折れない刃
地獄の門から不気味に歪んだ化け物達が踏み込んで来る。
すぐさま望月が正面に滑り込んで先頭にいる青黒く顔の溶けた巨躯に組み付く。それは目から留めなく黒墨を垂れ流しながら首を捻り望月の顔を覗き込んで黒い泡を吹きながら声にならない言葉を発していた。
「ぬ、おおおう!」
望月は殺戮者をバリケードの向こう側へと少しずつ押し戻していく。だが、その長い足の間から節足動物の挙動で反り返った者達が這い出した。千手観音像の如き複数の手には仏具に紛れて冒涜的な凶器が握られている。
抑え損ねた化け物が望月を囲む輪に舌打ちをした仲前が身を屈め銃身で横薙ぎに払う。
「集めた個体はザッと三十。くれてやった弾倉も三十連。一体一発で丁寧に撃破するもよし、重傷のタイタンもどきを使って節約するもよし、後悔のないゲームメイクで楽しませてくれ!」
仲前は足元から漏れた敵の頭だけを撃ち抜くと、躊躇いなく高みの見物を決め込む蝙蝠へと銃弾を消費する。
腹を抱えて笑い転げながら空をジグザグと悪魔が飛ぶ。
「最後まで目的を遂げるために戦い続ける立派な使命感に敬意を禁じ得ないなあ! 無闇やたらと無謀の限り。使い切ったら次はどうする? さあ、俺は手を出さないと言ったろう。全力を尽くして頭を捻れ。口先で折れるくらいなら悪役なんか選ばんぜ。思いつく限りをやり尽くして自分をしっかり追い詰めて最高の絶望感を楽しんでくれ!?」
「みっともねえ残りカスを晒してオモチャにされるくらいなら、生きたまま食い散らかされて取り憑き殺してやんよ!!」
この状況でも道路の縁で棒立ちの布引がボソボソと何かを数え始める。
「十八、十七、十六」
仲前が弾を撃つたびに減る数字に、丸金は布引が銃弾を数えて機会を図っている事に気付く。
「は、離してください!? 置き去りにして逃げるのは嫌です! 私も、私にもすべき何かがあるはずです!!」
「その通り。でも君に求められているのは英雄的な立ち振る舞いではない」
強い断言で苦悩にのまれる。
間違い探しの毎日だ。頭を占めるのは後悔ばかり。望月は失敗を積み重ねれば力になると言うが、取り戻せない犠牲の上につかみとった成功は丸金の求めている正解ではない。
滑空した蝙蝠が道路の下に潜って空へ飛び上がっていく。布引は目をすぼめて真上を見上げ、大きく一歩横に移動する。そこへ狙いすました何かが落ちてきて地面で潰れる。
黒ずんだ赤の中に腐った肉塊が咲いていた。
「まだ王子様が助けに来る夢を見ているんだろうお姫様。そいつは下水を駆けるドブネズミか、この局面で蒸発した裏切りの護衛君か、いやいや、死んだはずの仲間が駆けつけた方が劇的で良いかねえ?」
太陽の光に紛れた影から声が降る。
「はっはあ。見覚えがあるだろう。なになに、分からないだって?」
次は足が落ちてきた。ズボンを纏ってはいるが中の肉が潰れる音は届く。
「パーツがそろえば嫌でも思い当たるだろ」
蝙蝠が急降下して、それを仲前の銃弾が追う。
腐りかけの潰れた腕に特徴なんて何もない。血で染まって汚れきったズボンの模様は判別できない。
壁の向こうから腕が再び投げ込まれ、蝙蝠は狂ったように笑いだす。
「もっと近くで確認すればダイイングメッセージの一つでも見つかるかもな! 俺だったら死に際の体にも何か仕掛けを施すわけだがぁ!?」
丸金は甘い腐敗臭のする肉塊を見下ろす。
