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心で描く答え

 標識すらしばらく見かけぬ山中で、雑草に埋もれかけた別れ道へと装甲車が進み続けてからいくばくも経つ。枝が車体に傷を掻いて、ときおりへし折れ後方へと飛んでいく。助手席に納められた丸金が、ここは本当に道なのかと不安を募らせ首を伸ばすたび、望月に「後五分くらいだ」と時を告げられ縮こまる。


 目指していた給油施設が見えたのは木の間からで、三m程度のフェンスの前で車が止まった。心許ない金網を補強するつもりだったのか、内側には岩と木が力任せに積み重ねられている。しかし、その金網も外側から象でも走り抜けたように打ち破られて役目を終えて久しいらしい。フェンスには感電注意と関係者以外立ち入り禁止の物々しい看板が引っかかり、静かに虚しく揺れていた。


 村上が後ろから助手席のヘッドをつかんで身を乗り出す。

「なるほど。SAT御用達の極秘拠点は残念ながら有り難いことに管理者全滅で廃墟化済み。貴重な物資は所有者不明で取り放題と」

「壊滅を期待していたようで複雑だがな……」

 提案をした望月は床に視線を落として眉間を寄せる。


 警察特殊部隊、凶悪事件や大災害などの大きな問題を担う通称SAT。以前にも聖が聞き出していた、かつて望月の所属していた組織だ。

「自衛隊のような大掛かりな武器は無いが、マニュアルに沿っていれば非常時に一般的な装備は多めに補充されているはずだ。89式普通弾も運が良ければ残っているだろう」

「ほんじゃ、弾が使われる前に戦闘員が皆殺しにされたことを祈りながら探索するとしますかねえ?」

「皮肉を吐かなきゃ息も吸えねえのか。キリキリ火事場泥棒してこいや」

 サイドブレーキの引かれる音で車を降りる流れを察知して、丸金がシートベルトを外して助手席のドアに手をかける。

「待って丸金。安全確認が先だ。私が先に偵察してくるから」

 最後部座席にいる布引が銃剣を背負って立ち上がってから、動きを止めて口元に拳を当てる。

「いや、離れている間に何があるか分からないな。ハーネスをつけて連れて行くか抱っこ紐を作って背負って行くべきか」

 いつぞやの完全管理案件に丸金が跳ねて真っ青になり硬直する。運転席から奇行を眺めていた仲前が溜息をついて手を叩く。

「この人数で別行動は無しだ。んでもって蝙蝠センサーとモンペはセットにさせない。説明はいるか? 俺達は和解していない。監視は俺。はい、日頃の行いを悔いながら出発!」

「意義あり。地下で丸金から目を離した蓮君には任せられない。この子は私が手元で守る。はい、私の丸金を早く返して」

 助手席側に向かおうとした布引の腕を村上がつかむ。

「私物化はんたーい。反抗期が怖いなら俺が子守してやるよ。高火力な近接格闘(CQC)人員は先頭へどーぞ」

 お互い笑顔で睨み合い、今朝の続きで二回戦の鐘が鳴った。

 慌てて助手席から身を捻る丸金の声量を望月が上回る。

「頭を冷やせ!! 子供に顔色をうかがわせてどうするんだ。みっともないから止めないか!」

 血の滲んだ包帯を縛り直した望月が素早く車の外に足を踏み出す。そして助手席を開いて丸金と目を合わせる。

「規律正しく勝手をせず、指示通りに動けるな?」

 これが信頼を損なった結果だぞと語る目に丸金は力を込めて頷くと、助手席から勢いよく勝手に外へ飛び降りた。




 虎が壁を蹴って頭上から牙を剥く。

 布引は床を大きく踏み込んで虎の首にナイフを突きたてると体を捻って全身で側頭部から床に叩きつけた。短い鳴き声を押し潰しながら根元まで刺さったナイフが首を裂くと、埃だらけの床が一瞬で赤い血飛沫に塗り替わった。


