少年と死神
向かい合う人間の少年と死神のシザー。満面の笑顔で聖はシザーの顎を持ち上げる。
「こんなとこで引っかかってたのか。全然助けに来ないから基地まで行っちまったんじゃないかって焦ったんだぞ。でも安心した。やっぱりちゃんと向かっては来てたんだな」
死神は無表情のまま細身の鉈を聖めがけて振りかぶる。丸金は抱えられた位置から精一杯腕を伸ばす。
「止めてえ!!」
巨大な刃が風を切り肉にえぐり込む音がする。指先に触れたのは鉈の表面、血油でベタついた感触が指の腹に絡みついた。鉈は聖の首に触れる直前で動きを止めていた。身動き一つしない少年に動揺は一切ない。
「ぐ、げげ」
シザーの刃は聖の背後にいる殺戮者の首だけに半分斬り込んでいた。まだ息のある殺戮者が甲殻類じみた脚を聖の両脇に広げると、聖の肩越しに腕を押し込んで最後まで首を斬り落とした。
片腕で抱きしめられるような体勢になった聖は片腕をシザーの背に回して抱き返す。
「あーあー、轟先生どこもかしこもグチョグチョじゃん。先生用の腕を通さずに着れそうな服って探すの大変なんだかんな。手に入らなかったら最終手段はビキニ着せるからな、ビキニ」
どこを見ているのか分からない視線は聖を素通りして、周りにいる殺戮者に向けられる。屋内からも人体からは程遠く変貌した化け物達が這い出して数を増やしていく。
「ひ、聖さん」
シザーを解放した聖はようやく丸金に視線を向ける。
「心配すんな菅原丸。何が襲ってきても、どんだけ集まってきても、先生がいればそこが安全地帯だ」
現れた殺戮者の口から石つぶてが飛ばされるが、シザーの両鉈がそれら全てを弾き砕いて無力化させた。死神の刃は殺意を捨て去った聖の皮膚にかすりもしない。
「轟先生は飛んでくる弾丸だって正確に斬れる。間違っても俺達を斬ることなんて有り得ない。あいつらを打ち漏らしたりも絶対しない。だから先生といる時は間違っても自分で倒そうなんて一ミリも考えるな」
人間に引き寄せられた殺戮者達に向かってシザーが距離を詰め始める。
一方的な殺戮だった。どんな殺戮者も聖と丸金には指の一本すら触れられない。そこに居た全ての殺意ある者が尽く骸と化した。
大型の殺戮者が塀を崩しながら現れる。飛んでくる瓦礫をシザーは全て叩き落として一足飛びで体の肩から腹まで袈裟斬りにする。巨体を横に蹴り倒して派手な血飛沫で周囲に赤い雨を撒き散らせば、四つ足の殺戮者は長い手足で屋根に登って逃げだした。
最後に残ったのは人を潰して丸めた様な肉団子だ。歪な球体がシザーを敵とみなして触手で上下左右の全周囲を取り囲んだ。いくつもの節で曲がる全ての触手の先についているのは黒く変質した人間の爪。
触手が一斉にシザーへと襲いかかるとシザーは肉団子へ向かって駆け出した。細鉈が指揮棒を振るように触手を刻み落とし、大きく踏み込んだ一歩で分厚い鉈が肉団子を貫く。
裂けた球体と伸びていた触手は脱力してアスファルトで醜くひしゃげる。
無表情な死神の眼球は逃げる殺戮者にも見向きしなかった。塀に隠れて覗く鬼面の赤ら顔、屋根にへばりついて伏せる肉毛布、電柱に留まる人面を貼り付けた様な猛禽類、あの殺戮者達には力の差を理解するだけの知能がある。シザーが大鉈を持ち上げる気力が失せたとばかりに両腕を地面に垂らし背中を丸めて項垂れると、不気味な魑魅魍魎は物陰へと姿を消していった。
抱えられたままだった丸金は聖の隣に降ろされる。酷い状況で目眩のする頭に音を立てて掌を乗せられた丸金の体が大きく跳ねる。
