疑心暗鬼
マンホールの蓋が酷い音をたてて地面に落ちた。躊躇なく下水に消えた聖は何度呼んでも応答しない。泣いても涙が黒く塗り潰された穴に落ちていくだけで。
「あーあ。逃げられちまったか。粋のいいコバンザメだ。ガソリンでもまいて火で炙り出してやろうか。上手くいけばメタンガスとのハメ技で焼き殺せるかもしんねえな」
頭上から軽薄な村上の声が降る。
「殺さないで。違うんです。殺しちゃ駄目……」
泣きじゃくる丸金の後頭部に掌が被せられる。丸金は覗き込んだ穴に落ちかけて、慌てて下水管の横に手をついて村上を振り仰いだ。下水管を挟んだ正面に村上がしゃがんで視線を合わせて微笑んだ。
「何が違うって? 泣いてたって伝わらないからグズグス話さず現状まとめて説明してくんない。久しぶりの再会なんだから」
トゲのある声色に威圧されて視線が下がり首も縮む。村上は今までどうしていたのか小ざっぱりとした服装で、身綺麗で、汚れて疲労しきった布引や仲前と合流していたようには見受けられなかった。散らばっていた味方が騒ぎでもってようやく集まりつつある。
丸金は地下鉄スラムでタイタンに襲撃され、勝手な行動で離脱してからの数奇な経緯を村上に報告した。辿々しい丸金の話に質問を交えながら村上は相槌を打つ。
仲前はシザーが立ち去ると曲がり角で背中を向けたままタバコを吸いだした。泣き崩れた布引に付き合ってのことだが、理由の分からない丸金はまだ会話の漏れない距離にいるのを確認すると意を決して問いかける。
「それで、あの、なんとかシザーを、こ、殺さずにすむ方法を知りたいんです」
村上が首を傾げる。
「あのバーサーカーを殺さず無力化しろって?」
「このままじゃ、聖さんと敵対する事になると思うんです。それにシザーが死んだら聖さんも変貌してしまうかもって。あの、む、昔の人は妖怪がいても普通に暮らしてたんです。だから、暴れる条件が限定されてるシザーなら、何か、殺さなくても良い方法があるんじゃないかって、思った、ので」
「へー」
気のない返事に丸金の胸が泡立つ。
「布引さんと聖さんが戦うなんて無理だと思うし、そんなの、きっと、あの……」
「思うからどうしたって?」
思っただけだ。
一寸先は闇とばかりに名案どころか愚作すら浮かばなかった。
だから選択肢を欲しがった。
知恵も経験も劣る丸金にどれだけの道が存在するか示してくれる公平な大人を。
正解がどこにあるのか知るために。
「あの、私、どうすれば良いですか?」
村上は膝に肘杖をついて頭を傾けて、噛み締めるように返答した。
「事前にこうなると予測していたにも関わらず、お前は釈明する機会を不意にした。それをチャラにする方法をこちらに考えろと言うわけだな」
「え……?」
「そりゃ焦るか。降って湧いた大問題だ。対立すれば先生が誰の味方をするかは明らかだもんなあ。なにせ、あっちの方が先生との付き合いは長いんだ。お前はきっと裏切られるよ。そこをなんと幸運にも聖さんの方から拒絶してくれたわけだ。仲違いしてくれた時はさぞ嬉しかっただろ」
「そ、そんなこと」
「嘘をつくことはないだろう。最適解が知りたいんだったな。いいぜ。そういう時は目的を整理してみよう。さぁ、答えてくれ。お前は俺達を何のために用意したのか」
人の道を踏み外してまで村上達を戦場に引きずりだした理由。
「死神に唯一対抗できる可能性がある人を味方につけるため。死神のせいで不幸になる人を減らすため」
満足そうに村上は頷いた。
「だったら何も迷うことはないだろ」
迷いなく断言する頼り甲斐のある大人に丸金は目を輝かせる。
「邪魔な奴は殺せ」
笑顔で丸金の手にナイフが与えられる。刃と柄の折りたためない単純な造りをした凶器は子供の手にも軽い。言葉の意味を理解するより先に恐怖で反射的に取り落としかける。
「あんなにも大勢殺した死神を庇って隠すつもりだって? それは道徳的に問題だ。なあ、そういう行動は隠匿罪といって法律が機能していれば立派な犯罪者なんだぜ。さっきから助けたがっている聖さんがやっているのも殺戮幇助。立派なサイコパスの一人だよな」
「……殺す?」
