凛桜は流石に気になって、少し呆れた顔をしつつ凛姫に尋ねた。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「何読み聞かせてるの?さっきから外国の言葉みたいな言語羅列してるけど」
「何を言うか!立派な日本語だぞ」
「あ、そう……で、何の本?」
「宮本武蔵の五輪書だ」
「いや、江戸時代の書物!?!?!?!?」
凛桜のツッコミが部屋中に響き渡った。事実、凛姫の手には古臭い書物が掴まれていた。
「すごいだろ?江戸時代に作られた五輪書の写しだ。2024年はやはり奇跡の年だな。なんせ実在が怪しまれていた五輪書と甲陽軍鑑の2つの書籍が発見されたんだからな」
「わーそりゃすごーい……じゃなくて!!」
「じゃなくて?」
「そんなの読ませたってわかるわけないでしょ!!凛士、まだ文字覚えてそんなたってないってのに……」
凛姫と凛桜が話しているうちに、どうやら凛士は何かを書き終えた様子だった。日本語を書いていたみたいだ。そしてそれが書き終わって、すぐにこちらへ向けてきた。
「お、要約が完了したんだな。すごいぞ、是非見せてくれないか?」
「要約?今の文章を?最難関の国語のテストじゃん!!私なら赤点だよ!?そんなのこの子にできるはずが……」
凛士が見せてくれた紙にはこう書いてあった
「兵法を学び実践するときには、己が敵に成り代わったつもりで思考すべきということである。兵法をよく心得て、道理も強く、その道に達者な者であれば、敵に成り代わって思考した際に負けると思う。これをよくよく肝に銘じて、戦術を立てるべきである」
非常に達筆な文字で書かれたそれは、確かにこの説話に沿ったものだった。凛桜はそもそも話を理解していなかったのでポケっとしてしまったが、凛姫はよしよしと頭を撫でていた。
「おー正解だ。えらいぞお……えらいぞお凛士」
「なんで正解してんのよおかしいでしょ?あんたろくに言葉話せないくせに」
凛士は凛桜の言葉に少しむっとしたようだ。さっと紙の取るとさささっと羽ペンで文字を書き始めた。
「床前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭想故郷」
「……」
凛士は読めないの?と首を傾げていた。
「いや読めないわよ。何この漢字の羅列。学校で見たことあるかどうか……」
「おーこれは李白の『静夜想』。白文で書くとはよく勉強しているな」
「……床前月光を看る……疑うは是地上の霜……頭を上げて山月を望み……頭をたれて故郷を想う……」
遂に凛士は、漢詩の白文を書き下し分にできるほど習熟し始めていたのだ。
「勤勉だなあ。えらいぞ!」
そして凛姫はそんな彼の成長具合に、何も不思議に思っていなかった。むしろすごいなと、素直な驚嘆を浮かべていた。この部屋において、突っ込み役は凛桜しかいなかった。
「ねえお姉ちゃん」
「なんだ妹よ」
「流石にこれは成長が著しいとかいうレベルじゃなくない?」
「そうか?男子3日会わずんば刮目してみよという故事があるだろ?もうこの子はここにきて3日以上たっている。つまりもう別人そのものだ」
「なんで今日はこんな論語っぽい感じなのよ。そしてさすがに成長度合いが異次元でしょ?思春期男子の身長でももうちょっとのんびり成長するって」
「そうかなあ」
「そうだよ、やっぱりこの子……」
ぐっと凛桜が口ごもった瞬間を見計らったかのように、通信が入った。通信相手はいつもの北里だった。凛桜と凛姫は一気に顔をしかめてしまった。どうせまた仕事の話だ。どうせまためんどくさい話を持ち込まれたのだ。
「北里だ。話があるのだが」
「空気読め」
「死にさらせ」
「………………つまんな」
「なんか3人の声が聞こえてこなかったか?」
ぽつりと凛士も呟いていたのだ。無論それを姉は隠すように振舞った。
「幻聴でも聞こえるようになったのかい?疲労はさっさと取った方がいい。今は短髪で済むその髪が禿と形容されるようになる前にな」
「残念ながら私の家はみんな禿家系だ。だから禿げるのはどうでもいいし、そこにいるのが2人でも3人でもどうでもいい」
カタンと音がした。コーヒーでも机に置いたのだろう。
「野口凛姫、仕事がある」
「却下だ」
最速の却下だった。笑ってしまうほどだった。事実凛桜は笑いをかみ殺していた。
「……残念なことに、今回は拒否権がない」
「いつもないじゃないか」
「いつも以上にないのだ。申し訳ないが君の頭脳を貸していただきたくてな。結構な大物をそちらに派遣している」
ピンポンとなった。玄関に人が来たようだ。
「……失礼がないようにな。案件は単純、プルクからこの国を救ってほしい」
誰が来たのか、凛姫は重々理解していた。理解していたからこそ、車椅子を出すように指示した。
「すまんな凛桜、外に出る準備をしてくれ。凛士はお留守番していてくれ」
インターホンからは、少ししゃがれた紳士の声がした。
「手を貸してくれんか?野口の娘さん」