 血に染まった手を虎の毛皮になすりつけながら生気を無くした目を布引が覗き込む。

「んー。これは、変貌者じゃなくて普通の虎さんっぽいなあ」

「雑魚みたいに処理された可哀想な虎さんだったな」

「バリケードを破った犯人じゃなさそうだが、ここに残っていた変貌者の死骸はこいつの仕業くせえな」

「おい、日本で虎にエンカウントなんかしていいと思ってんのか。この無政府状態になる前に一切合切手を打たず、動物園の猛獣取り扱いを各施設にお任せしてたんじゃねえだろうなあ」

「はあ? 陸上召集ギリギリまで海上勤務してた俺が細けぇ処理まで知るわけねえだろ。混乱期で猛獣の処分について紛糾はあったらしいが、ニュースなんてまともに機能してたのは最初だけだからな」

 なんにせよ生息するはずのない檻の中の動物が外にいた。これが今の日本というわけだ。

「餌をやれなくなって可哀想精神だした馬鹿が解放したかもしれねえし、飢えた馬鹿が肉を狩ろうとして取り逃したかもしれねえし」

 布引が踏み荒らされて潰れた機材をなぞる。

「もしかしたら象みたいな大型獣が変貌して檻を破ったのかもしれないね」


 隙間風がそこら中で吹いている。もう何かか徘徊する音は聞こえてこないが、大人達は周囲の物陰を確認しまわっている。壁を背に立たされた丸金の隣には小銃を抱えた望月がいて、ハーネスの代わりに服の裾をつかまされて「ここでは何もしないこと、良いと言うまで離さないこと」を約束させられている。

 やる事がない丸金は片目を閉じて眼帯の中の瞼の裏に注意を向ける。


 そこには空と海が広がっていた。

 高い建物の上で、眼下には閑古鳥の鳴いた幹線道路だけが見える。視界の隅には不気味な魑魅魍魎が垣間見えるが、とても静かな風景が広がっていた。

 波の音が聞こえるような錯覚を覚える目の前を、ワンカップの日本酒が現れて蓋を開く。無造作に酒の中に魚のヒレが落とされて、ゆるりと手元で遊ぶように泳がせる。

 視界が上を向いて空が更に視界の大半を奪う。

 釣られて丸金も顔を上げる。

 黒い羽色の細い鳥が何十羽も空を横断していた。先頭が行く先を流れるように続く群れは広がったり細長く引き離されたり形を変えながら、以前と代わりなく空を彩っている。


「ワン!」


 鼓膜を揺らす鳴き声で見開いた両目に景色が混ざる。

「犬?」

 望月が複雑な顔で周りを警戒する。

 丸金の脳裏には犬が襲いかかってくる忌まわしい記憶が過ぎる。あの時にはまだ荒妻がそばに居て、彼は丸金に降りかかる火の粉をひと撫でも許さず蹴散らしてくれた。そして、望月の呼びかけで変貌を留まった青年が犬に食い破られた傷が元で哀れな死を遂げた。


 青い景色がぼやけて意識が完全に実体側に切り替わる。

「ワンワン!」

 火がついたように吠え出した犬は近づいてくる気配を見せず何処かに隠れていた。広い空間で反響している鳴き声がいやに近い。

「何処だ?」

「しー」

 布引が口元に人差し指を当て、視線を泳がせながら歩き出す。淀みなく向かったのは部屋にある机で、そこには薄いベニヤ板が立てかけられている。明らかに隠されたそれをずらせば机の下から鳴き声がハッキリと届くようになる。