これは期待していた答えではない。
「あの女はこれからも大勢殺すだろう。被害者と哀れな少年を天秤にかければ明白。使命を投げ出すのは無責任だろう救世主」
想像よりもずっと酷い答えだ。
「いいか、問題は三点セットだ。先生は生徒に危害が及ぶなら死神殺しに協力しない、先生は戦力で障害は生徒、先生は何より生徒優先。なあに、この軸を崩す難易度はそう高くない。標的はお前に気を許していそうだから人気の無い所に誘い込んで隙をついて腹を刺せ。低い位置からナイフはこうやって隠しながら下腹の、ほら、この辺りを狙えば力もいらない」
柔らかな横腹に指を無遠慮に突き立てられ丸金の声が擦れる。
「待って、ください。何も、聖さんは、殺さなくたって」
村上が貼り付けていた笑みを消して低い声で吐き捨てる。
「だから子供は嫌いなんだ。気持ちを察してあれこれ都合良く大人がなんでもそろえて当たり前だと思ってる」
「そんなつもりは!?」
「あっそう。じゃあ、なんのつもりだったの、お姫様」
言葉を失う丸金の頬を冷たい手が叩く。
「答えを教えてやっても結局のところ実行できやしない。そんなつもりじゃない。違う違う。それしか言わない。でも何も違いやしない」
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私、ただ、だって……」
今までとは違う村上の厳しい態度に混乱して泣きながら首を振り続ける。
それでも村上は容赦なく額を寄せて三下り半を突きつけた。
「何もできないなら愛玩動物らしく出しゃばるな。お前さんに出来ることが何か一つでもあるなんて甘い夢でも見てたのか?」
目眩を起こした丸金の体がよろめいた。
「ねえ」
その体が背後から柔らかく包み込まれて村上の顔面が鷲掴みにされ遠くへと押しやられる。
「私の丸金を虐めないで。イライラしてるならぶつける相手が違うでしょ」
布引は小さな体を全身で包み込む。シザーと同じ死臭がするのに強く当たるその手は痺れるくらいに暖かい。
「どうして言いつけを破って危ないことをしたの。私は生きた心地がしなかったよ。本当に、本当に無事で良かった!」
頭に頬を寄せて浮かされたように何度も丸金の名前を繰り返す。邪険に扱われた村上は肩を上げて、後ろから歩いてきた仲前はタバコを捨てて仁王立ちになる。
「おい、叱るんじゃなかったのかよ」
丸金は言葉を失ったまま身を預けてされるがままとなる。
初めて会った日、死神退治の見返りには身を滅ぼしても報いようと誓いをたてた。そして布引に報いようとするならそこには必ず聖がいなくてはならない。死神退治という前提に相反してしまう。
正解に固執する丸金の前に用意された正解と矛盾してしまう。
仲前は存在の一切に触れていなかった村上に視線を向ける。伸び上がりながら大きな欠伸を漏らす村上の不遜な態度で仲前の眉間に深く皺が刻まれる。
「それで、見張り役を買って出たくせに糞の役にも立たなかったてめぇは何処に雲隠れしてやがったんだ」
「お仕事してましたよ。突如現れたタイタンを止めに向かったら、地下鉄の入口で蝙蝠に奇襲かけられて背後からRPGぶち込まれた挙句に階段で瓦礫に埋まって死にかけてただけで」
「それはまた御大層な死闘を繰り広げたようで。こ綺麗な見なりからは想像もできなかったわ」
「プロパン探して、風呂に入って、贅沢な一軒家で廃墟バカンス。有意義なリフレッシュ休暇だったぜ。ワインセラー付きだったしな」
「一回本気でぶち殺してやろうか」
険悪な空気だが、なにはともあれ大人達と合流できた。思いがけない出会いと別れで傷を残す結果となったが、これで進退窮まる状況から抜け出す目処がつくだろう。
「待って」
布引がマンホールを拾って丸金を抱き上げる。
「何か近づいて来てる」
アスファルトを削るような不規則で不安定な音が布引以外の耳にも届く。
仲前と村上は素早く小銃を構える。
「これだから徒歩は嫌いなんだ」
「そんじゃ、タクシーでも拾ってこようか?」
「ほざいてろ」
丸金はノートを取り出して空から偵察しようと急いで札を探し出す。大人達も前後の道を警戒して正確な音の出所に耳を澄ませる。