人が死ぬ時は誰であろうと酷くあっさりしている。母も、父も、祖母も、さっきまではと否定しても死体が拒絶を踏みにじる。
「弾切れだ」
最後の薬莢が地面を跳ねた。
潔く仲前は再び銃剣の構えに戻り、横から飛びかかる異形の攻撃を受け止めて勢いよく地面に叩きつける。車の間からあふれる殺戮者は望月一人で抑えきれない。続々と現れる化け物の後続からも鳥めいた叫声を上げて入ってこようとしていた。
「さてと」
次は丸金のそばに蝙蝠が現れる。壁の縁で座る腰にはどういうカラクリなのか足がある。そんな時は決まって背中の翼が消えるらしい。村上と何一つ変わらない姿で、喋り方で、仕草で、腕を広げて蝙蝠が笑う。
「ではその肉片を解体するまでの過程を報告しておこうか」
「い、いや」
布引が体の向きを変えて「耳を塞いで」と言えば、蝙蝠は嬉々として後ろから拡張器を取り出した。
「空と地上を同時に監視するならどの建物を陣取りたい? 他人なら意見は割れるが、あれは俺と同じ選定基準で行動した。当然俺もそうする」
睨む布引を嬉しそうに見下しながら後を続ける。
「誘き寄せた獲物が後から階段を登ってきて刺してくださいと背中を見せる。外を覗く無防備な誰かはナイフを根元まで突き立てられるまで気づかない。間抜け面が滑稽で笑いを堪えるのに苦労したなあ。そうそう、お姫様にくれてやったナイフはちゃんと大事に持ってるかい?」
懐にある凶器が熱を持ち、胃の腑まで響いて堪えきれずに朝の物を吐き戻す。
丸金の反応に気を良くした蝙蝠は拡張器を乱暴に打ち捨てる。不快な音を立てながら壊れる機械に四つ足の殺戮者が駆け寄って臭いを嗅いで鷲掴みにすると狂ったように地面に何度も打ち付けだした。
布引は足元にある石を軽く引き寄せて足の甲に乗せると、蝙蝠に向かって蹴りつける。
「おっと、危ない」
足を持ち上げて蝙蝠が後ろへ倒れる。そして再び蝙蝠は壁から姿を現して翼で空へ舞い上がる。
「ひゃはははは、もっともっと遊ぼうぜ! これで終わりじゃつまんねえだろ。まるで俺が一方的に虐めてるみたいじゃねえか。何も攻略法を考えずに化け物退治に繰り出したのか? なにがしかの一矢は報わないとなあ!?」
蝙蝠は汚れた白いボールを地面に投げ落とした。次から次へと手品の様に物を取り出してくる。それが地面に落ちると半壊して破片を撒き散らせる。白い物は肉片をこびりつかせたまだ新しい頭蓋骨だ。
好き勝手に心を蹂躙して嘲笑を降らせる空の死神を止める妙案が湧いてこない。
このままでは全員が蝙蝠の箱庭で嬲り殺される。
チリチリと視界に黒い靄がかかり意識は何かに置き換わろうとしている。たった今までどうやってそれに立ち向かってきたのか思い出せない。
信じていた背中が折れるたびに解らなくなる。
本当に正解なんてものが存在するのか。
「よしよし、まずは深呼吸をして落ち着こう」
丸金はぐるりと体を反転されて布引の横脇で後ろ向きに抱え直される。丸金からは見えなかった両足が割れた縁にかけられて、少しの身じろぎで落ちてしまう所にいたのを知ってしまう。
「ほら、怖いものは隠れてしまった。大丈夫。恐ろしいものは私が必ず追い払うから。丸金は後ろにいる無害な鳥でも眺めていると良い」
狂騒の中で見当違いな慰めに包み込まれた丸金は脳が溶ける感覚に目眩を覚える。
布引は病んでいる。
解っている。
危険が迫れば丸金を優先する。
知っている。
聖という目的のために死ぬわけにはいかない人だ。
それでも、それでも、それでも!!