 しかし深く暗い影の中からは何も這い出してこない。

「ワン! ワンワン! クーン」

 甘えた声に向かって膝をついた布引は「あー」と首を傾ける。

「どうした。犬じゃないのか」

「んー、あぁ、そうかなあ? 多分、元は犬なんだと思うけれど」


 不吉な前置きをして闇の中へ不用意に手を入れようとした布引に、慌てた望月が丸金の手を引いて壁から飛び出す。

「待て! 不用意に犬の前に手を伸ばすと」

「ぶうぇ」

 視界のブレた丸金は成り行きのままに遮る物がない場所で、机の下から引きずり出されたゲージを目にする。

「噛まれて……」

 机に収まる程度の小さなゲージから溢れ出している巨大な茶色の毛むくじゃらが吠えながらゲージの中でゴム毬みたいに縦横無尽に回転している。毛に埋もれて見えないだけなのか判別はつかないが、現状では顔も尻尾も胴体も見当たらない。


 望月は戸惑いながら背に丸金を庇いつつ正体を見極める。

「これは、もしかして犬が変貌しているのか?」

「廃墟で狭い箱に詰められて置き去りにされた上に餌も与えられずにいれば発狂しそうではある。犬でも」

 おおかた謎の解けた話から興味の失せた村上は「探索に戻りますか」と離れていく。


 ペットを閉じ込める程度の強度しかない平和な檻だ。軋む格子はいずれ壊れるだろう。毛玉が飛び出してくるのは時間の問題でしかない。

 仲前が頭を強く掻いて顔を顰めながら檻に近づくと、銃口を毛玉に向ける。

「待て!」

 望月が銃口を握ると弾が床を跳弾して何処かへ飛んでいく。

「っぶねえ!! 何さらしとんじゃ、おっさん!?」

「襲ってきたわけでもない! 問答無用で殺すことはないだろう!?」

「ああ!? あのなあ、これは、人間様に恨みつらみのある飢えた獣候補だろうがっ。普通の犬ですら飼い慣らされたペット時代と違って人間を襲う側にまわってんだぞ。俺達がやり過ごしてもいずれ誰かを食い殺す。こういう類いは殺処分だ。見たくねえなら壁のシミでも数えてろ!」

「君がいつも汚れ役を引き受けてくれているのは十分理解している。だが自分は犬を飼っているから鳴き声で分かる。こいつには敵意がない。寂しくて甘えているだけなんだ」

「笑いながら襲いかかってくる殺戮者共の姿がポンと抜け落ちてるらしいが、開けてビックリ玉手箱じゃ済まねえんだよ。取り残されて飢えて死ぬのが哀れなら、苦しまないよう始末をつけていくのが本当の優しさってもんだろうがよ」

逼迫(ひっぱく)している状況ではない。様子をみてから判断しても遅くはないはずだ」

「そのパターンは見飽きてる。不意を突かれて襲われてからじゃ遅えんだよ。今の定石を秒で覚えろ」


 毛玉の前に立つ望月を押し除ける仲前の肘が重傷な脇腹を抉り、小さな呻き声が丸金の耳に届く。

「えっと! えっと!?」

 慌てた丸金は銃を構え直す仲前の腰に飛びついてベルトに全体重をかけて縋り付く。

 前を向いたままの仲前からドスの効いた声が降る。

「……うおぉい」

「はは、話し合いが、お、終わってなかった、よよよよ、ようなので!」


 真っ青な顔で言い訳を絞り出す丸金の顔に、布引は顔を綻ばせて檻の前に血塗れのナイフを振りおろす。虎の血飛沫を指で拭いながら、布引は仲前に流し目を送る。

「いいよ。答えが出るまで私が見張っていてあげよう。敵意の有無が問題なら、私ほど最適なセンサーはないはずだから」

 言い出したらテコでも爆弾でも動かない筆頭を前に、仲前はゆっくりと振り返ってベルトにぶら下がっている丸金を睨みつけた。




 考える時間を与えられた望月は眉間の皺を深めて小さな毛玉の活路に頭を捻りながら部屋を当てもなく歩き回った。給油設備を確認しに向かった村上と仲前が守備良くガソリンを満タンにしてしまえば無念のタイムオーバーだ。