「何処だあああ!!」
町中に響かんばかりのヒビ割れた肉声が空気を震わせた。少しずつ近づいてくる不気味な音に全員の表情が微妙なものに変化する。
「いい加減に観念して出てきなさい! 子供だけで出歩くなと何度言ったら従うんだ!! ゲンコツをくらいたいのか!?」
目の前の道にへし折られたらしき標識を杖代わりにした望月が横切りかける。半死半生の相貌に鬼気迫る怒りを湛えながら。
通り過ぎかけたところで複数の気配に気付いた望月は黙って呼吸を繰り返し、口を開きかけたのだが白眼を剥きながら昏倒してしまった。
布引に抱えられたまま丸金が慌てふためく中、村上は死に体の望月を珍獣でも観察するように覗き込んで眉根を寄せて爪先でつつく。
「この人、変貌する前から人間辞め過ぎじゃない?」
踊りくねる様に歪んで肉片のついた標識は道中でいくつか戦闘に使われた形跡があった。望月から少し遅れて倒れた酷使されたであろう標識からはアルミ板がはずれ、人知れず儚く地面へ倒れた。
周辺に何も憑いていない家を選んで腰を落ち着ける。重症度の高い望月は一般家庭にある物だけで応急処置を施された。肉は裂け、血の気もなく、火膨れて、常人ならば昏睡か手遅れだ。
しかし人間から逸脱した不死身の男は死の床ではなくソファで渋面を作っている。
「今後について話し合うのだろう。布引君と菅原君は何処にいるんだ」
「逆にてめえは何普通に参加してんだ」
「問題が山積みの今、自分がいつまでも寝ているわけにはいかない」
この凄まじい生命力は裏を返せばタイタンの耐久性能だ。仲前は「逆にくたばれば少しは希望が見えたのに」と毒づいた。タイタンは確実に破壊活動を再開させるだろう。
リビングでタバコの煙がリング状に吐き出される。
「大戯け丸とシザーには許可するまで二階から降りてこないよう言ってある。連中には戦力外通知を出した。今後は一切情報も与えない」
台所で酒を漁っていた村上が首を傾げる。
「へー。お姫様はともかくとして、あえて強力な戦闘要員を切り捨てるその心は?」
「あの女は限界だ。もうひと押しで変貌しかねない」
「待て」
望月が体を前に傾けて目を細める。
「ではこれから彼女をどう扱うつもりなんだ。処分するなんて話なら認められんぞ」
村上は生温い缶ビールを開けて乾いて埃の積もった調理台の上に座って足を組む。
「ちょうどいい具合にベビーシッター募集中なんだろ。物騒な方向にもっていかなくてもお姫様には護衛の侍女ってことで一纏めってのが無難なとこっしょ」
「位置づけとしてはそんなところでいい。現状で独断処分まで踏み切るつもりはないからな」
顕現された使鬼の中で最初の脱落者だ。
「彼女は凄惨な遺体への耐性がなく頻繁に吐いていたから真っ先に潰れるのは目に見えていただろう。それが許されるなら初めから配慮してやれなかったのか」
なんでもない顔をして丸金の目を覆って笑っている。削り取られていく身を顧みずに先陣を切って、痛みも恐怖も握りつぶして。
「俺はてめえらの事は誰一人として信用しない。死神として一度は変貌した奴らだ。状況が違ったところでいずれはどいつもシザーみたいに導火線に火のつく使い捨ての道具じゃねえか。それでも強力な対死神兵器には違いねえんだから限界を見極めて使ってく。道徳だとか良心なんて糞食らえなんだよ」
静かに怒りをたたえて望月が立ち上がる。
一気にビールを煽った村上は望月の傍にあるゴミ箱に缶を投げ入れた。
「雑談すんなら酒でもどうだ。今後の話なんて明後日にでも話せばいいもんなあ」
大きく息を吸って望月がソファに座り直す。
「どうして君達はそう嫌味な言い方しかできないんだ」
「育ちの悪さは一級品くらいの捻りが欲しいな。それでどうするか決まってんの遊撃隊の班長さん。まさか基地まで歩いて撤退か?」
「それでは傷病者の桐島君や民間人の荒妻君を戦場に取り残してしまうことになる。彼らを見捨てる事はできない。桐島君の足では遠くに行く事はできないはずだ。今すぐ地下鉄付近の建物を隈なく捜索に」
「桐島なら死んだ」
望月の口が止まる。顔色を変えずに仲前は村上に話を振る。