「戦うのが間違いだと言うなら今すべき正解を教えてください! 誰か犠牲にしなきゃいけないんなら私以外はみんな嫌です!! なのになんで、なんで今、一番強い布引さんが戦ってくれないんですかあ!! なんでえ!!!!」
考えの足りない暴れ者が足をバタつかせて喉が張り裂けそうな大声で泣き叫んでも布引は動かない。
「私は丸金の為にならない事はしない。でも頭が良くないからどう為になるのか上手く説明できないんだ」
「こんなの嫌です!! 嫌! 嫌! いやああ!!」
駄々を捏ねる子供に布引は目を丸くして笑いを漏らす。
「困ったなあ。普段なら遠回しな言い方はしないんだけれど、こればっかりは賢い君が自分で気づかなきゃいけない」
「や!」
「そんなこと言わないで。人の言葉と行動の裏には意味がある。そう難しい事じゃないんだよ。私の言葉に大した裏なんてありはしない。もうほとんど答えなんだ。後は丸金が私を信じてくれるかどうか」
水面に一粒の光が落ちる様な違和感。
「菅原丸金、何かを掴み取りたいのならば後ろの事は一度忘れて前だけを見ていなさい。君に足りないのは視野の広さだ」
勢いよく面を上げる。
布引は、丸金を蚊帳の外に出そうとなんてしていない。謎めいた言葉の意味こそ理解できなかったが何かの形で哀願に応えている。
慌てて記憶の糸車を急回転させる。沸騰した頭に残っている言葉を反芻しても答えが何も見つけられない。
それでも違和感を一つ見つけてしまえば府に落ちない綻びが見えてくる。
ここにきて後ろに向けられた理由が引っかかった。泣いて吐くから見えない様に気遣ったと丸金は受け取ったが、そもそも今までの布引なら慰める為に胸の中で抱きすくめていただろう。
血の臭い、肉の潰れる音、蝙蝠の声、答えは後ろに存在しない。
深呼吸をして目を拭う。
丸金は目の前に在るものだけに集中する。正面に見えるのは崩壊した高速道路の断面だ。天気は晴れ。死んだ町が地上にあって、眼下には白い翼ではばたく鳥が一羽だけ。
ふと、認識した途端に鳥と目が合った気がした。まるでそれを裏付けるように鳥は丸金の方へと旋回して軌道を変える。
鳥ではない。
奇妙な体は薄い翼と角張った折り目をつけられた紙で形作られた命を持たぬ物だった。眼前まで上昇した折り紙は丸金を認識してホバリングで待機する。これは紛れもなく陰陽術だ。
涙で濡れた手を伸ばせば鳥は容易に手中に収まる。
模様は罫線、素体はよく見るノートの切れ端、そして体には綺麗な文字が刻まれていた。
鳥を燃やして空へ放て
太陽に透かされた紙の中に緻密な文字が隙間なく重なって見える。これが何を示すのか未熟な丸金には分からない。
体を捻って布引に助けを求めて視線を向ける。相変わらず蝙蝠の動向を視線だけで追い続ける布引は後ろにも目がある様に呼応する。
「私だけが矛じゃない。目に見えないものも信じてごらん」
丸金からは後ろで何が起こっているのかまるで見えない。逆に、あちらからも丸金が何をしても見えはしない。
鳥の翼をつかむ両手に力を込める。
「んんっ!」
ジリジリと紙が青白い炎で翼を力強く膨らませ、青い鳥は空へと高く舞い上がる。外殻が燃え尽きて中にある紙へと炎が燃え移る頃、一気に閃光が弾け飛ぶ。光は空に輪を広げ、花火の如く霞みながら緩やかに空気に混じって消えていく。
蝙蝠が空を見上げて異変に気づく。
「なんだぁ?」
それを合図に今度は隣の建物から爆裂音と共に巨大な弾頭が発射された。弾道線上にいた蝙蝠は然程速度のない飛翔体の下へ容易に潜りこんで回避する。見送られた弾頭は空を横断して崩れたバリケードの向こう側へ着弾して爆発した。
「ぐあっ!?」
「ばっ!!」
至近距離にいた望月と仲前が突風と爆炎で地面に叩きつけられる。同時に道を形成していた車が崩壊して殺戮者の侵入が封じ込められていた。
「RPG?」
爆風の中、口角を上げて射出された場所に蝙蝠が目を向ける。失敗に終わった奇襲と速度のない軌跡が射手の場所を即座に特定させてしまった。