 無謀にも檻の上に腰掛けた布引は空いた時間を使って浴びた汚れを拭っている。行動をよく見ていると、布引は化け犬が鳴くと檻の中に手を入れて撫でていた。仲前に見つかれば噴飯ものだが、お目付役は不在である。

「可愛い子だね。こんな目にあって、少なくとも負の感情で変貌したはずなのに攻撃性がカケラもない。この子、飼い犬だよ。毛に埋もれて見えないけれど首輪がある」

「君はまったく。まだ安全とは確定していないのに無闇にゲージに手を突っ込むんじゃない」

「毛色は柴犬辺りかな? 私もお爺様が預かってきた犬を一時期飼っていた事があるんだよ。半年くらいだったかな。懐いてくれなくてよく噛まれていたなあ」

「柴犬か……」

「もしかして羽秋さん家の子も柴犬かな?」

「ああ」

 肯定した望月は目を伏せる。

「元は殉職した同僚の犬で、引き取り手がないからと譲り受けてしまってな。残業や泊まり込みの多い仕事だから大半は実家に預けっぱなしだった。自分は良い飼い主ではなかったが、あいつは賢く思いやりのある犬、だった」

「過去形なんだね」

「いつ亡くなってもおかしくない老犬だからな。空白の二年を足せば十七になってしまう。あいつには最期まで不誠実なことをしてしまった。タイタンは変貌する前に看取るぐらいはしてやれたのか、せめて穏やかに眠れたなら良いんだが」

 相槌を打つように化け犬が「ワン」と鳴けば、懐かしそうに望月は目を細める。


 布引も何かを想うように口元に拳を当てる。

「今の内にこの子を逃してしまおうか? 蓮君は怒り狂うだろうけれど、よく分からないものが蔓延る世界に野犬一匹解き放ったところで誤差の範囲でしょ」

「それは駄目だ。仲前君の懸念はけして間違っているわけではないのだから」


 群れとなった野犬がどれほどの脅威になるかは丸金すら思い知っている。

 仲前は正しい。

 今回ばかりは優しさゆえに望月が間違っているように丸金の目には映ってしまう。それでも仲前を引き留めたのは、今まで丸金が駄目だと思った盤面を望月がことごとくひっくり返して見せたからだ。


「せめて変貌した理由が分かればこいつを解放する材料になり得そうだが」

 単に飢えか孤独による変貌なら、檻の外でも殺意に偏ることはないだろう。体格からも柴犬が毛深く膨らんだ程度しかなく、この施設を襲撃した犯人とは考え難い。

 望月は拳を握る。

「よし、まずは周辺から詳しく調べ直そう。悪いが菅原君もつきあってくれないか?」

 丸金は目を輝かせ勢いこんで壁を揺らす大声で「はい!!」と答え、飛んできた仲前に頭を叩かれた。




 捜査を始めてまず目についたのは無造作に散らかっているゴミだった。カップ麺や缶詰をつかんで中を覗いた望月は渋い顔になる。

「油が乾ききっていない。最近のものだ」

「その、もしかして飼い主さんは、あの、虎に食べられてしまったんでしょうか」

「虎の胃を改めれば人喰いの確認はとれるが、飼い主に関してはシロだろう。この部屋には手間をかけて足跡を消した痕迹が残っている」

「え!?」

 注意深く床を見直した丸金は、雑然と荒れた床一面を覆う土埃と虎の足跡くらいしか見つけられない。

「ゲージは机の下に押し込められ、わざわざ板を立て掛けられていた。意図的に犬を隠しているんだ。板の淵にも埃はあるがつかんだ手の幅だけ跡が残っている。床にあったはずの人間の足跡だけが綺麗に埃で埋まるのは不自然だろうな」

 飼い主は変貌した犬を隠そうとしたのか、あるいは持て余して置き去りにしたのか。


 丸金もカップ麺を拾う。似たような物を食べていた聖を思い浮かべて頭を振る。別れた場所から遠くはないが、それなら分厚い刃を引きずって歩くシザーの跡も残るはずだ。土埃を振り撒いたところで傷までは隠せない。