「てめえ階段で埋まってたんなら鎌イタチ見てねえのかよ。野郎、脱出先の駅で蝙蝠に待ち伏せされないために追撃するとかほざいて勝手に離脱しといと結局そのまま現れやしねえ」
「あー、それなら」
ゆっくりと望月は顔を歪める。
「言うべき事はそれだけなのか?」
憎悪すら向けられていた監視だった。あまり多弁ではなく、彼自身の事は殆ど何も知らないと言ってもいい。
それでも目的と戦場を同じくした仲間だった。
「言ってあったはずだ。あいつは途中で死ぬ前提で志願してるんだってな。最期までお望み通りだ。変貌もしていなかった。この意味分かるか? 死ぬ瞬間まで絶望しなかったんだよ。それだけでお前らよりは人生まっとうした勝ち組ってわけだ。憐まれる謂れも最期を語るつもりもない。どうしても聞きてえならシザーから聞け。あいつが死体を見つけたんだからな」
壁から飛び出した鉄杭に無理やり手足を打ち付けられて体を吊るされ拷問をされた死体だった。見つけてくれと言わんばかりの広い空間で、惨たらしい傷も、千切れた足も、分かりやすく悪意に満ちていた。
変貌者はこんな事をしない。
悲鳴を上げた布引は丸金の名前を叫びながら一時も休まず駆けずり回った。地下鉄の真上に開いた不気味な穴に尋常ではない血溜まり。そこから続く小さな赤い足跡。全てが恐怖に繋がった。丸金の死を予感して。
顔を覆う望月が沈黙すると、仲前は村上への詰問に戻る。
「それで鎌イタチとは会ったのか、会わなかったのか」
「イライラすんなって。会ったよ。瓦礫の間からにゅるっと出てきた。生き埋めになってた俺が助かったのはこれに便乗したからだよ」
「だったらどうして一緒に行動してねえんだよ」
「足手纏いだってんで置いてかれちゃった。まあ、行き先なら知ってるぜ。途中までで良いならな」
何が正解なのか子供でなくとも見失う。
心こそが変貌の引き金で、それを持ち続ければ魑魅魍魎に魅入られる。
優しさは仇となり、愛情は枷となり、思い出は絶望となる。常識など残っていない。地に足がつかない戦場で自分を保てた者だけが正義になる。
バルコニーで足を投げ出して両目を閉じた丸金は紅い空に紙を投げる。いつも通り空へと舞い上がったノートの切れ端は夕陽に少し透けて、抜け殻と化した町を少女の瞳に映し出す。聖と出会ったあの日の様に。
「まーるがね」
布引が丸金の腰に手を回して後ろから吊り上げる。その光景は両目を手で塞いでいる丸金と相まって泣いている子供を回収したかのようにも見えた。
「何を見ているの?」
「危険が、ないか、周辺を」
目から手を離さない丸金に布引は微笑みかけ、少女を膝に乗せて土埃の上に座る。
「怖いものは何も見えない?」
「周辺には何もいません。でも見落としているかもしれないし、何か現れるかもしれないので見張ります。私は、偵察くらいしか能がないから」
「幻術に顕現術にお手紙配達まで他にも色んな技を持ってるじゃないか。陰陽術なんて私には逆立ちしたって使えない。凄く練習したんだろうね。それは誇っても良いことなんだよ。まんまと大人を出し抜けたことだし」
柔らかな胸に抱きしめられながら少女の体が強張った。
「根本的に私達には信頼関係が足りなかったんだね。丸金が相談できる大人は海舟君で、あの時にはいなかった。そして私は危なくなると有無を言わせず邪魔をしてくる顔色を窺わなければいけない大人だった」
丸金は目を開いて体を捻る。夕陽に照らされた優しい顔に見下ろされていた。布を裂いた包帯に覆われた側頭部は目尻まで色を変えて腫れ上がり、眼鏡の片目はガラスが割れて失くなっている。
「大事なお話をしようか」
体を持ち上げられ膝の上で向かい合わせにされる。
「本当はね、初めて会った時、私は自分が呼ばれた理由を聞いて絶望したんだ。きっと私の愛した人達はみんな死んでしまったんだと。それでもシザーと違って変貌しなかったのは、私を必要としていたのが泣いている小さな女の子だったから。きっと大人だったら構わず変貌してた」
愚直な子供は本来危険であった真実を知らせる瞬間を、背景も知らない初対面で包み隠すことなく無遠慮にぶち撒けてしまった。そして恐ろしい賭けを勝ち抜けた事にも気づかずに、無垢な少女は身を捧げながら助けを求めてくる。