しかしそこから間髪いれずに車が飛び出した。
重力に引かれながら、空中を越えて、壁を壊して道路に滑り込んできた車は激しく回転してタイヤの跡を刻みつけながら布引の前に停止して、間髪入れずに男が一人転がり出る。
「解術しろ、マル!」
全身に痺れが走る。
何が起きたか頭で理解するより早く条件反射が働いて両手を大きく打ち鳴らす。途端に腰をつかむ布引の腕が緩められて独楽みたいに道路へと戻された。よろめきながら目に入ったのは空一面に蓋をする巨大な網。突如現れた網は蝙蝠の頭上に落ちていく。
「な!?」
蝙蝠を動揺させる網の端を拾い上げたのは、地に足をつけて血と泥で汚れた制服に身を包んだもう一人の、村上海舟。
「野郎を引きずり降ろせええええ!!」
望月と仲前が弾頭の運んできた網の傍らを鷲掴みにして一気に地面へ手繰り寄せる。
翼の動きが絡みとられた蝙蝠が網を押して抵抗しても虚しく空から引きずり降ろされていく。
「捕まっちまったあ!」
それでも馬鹿笑いを止めないと蝙蝠は、抜け目なく逃げ道に視線を走らせて残された狭い空間を飛び網を標識に引っ掛けた。
望月は燃える車に背を炙られながら更に網を手繰り寄せて膝を折る。
「ふん!!」
いくつか縄の切れる音をさせながら高速道路の頑強な標識棒が折れ曲がっていき、蝙蝠は顔を引攣らせる。
「おいおい、人間がそういう事をやれちゃったら反則だろうが。このおっさんの初期設定バグり過ぎじゃない? でもまあ」
ポケットから厳つい鋏を取り出して指で回す。
「幻の次は実物で騙し討ちなんてのは想定内。捕縛用の対策をしてないはずがないってな。こちら漁師御用達の網切り鋏でござい」
大仕込みが無力化される。
ようやく見えた勝ち筋を踏み躙る蝙蝠に、その死神から複製された男は口を歪めて空を仰ぐ。
それはまるで鏡合わせの様に嗜虐に満ちた不敵な笑みだ。
「だろうなあ! んなこた当然解ってたが、てめえはこっちの駒を正しく掌握できてねえ!!」
鋏を見てなお村上は網を手放さずに全体重をかけていた。そこに何かを感じた蝙蝠は目を細めて即座に脱出に転じる。
何かに感づいて動いたのは仲前だ。網を手放し、落とした銃剣を拾い上げる。
「布引!!」
そこで立ち尽くしていた丸金は後ろから腕を掴まれ再び独楽の様に回されながら背中へと戻される。布引は口に包丁をくわえて片手で丸金の尻を支えながら弾丸の様に前方へ飛び出した。
銃剣の切っ先が布引に向けられたまま投げられる。真正面に飛んできた凶器が布引に当たる寸前、ものともしない布引の手が刃先をすり抜けて銃身をつかまえた。
そして、たわむ網の外側を弾丸の如く駆け上がりだす。
「いいっ!?」
蝙蝠はまだ狭い穴を慌てて押し広げる。翼が抜ければ足は無いので立ち上がる動作もなく飛翔すれば阻むものなき自由な空だ。
蝙蝠は翼が穴を抜けた瞬間に飛び立った。網から体が離れたその眼前、包丁が一閃して赤い線を空気に引いた。
「くっ!」
布引の刃が、蝙蝠の鼻先に届いた。
後方に飛ぶ蝙蝠を布引が包丁で猛追する。離れようとしても目元をかすめ、翼に風穴、腕に裂傷、疾風怒濤の斬撃が動きを読んで絡め取りにくる。包丁と網に動きを制限された蝙蝠の顔が焦燥に変わった。
対する布引は背中の丸金を銃剣を握った腕で支えながら、不揃いで不安定な網の目を足場に危なげもなく進撃する。
「まっ、たく! そちらさん確か近接戦闘専門じゃありませんでしたっけかねえ!?」
「これだけ足場をそろえてもらえば私にとっては地上戦も同然だからね! 空中雑技はお見事だけれど、棒立ちで観戦させてもらったおかげで動きの癖にも目が慣れた」
真正面で距離を詰めた布引が、丸金を支える手を入れ替えた。
「さあ、君が死神退治の一体目だ!!」
蝙蝠の鳩尾を銃剣が貫いた。
銃口から銃剣が抜け落ちて網の上に音もなく弾む。鈍色の綺麗な刃先は背中の向こう側から落下した。蝙蝠は羽ばたきながら腹から生えた小銃に目を落とす。