「ワン! ワン!」

 毛玉の間から長い舌が床まで垂れ下がって左右に揺れる。ゲージの隙間から毛玉を観察する布引は新たな動きを目で追っていく。

「どうしたんだい、ワンコ」

 化け犬の長過ぎる舌は左を向くと、そのままウネウネと伸び始めて角を曲がり机の下へと向かっていった。そしてすぐに舌がそのまま毛玉に吸い込まれるように戻ってくると、しなる舌が床に何かを放り投げてプラスチックの乾いた音をさせながら跳ねて中身をぶち撒けてしまった。

 最初に包んでいたのはジーンズ柄のサコッシュで、飛び出した中身は色付きリップにキャラ物ブラシ、ポップな表紙をした手帳、そしてこのピンナップにはとてもそぐわない刃先を赤黒く汚れた布で包んだ裁ち鋏だった。


 化け犬はもう一つ「ワン」と鳴いて再び興奮してゲージの中を跳ね回った。新しい証拠品の前にかがんだ望月は推測を述べる。

「お前の飼い主は茶髪の少女なんだな。こうして遺物を大事に持っていたなら怨恨の線はないのだろう。少なくとも喧嘩別れではなかったらしい」

「ワンワンワンワン!」

 机の奥から再び物が放り投げられる。広い空間にそれが何度かバウンドして、転がりながら望月の元で静止する。咬み傷だらけの薄汚れた野球ボールだ。

 尻尾があれば振りながら期待に満ちた目で見ているであろう化け犬は、左に回って、右に回って、甘えるように「クーン」と鳴いた。


 望月は短い髪を鷲掴んで顔を歪める。

 良心が、思い出が、深い傷口よりもジクジクと精神を蝕んでいく。

 この毛玉は紛れもなく犬だった。




 村上と仲前はガソリンの臭気と共に戻ってきた。発見したガソリンを原始的にポンプで汲み上げて検分した後に給油を済ませ作業終了。


「却下だ」

「なんで!?」

 解放許可が出るものだと思っていたのは丸金くらいで、大人達は予想通りという反応だ。仲前は顎で出口を示す。

「蝙蝠だけ残して全員車に戻ってろ。先に進むぞ」

 処分の采配をくだされた化け犬を見て丸金は泣きそうになる。望月は拳を握って目を瞑り口を引き結ぶ。

 そして布引は相変わらずゲージの上に座って見せつけるように化け犬を撫でながら挑発的な笑みを浮かべた。

「断ると言ったら?」


 間髪入れず銃声が鳴る。化け犬に向けられた小銃から薄っすらと硝煙がのぼり、布引は長い足の間に包丁を垂らしていた。

 そして化け犬は沈黙したまま床にひしゃげるように潰れると、ゲージの外に突き刺さった銃弾を元気に嗅ぎまわり始めた。

 陽気な笑顔で布引が二本目の包丁を手元で回す。

「弾の無駄だよ」

「マジで面倒くせえわ。鉄壁な女はモテねえぞ」

「そうなの? じゃあ、モテたくなったら参考にしてみようかな」

 緊迫する空気に息を呑んだ丸金は真っ青になって周りの大人達を見回した。何を考えているのか望月も村上も黙ったまま静観しており止めようとはしていない。

「エゴを通して化け物を解放してどうなるか予言してやる。責任をとるのはこの場の誰でもなく哀れでか弱い被害者Aちゃんだ。どっかの可哀想な見知らぬ誰かじゃ罪悪感も湧かねえってか」