「一生懸命で優しい子。私はすぐに丸金が大好きになった。なのに丸金は危険に無頓着で、なんて危なっかしい子だろうって怖くなった。毎日怖くて仕方なかったんだよ」
優しく髪を撫でて布引は丸金を抱き締める。
「よくも裏切ったな」
低い声で静かに怒りを滲ませる布引に丸金は小さく悲鳴を上げて縮こまる。責める言葉は続かなかった。それでも短い言葉に込められた悲しみを受け止めて丸金は初めて心から後悔した。
「心配かけて、ごめんなさい。嘘をついて、勝手に黙って、いなくなって。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「もう、私を置いて何処にも消えてしまわないで」
愛情深い人なのだと聖の話からもよく分かった。与えられる価値は無いと手を振り払っても助けに来てくれた人だ。血の繋がりもない子供達のために我を失い変貌までしたのがシザーなら、これは最もしてはならない仕打ちだった。傷を抉ったに等しい。
丸金は身を捩って痛々しい彼女の頭に手を伸ばす。
「痛く、ないですか?」
「平気だよ。これは聖が生きていた証拠だから。むしろ、痺れるくらい心地いいよ」
心の底からそう感じているようで目を細めて顔を綻ばせる。
「ねえ、丸金。聖とはどんな話をしたの? 食べ物に困っていたり怪我をしている様子はなかった? 他に誰かと一緒に行動しているとは言っていなかった?」
語られた過去を思い返す。
これは、聞きかじっただけの他人の口から伝えるべきではない話。
丸金は聖との出会いからを詳細に思い出す。
白い人影。
髪人形。
なゐの神。
シザー。
河童。
何気ない雑談で今の様子が分かるものを選んで、こんな話をした、あんな体験をしたと、本当に強く逞しく生き残っている事を全力で伝えきった。
布引は嬉しそうに、時々心配そうにしながら聞いていた。
聖はどう考えても根無し草だ。頼る相手は戦闘でしか自律しない変貌者。話す相手も目を合わせる他人もいない。その聖が唯一支えにしている先生を布引自身に奪わせる事は正しくない。だからといってシザーを見逃せばこれからも大勢人を殺すだろう。
何が正しくて、何が間違いかはもう聞いてしまった。
丸金のすべき事はただ一つ。
死神を殺し、少しでも多くの人を絶望から遠ざけて世界平和に貢献する。その為に禁忌に背いた。この為に身を捧げると誓いを立てた。
丸金はうつむいて涙を零す。布引は涙を拭って「どうしたの?」と優しく問いかけた。
「……間違いでも良いです」
正解を示されたのに、どうしても選べない。
「シザーが死んで聖さんが絶望するなら、殺さなくて良いです」
布引と聖を犠牲にした先に求める平和があるとしても、そこが二人にとって地獄になるなら間違いでも構わない。
「出来ません……」
眉尻を下げた布引は啜り泣く丸金の頬を包んで苦笑する。
「死神退治の為に頑張って戦っていたんでしょう。本当にシザーを見逃してしまって構わないの?」
ぎこちなく丸金は頷いた。
自分を生かす理由の根幹でもある使命を一部であろうと放棄する。贖罪はまっとうしきれない。それだけが救いだった。未来だった。
それでも、この目の前にある首を絞める事は選べない。
布引は丸金の頭に頬を寄せて愛おしむ。
「私は聖を犠牲にしない」
「はい……」
「でもあのままシザーに囚われて生きていくなんて健全じゃない」
返す言葉を見つけられない丸金に、布引はいつもの力強さで明るく言い放った。
「大丈夫、あの子の事なら親よりも知ってるよ。昔から聖を迎えに行くのは私の役目なんだ。何処に隠れようが地の果てにいたって必ず捕まえて力づくでも人間側に引きずり戻すよ」
行き場に迷っていた手が布引の服を握り締める。丸金は声を上げて泣き出した。布引に抱きすくめられて埋もれた声はくぐもってしまい下の男達までは届かないだろう。
「丸金」
布引は柔らかな声とは逆に表情を決意で固く引き締めた。
「ありがとう、私を使鬼に選んでくれて」
闇の中に太陽が沈んでいく。