「やったのか!?」
下から聞こえる望月の声に、ようやく丸金の思考がここまで追いつく。
「‥…蝙蝠に、勝っ、た?」
丸金の小さな声に顔を上げた蝙蝠は口角を上げて顔を歪める。
「違う! 手応えがおかしい!?」
布引が小銃を手放して今度は包丁で蝙蝠を横薙ぎにする。胸から下で真っ二つとなった蝙蝠は胴体に構わず大きく羽ばたいた。
もう一撃は間に合わない。
頭と腕と翼以外を削ぎ落とされた蝙蝠は命からがら遥か上空に逃げ果せた、とは誰の目にも映らなかった。網の上に落ちてきたのはポケットに何か詰めた服だけで、そこには胴体はおろか血の一滴たりとも見当たらない。悠々と空を旋回した蝙蝠は間合いの届かない高みに昇って存在しない胸を撫で下ろす。
「殺すと決めて、急所を狙う覚悟を決めて、それでも出来れば残酷に見えない位置を狙ってしまう。ちょっとした選択で千載一遇のチャンスを無駄にしちまったなあ?」
丸金は布引の背から伸び上がって目を見張る。
「な、なんで……!?」
風通しの良くなった服が蝙蝠の全貌を露わにする。
そこには人肌も肉も内臓も存在しない。代わりに胸を埋め尽くしているのは真っ黒な骨だった。
「戦略を練るのに一段しか組まないのは馬鹿か子供のやる事だ」
骨が動いてパズルの様に組み変わり、中身を伴わない空洞の骨組みが元の形を再現していく。あたかも翼と引き換えに出していたようにみせていた足先まで。
そして服を被れば人間と何も変わらない姿の出来上がりというわけだ。
肉の指がコメカミを叩く。
「本物の化け物に混じって凡人が殺戮に励むにはこういう仕込みが欠かせんのよ」
村上が空に唾を吐く。
「飛べる程度でワンサイドゲームを気取ってる小細工しかできねえバグり野郎が、タネを明かせばくだらねえ手札で勝ち組気取ってんじゃねえぞ」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってか?」
「はっ」
仲前が中指を立てて煽り立てる。
「そんな洒落たもんかよ。化けの皮を剥がされて玉が無えのを世間に晒す恥知らずが」
「酷ぇなあ。お姫様の年齢を考慮した上で変形したのに。なんならナニはどんな仕様か確認するか?」
「ねえ」
布引が底冷えのする目で蝙蝠を見上げて口を挟む。
「恥の上塗りって言葉知ってる?」
「そんなものを気にしてる奴が恥ずかしげもなく化け物ごっこやってるわけがないんだよなあ」
蝙蝠が翼の動きを変える。
「さぁて、答え合せはここまでだ。思いがけず服の中まで暴かれてしまったし、腕は実体なもんで非常に痛い。もう用意していたお題目も出尽くしたところでキリも良いから、今回はこちらの敗走としておこうか」
「なに勝手に投了しようとしてやがんだ」
仲前が装甲車に積まれていた銃火器を村上に投げよこす。村上は網を手放し、つかんだ武器へ流れるように装弾して、二人は同時に蝙蝠へと銃口を向ける。
「こっちの用事は終わってねえんだよ」
「遠慮せずにここで死んでけクソ野郎」
空の死神は舌を出すと笑いながら旋回する。
「あ」
完全に観客と化していた丸金は、今、誰もここで蝙蝠を止める術が無い事を悟り顔を歪める。
蝙蝠の正体には手が届いた。それでも心の中を掻き回されて、身を削られて、離散させられた痛手には釣り合わない。
喉から針を流し込まれて肺を満たされる感覚に、もがいて抗って両手を必死に伸ばして呻きを上げる。
それでは何もつかめやしない。
だから村上は銃の底と片膝を地面について明確な目的を持って片手を伸ばす。
「布引ちゃん降りて来い、マルを寄越せ!」
たわんだ網が開脚で張り詰められて一閃の元に足場が割れる。
覚悟のない浮遊感、声も上げれず落ちた先で強い手に引き寄せられて胸板に突っ込んだ。目を回した丸金は落ち着く間もなく後ろから誘導されて銃を握る。
耳元で囁かれるのはいつだって前に進むための道。