 布引は笑い声を漏らして包丁で胸元を指して目を瞑る。

「何処かで聞いたような問答だ。どちらを助けるか選べと問われたら私は必ずこう答える」


 対立すれば先生が誰の味方をするかは明らかだもんなあ。


「諦める必要があるの? 私は強欲だから用意された悲劇なんて選ばない。諦めなければ可能性は残されるのに答えを出す意味あるかな」

 意地悪な声が脳裏に過った丸金は跳ね上がった心臓を押さえ付けて己を恥じる。布引は、計算ではなく心で答えを描く人だ。ここにいる誰とも違う。

「この子は誰も襲わないし、何処かに連れ去られた女の子の愛犬だ」

「その女の子への怨嗟で化たなら追われ続ける被害者は決まったな。たまにはシンプルに安全策で納得して俺の心労を慮れや。ガチで怠いんだよ。問題引き起こすわ、引っ掻き回すわ」

「それは申し訳ない。でも最初は反対しなかったじゃないか」

「なんの話かさっぱり」

「この子が安全な犬か危険な化け物か答えが出るまで私が見張る事」

 肩を持ち上げて破顔する布引に、仲前は顔面を押さえて苛立ちを食いしばる。


 今にも爆発しそうな仲前と絶対引きそうにない布引をオロオロと見比べる丸金は、ここにきてまったく発言していない村上に気づく。いつもなら皮肉か意見の一つでも三つでも挟んでいる頃だ。

 どちらかと言えば仲前の意見に同意しそうだが、丸金が助けたいと言えば選択肢と仲前を説得する屁理屈を用意してくれるだろう。


 しかし、丸金の脳裏に朝の諍いが過ぎる。

 布引と村上は対立している。だから意趣返しに薄笑いで観客に徹しているのかもしれない。一言も喋らない様子に違和感が強くなる。

 不意に観察している丸金の視線に気づいた村上と目が合う。


 蝙蝠の意見は本当に村上とは違うだろうか?


 勢いよく下に視線を逸らす。

 動悸が激しくなる。

 もしも村上が丸金の望んだ選択肢を用意してくれなかったら、答えを聞いた後に実行できなければ蝙蝠のように冷たい視線が向けられるだろうか?

 村上なら本音は隠すかもしれない。だが、その仮面の裏で失望されるだろう。


 この場には丸金にとって必要な選択肢がそろっていない。正しい答えではなく優しい答え。白か黒ではなく灰色の答え。危険と秩序を混ぜ合わせた重りを背負って進む答えだ。

 完璧な結果を求めずにギリギリ譲れない目的と目を瞑れる損失を明確にする。

 これは敵が気紛れに丸金に教えた言葉。残酷な死神が落としていった答えの出し方だ。


 どうしても通したい目的以外を削ぎ落として単純な答えを作り出す。

「ゲージに入れたままなら危なくないので、犬を、つ、連れて行ってはいけませんか?」

 考え抜いて言葉を捻った。丸金の甘い提案はいつも誰かに叩き潰されてきた。それは今までの提案が願望にすぎないからだ。

「そうすれば、被害者は出ないし犬も助けられると思うんです。あの、その、答えが、出る、ま、で……」

 絞り出した意見への反応に足が震える。すぐに仲前は問題点を挙げた。

「化け物の餌は」


「自分が全て賄う!!」

 望月が自分の胸に拳を当てて前に出る。

「まず何を食べるか確認して自己調達する。面倒は全て自分が見よう。危険だと見極めがつけば責任を持って処理する。問題には全て短期解決に努める」

 顔を歪めて望月が頭を下げる。

「頼む、まだ殺さないでくれ」


 思わぬ懇願に誰もが目を丸くして沈黙する。他人の安否に関わる話で食い下がる男ではない。人喰いの野犬に襲われた青年を助ける時にも群れへと飛び込んで首をへし折っていたではないか。