「両眼を閉じて目札を複数発動させろ」
複数同時に札を使った事はない。そもそも手元に札が無い。それでも冷たい銃の感触と熱い掌に挟まれて迷わず目を瞑って力を込める。すると丸金の掌に熱が集まり、銃口からは青い炎が噴き出した。
目蓋の裏に青い光が灯る。
「よぉく覚えとけ、マル。これが、何事も三段構えで策を練るっつう事だ!」
引き金を引いた村上は蝙蝠を中心に五発の弾を全て外して撃ち込んだ。擦りもしない不自然な弾を警戒する蝙蝠の背後で札を使った時のように青い光が虚空をなぞる。
その軌跡は丸金のよく知る陰陽道の初等術。
蝙蝠が背後を振り返った時には光が消えて、目を瞑った丸金は体を震わせ慌てて顔を覆い隠す。
見た目には何も変わらない。
地上に視線を向けた蝙蝠はしばし考える様子を見せてから、軽薄に手を振って建物の間へと滑空する。丸金は声を上げて目隠しのまま村上の膝の上に尻餅をついた。
「これって」
「まだ目を開けるんじゃねえぞ。最後の仕上げだ。奴の首を鎖で繋ぐ」
村上が瓶を取り出して目を覆う手を退けて丸金の左瞼に何かを描く。
生温い感触の裏で丸金の目に映っているのは暗闇ではなく上から見下ろす町だった。目札では考えられない速度で空を飛ぶ視点、地面や建物に差す翼を持つ人影、目の前で放り捨てられる見覚えのある厳ついハサミ。
これは蝙蝠の見ている景色だ。
「もう先手は打たせねえ」
丸金につけられたのは目札の紋様。右目を親指に押し上げられて見えた視界にはいつもの嗜虐的な笑みがあった。
布引が耳に手を当てて気配を探る。
「遠のいてるみたいだけれど道がこれだと追撃できないね。丸金に何をさせたの?」
「奴が知りようのない陰陽術でGPSを貼り付けてやったんだ。存在すら知らない不思議な力じゃ何をされたかも分かりゃしねえ。今度はこっちが嵌める番だ。あの舐め腐ってるニヤけ面したドタマをかち割りにいってやる」
望月が腹を押さえながら足を引きずって戻ってくる。
「無事で何よりだが、どうして村上君が陰陽術を」
「本だけ与えて独学できるご主人様じゃないんだ。悠長に読み聞かせるより自分が理解してから噛み砕く方が手っ取り早い。マルの持ってる教科書程度なら全部頭に叩き込んである」
「そこでテメェも使えるようになってる意味が分からねえんだよ」
村上は取り出した眼帯で丸金の片目が開かないように封じ込める。左右でまったく違う光景が映し出される違和感を三半規管は受け付けられず目眩を起こす。吐き気を伴う酔いに浮かされながら立ち上がると、村上にコメカミを叩かれた。
「ちゃんと術は機能してるのか?」
「……はい」
村上を真っ直ぐ見れずに丸金はうつむいて胸元の服を握り締める。
生きていた。
嬉しいはずなのに顔が見れない。
脇腹に滲んでいる赤い汚れは蝙蝠が嘘をついていなかったという証拠。村上はおそらく背後から刺されて重傷のまま戦場に飛び込んできた。単独でこの化け物の町を生き延びながら蝙蝠に一矢報いる計略まで用意して。
蝙蝠に翻弄されていただけの丸金は一体何を為せたのか。泣き喚いて子守の苦労を増やしただけだ。手を引かれて、お膳立てされて、ギリギリのところで気づくことができた。
お姫様。
蝙蝠の残した毒が少しずつ重みを増して自己嫌悪感に悔いを打つ。役立たずの愛玩動物。人を殺す足手まとい。
謝らねば。そう思うのにごめんなさいしか言葉を知らない。望月に口先だけでは受け入れ難いと言われてしまったばかりなのに。
布引が不満を滲ませる。
「ねえ待って。つまり蝙蝠退治は仕切り直しってことかな」
「今から追撃しても逆にこっちが不利だろう」
「煩わしい。……やっぱり昨日の内に屋内で仕留めてしまえば良かった」
仲前が舌打ちする。
「煩えな。徹夜で限界だったくせに全員が最悪のコンディションで死神戦なんざ冗談じゃねえんだよ。蝙蝠の用意した巣穴で寝首かくのに失敗してみろ。重傷者とコブ付きでどうやって攻防する気か言ってみろ、脳みそ筋肉」
「蓮君が途中で目を離したりするから丸金が蝙蝠と接触していたんだけどな」
「劇的に間の悪いうろちょろ丸が、というか子守の担当はそっちじゃねえか!」
仲前は銃口を下ろして布引の額を突いて責め立てる。
「そういや、てんめぇ弾切れした時になんで離脱せずに観戦続行してやがった!? 協調性という概念を知らんのか!」
「だって丸金も嫌がってたし、わざわざ蓮君に死んでもらわなくても反撃の糸口が何処かにあるんじゃないのかなあって、なんとなく」
「女の勘で済ますんじゃねえよ! 作戦遵守の大切さというものを穴という穴にねじ込んだろか!?」
無茶な連戦続きの望月が遂に地面へ膝をつく。息も絶え絶えになりながら望月は会話の意味を理解して顔を引きつらせて声をあげる。
「作戦、だと……?」
布引と仲前は望月を一度見下ろして、二人揃って明後日の方へと顔を背ける。
「あぁ、えーっとぉ。なんと言うか気分の良い話じゃないんだけれど」
話しにくそうに言い淀む布引に、致し方なく仲前が説明する。
「合流した時点で蝙蝠がこちらに接触を図ってくる可能性は頭にあった。自分の複製品がうろちょろしてんだ。自我を残しているなら探りにくるわな」
それは村上かもしれないし、蝙蝠かもしれない。正体を暴けば何か仕掛けてくる確信があったし、何かしなくても嵌められる。変則的に動く蝙蝠に限られた弾数で対抗しても勝ち目はない。
銃火器を持たない仲前、重傷の望月、この状況で蝙蝠から逃げ切れる可能性があるのは布引だけだ。
「蝙蝠を仕留められなきゃ、こいつらだけでも逃すつもりで一芝居打ってたわけだ」
望月は脱力して額を地面につける。
「君達は、そんな大事な話を自分には知らせず」
「いざとなったらお前のこと切り捨てるからなんて宣言するわけねえだろ」
「自己犠牲の化身みたいな望月ちゃんなら喜んで犠牲になったと思うけど、敵を騙すには味方からってのは古来からの格言だからな」
村上は立ち上がって銃を肩に置く。
「俺は馬鹿正直な布引ちゃんにそんな腹芸ができた事に驚いたがね」
「大人の勝手で振り回される子供達を守ろうと思ったら、腹芸くらいは覚えるさ」
低い評価に自嘲しながら、布引は「でも」と続けて丸金の方を向く。
蝙蝠に一矢報いた上に退ける事に成功までしたというのに少女の顔は沈んだままで、聞きたい事がたくさんあるはずなのに唇を噛んで黙り込んでいる。
布引が膝をつくと少女の視線はかろうじて彼女に向いた。
「でも金輪際、不安にさせるような戦略はとらないよ。辛い思いをさせてごめんね、丸金」
困った顔で腕を広げて許しを乞う。
「私と仲直りしてくれる?」
丸金は目を見張る。
「違う……」
気づけなくても仕方ない。望月だって騙された。
「だって、酷いことを言ったのは」
病んでしまったシザーの顔がチラついて、聖の存在が違和感を掻き消して、それでも信じられるほど布引を知っているわけじゃない。
「謝らなきゃ、ごめんなさいって、言わなきゃ、いけない、のは」
「最後は信じてくれたじゃないか!」
そんな丸金の為に心を砕き続けているのも布引だ。
「ふ、うぅ……」
言葉が消えた丸金は震える両手を持ち上げて号泣しながら布引の胸に飛び込んだ。布引も縋り付いた少女を包み込んで愛しげに頬を寄せる。
この胸はとても暖かい。
シザーと何も変わらないはずなのに、背中と頭に感じられる温もりがまったく違うと知らしめる。
おそらく聖が狂おしいほどに追い求めているはずのもの。
少し落ち着きはしたものの、いつまでもグズつく丸金を布引は寝かしつける勢いであやし続ける。
そこに村上が待ったをかけた。
「泣きべそかくのに忙しそうなとこ申し訳ありませんけど、感動の仲直りはそろそろ終了してくれやしませんかねえ。俺はせっかく成功した術が涙で消えたりしていないか、そろそろ気になって仕方ないんだが?」
「ギニャッ!?」