 そう、苦渋を浮かべて謝りながら。


 望月は犬を飼っていた。懐かしい毛並みに、彼にとっては最近まで生きていた記憶を添えて、目の前で殺す相談をしている。

 大人は隠し事が本当に上手い。厳重に奥底へ秘めていて、知らない間に壊れてしまう。


 丸金は自分の手を見下ろす。

 全てが終わってから報いてどうする。

 戦いに参加すれば十分か。

 やれる事だけやれば良いと言ってもらった。

 ならば、これは子供だからすべき事だ。

「つ」

 どんな結果になるとしても戦犯を負うべきは。

「連れて行ってくれないなら、わ、わ、わ、私、ここから動かないので!!」

 その場にしゃがんで膝を抱える。


 言い切ってから怖くて床を凝視する。我が儘のやり方が思い出せない。間違った事はしでかすが基本的には良い子になるのが信条だ。呆れられるか、失望されるか、無視されるのか、早くも後悔が頭を占める。

 丸金がこんな事をしなくとも大人達は上手く話を纏めたかもしれない。もっと上手い手口は思い付かなかったのかと頭を抱えたくなってしまう。


 仲前から溜め息が漏れて、銃口の代わりに指が化け犬に向けられる。

「これ以上アホらしい問答で足止め食らう時間が惜しい。この案件は保留だ。ゲージのまま車に乗せろ」

「わーい」

 手を打って布引が立ち上がる。

「じゃあ、準備するからちょっと待って」

 ゲージに手を添えた布引は化け犬に向かって自分の隣を指し示す。

「ワンコ、ここでお座り」

「わん!」

 ゲージの裏側から普通に出てきた化け犬が言われた通りに布引の横で待機する。そして布引はゲージをひっくり返して、机の下から壊れて外れた片面を引きずり出すと番線と包丁であっという間に修繕する。

 正規の扉を開け放った布引は犬に向かって命令する。

「OK直った。ハウスして」




 仲前は激怒した。




 ゲージを運ぶ望月の後ろでは、怒鳴り散らす仲前と微笑みながら聞き流している布引の修羅場が繰り広げられている。どちらの味方にも付き難い丸金と望月は渋い顔で車へ急いだ。

 化け犬は揺れるゲージの中でも大人しく丸まって毛玉化している。

 ずっと黙っている先頭の村上は、バックドアを開いてゲージを置く場所を適当に作ると運転席へと収まった。


「だって最初から壊れてたんだよ。まさか仲前君が気付いてないとは思わなかったなああ」

「絶対いつか手酷く犯しちゃるからな、こんクソアマがあああ!!」

 ゲージを乗せても仲前の怒りはなかなか収まらないようだ。罵倒内容が酷くなってきたので望月はソッと車の扉を閉じた。


 置き場のない丸金は、ゲージの前にしゃがんでポケットからチョコを取り出して化け犬との接触を試み出した。

「待て、菅原君。犬にはチョコが毒になる」

「え!?」

 慌てて自分の口に放り込んだ丸金はチョコで汚れた手を化け犬から隠す。望月は「後で落ち着いてから何を与えるか考えよう」と言ってゲージのそばへ腰掛けた。

 化け犬はゲージから長過ぎる舌を伸ばして丸金の顔面を舐め回す。

「それで」

 望月は運転席に視線を向ける。

「君は何を拗ねているんだ、村上君」

 生臭い舌に絡まれた丸金は言葉の意味が分からず顔を上げる。声をかけられた村上は、運転席から振り返ると「べっ」と舌を出して前を向いた。


 村上が拗ねる?


 顔周りに巻きついてくる長い舌を解きながら望月を見上げると、苦笑しながら事情聴取を諦めてから表情を引き締めた。

「現場を調べて一つ確信した事がある」

 舐められ過ぎて味見されている気がしてきた丸金は、化け犬から離れて望月の横に着席して、追いかけてくる舌に首を振る。

「なぁに?」

 一応聞いているらしい村上の反応があったので、望月は己の見解を示す。

「足跡を埃で偽装した者がいる。おそらく飼い主とは別件で最低でも三度繰り返されていた。近隣に隠れる生存者以外には必要のない処置だ」

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