村上の声で丸金がおかしなムセかたをしてピタリと息を潜める。硬直した丸金を訝しんで「マル?」と呼びかけても顔を上げようとすらしない。村上の眉間にシワが寄る。
「おい、おいまさか布引ちゃんの胸に顔を擦り付けて術が解けたんじゃねえだろうなあ」
「術は、問題、ない、の、で」
涙が引っ込んだ丸金は布引の胸の上で激しく目を泳がせる。術はしっかり機能して丸金の網膜には別の景色が映し出されたままでいる。
問題はそこではない。
蝙蝠が嫌悪を露わにした丸金の欠点を、今、網羅するように大公開してしまった。
村上に初めて会った時、彼が子供の扱いに困っていたのを重ねて思い出してしまう。蝙蝠は村上だ。彼は大人だから目的の為なら嫌なものでも上手く付き合おうとするだろう。
村上の顔が更に不審に染まっていく。
「だったらどうしてマルは顔をあげることができないんでしょーか?」
「そんな風に棘のある言い方するからじゃないか」
布引が庇うのをマズイと感じて錆びついた首を断腸の思いで捻じり上げる。村上は腕を組んで真上から笑顔で丸金に詰問する。
「意味がわからん。せっかく蝙蝠の短い尻尾を捕まえられたはずなのに、どうしてこのご主人様はプルついているのかなあ? 正確かつ正直に全部吐け。俺が貧血で倒れる前にだ」
平然としているが、村上も限界が近いらしい。
丸金は萎れながら蝙蝠との会話をボソボソと報告する。聞くに徹する村上の圧力は頭上で少しずつ重みを増して、丸金の頭は地面と話しているかのような傾き具合となっている。
「そこで蝙蝠が子供は嫌いと言っていたので……」
「いたので?」
ゆっくりと復唱されて震えながら一歩だけ後退り、自然と片手が布引を探し、すぐに片手が保護された。
「村上さんも本当は私が嫌い……」
重い溜め息が吐き出される。
ビクビクとする丸金に、珍しく口を痙攣らせた村上は天を仰ぎながら言い聞かせる。
「そういうものは関係性でいくらでも話が変わるだろうが。俺にとっての丸金は育てるべきご主人様で、蝙蝠にとっては単なるオモチャの付属品。俺とアレは思考回路の分岐している別個体だから、あっちの発言をいちいち俺に当て嵌めてくるんじゃない」
理屈としてはそうなのだが、不安とは勝手に膨らんでいく無意識だ。眉間にはシワが寄りまた目尻に涙が溜まる。
自己嫌悪に蝕まれた先にあるモノを知りながら。
村上の掌が小さな頭の上に乗る。
「あっそう、俺よりあっちを信じるわけ」
指が頭に食い込んだ。
「あがいな蝙蝠と忠実なる下僕のどっちが正しいかも分かりよらんち情けない! 違うゆうたらハイじゃろがあ! 死に体引きずって武器と車確保して駆けつけとんのに、こん頭ぁどがーして納得できんとじゃ!? あ? ゆうてみぃ!!」
「ああああ!? ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさあああああ!!」
「村上さんと蝙蝠はぁ!?」
「別個体ですううううう!!」
ギリギリと頭を締め付けられて調教される間延びした悲鳴に、向こう側に残っている殺戮者が反応して遠吠えをあげる。
丸金の手が離れた布引は顔に手を添えて吐息を漏らす。
「海舟君は広島の人か」
「アホくさ」
騒がしく緩んだ空気の中、蹲っていた望月が深く息を吐きながら苦しそうに起き上がってきた。そこから目を瞑ったまま険しい顔で動かない望月に、仲前がおざなりに体調を確認する。
「おい、静かに死にかけてんじゃねえだろうな。気絶するなら車に乗ってからにしろよ。そのガタイを運ぶなんて冗談じゃねえからな」
「頑丈が取り柄だ。今しばらくは耐えられる。だが、少々まずいことになったな」
丸金の悲鳴と、村上の怒鳴り声と、布引の声援を聴きながら、仲前はバリケードの方角に目を向ける。
「基地から乗ってきた車を使っていたのが村上君で、これが単なる罠だったなら」
ここまで連れてきた蝙蝠の謳い文句であった目的の人は。
「一体、荒妻君は何処に消えてしまったんだ?」