「見て見て先生、町で困ってるチビ助拾ってきた。強い保護者もいるんだけど怪我で立ち往生してたから助けてやりたいんだ。ほら、こいつがその菅原丸。なかなか良い名前だろ。九歳だからカズの同級生だな」
呼びかけられてもシザーは微かな反応も返さない。聖は構わずシザーに近寄り二の腕をつかむと無造作に死神を引っ張った。するとシザーは抵抗もなく力の加えられた方へと歩き出した。大鉈がアスファルトを削る不気味な音をたてながら線を引いていく。
目の前に立ったシザーはドス黒く乾いた血を何重にも浴びていた。基地で観た面影すらない。服装も違う。髪型も違う。この無気力な様子では身繕いをするタイプではないだろう。
聖は嬉しそうに殺戮者を紹介する。
「そんでもってこれが俺の先生」
まさか死神に人間の同行者がいたなど夢にも思わず呻き声すら上手く出せない。
「布引轟だ」
殺しがご法度。
シザーのそばにいるためなら必然的にそうなるだろう。聖の語る主義主張はこじつけだ。殺意を放つ全てのものを殺し尽くす死神だから殺意を捨てねば共存できなかったのだ。
「仲間を探したい菅原丸には悪いけど血塗れの轟先生が一緒だと警戒されちまうし、ちょっと身支度してから出直そうぜ」
酷い顔で呆然と見上げる丸金に変わらぬ態度で話が進められる。
探していた標的。殺すべき死神。だからといって決死の覚悟で丸金が立ち向かって勝てる相手じゃない。聖は当然シザーの味方をするだろう。丸金の目的を知れば迷わず置き去りにして逃亡するかもしれない。このまま連れ帰れば望月がどうなるかは未知数だ。
上手く繋ぎ止めて荒妻達と合流すれば勝ち目はあるだろう。このままいけば自然な流れでそうなる。望月とは会わせなければ良い。自我は元より保身のないシザーは戦況を判断して逃走もしない。聖とシザーを引き離し、複数でシザーと戦闘に持ち込めば安全に決着させられる。死神を討伐できる。
恩を仇で返して。
聖の話を振り返ってみればどこもかしこも先生の話ばかりだった。丸金の目的を明かせるわけがない。
二人の背中を直視できない。アスファルトには真っ赤な足跡、背後には死骸の異臭、廃屋の中には物の怪が潜む。
「あのなあ、轟先生がいなくなったりするから今回結構大変だったんだぜ。地面の大顔、増えるくねくね、髪が伸びる人形の奇々怪界三連発!」
少し離れた場所から振り返らずに話を振られる。
「なあ、菅原丸。轟先生ってこう見えて怖い話とスプラッタが大の苦手なんだぜ。平気なフリで隠してたけどチビ助まで知ってる公然の秘密でさ、肝試なんかで意地悪したらプルプル半泣きで笑えんの。しばらくトイレも風呂も一人でいけなくて世話する名目でチビ助いっぱい引き連れたりでさ」
誰からも返事がないのに聖は心底楽しそうに喋り続ける。丸金の様子を訝しむでもなく、返事を促すでもなく。
今は歩くしかない。
赤い足跡を選んで進むしか。
川に辿り着くと聖は荷物を放り出して服を脱ぎ始める。
「菅原丸は荷物番な」
トランクス一枚で川の中へとシザーを引き込んで行く聖は膝がつかる深さまで来ると、シザーの肩に手をかけて思い切り良く服を剥ぎ取ってしまった。
「えええっ!?」
思わず叫んだ丸金に、何食わぬ顔で下着姿のシザーを川に引き倒して無遠慮に水を掛けながら聖は言い訳を述べる。
「あー、悪い悪い。つい、いつもの作業感覚で。血液ってこびりつくと洗うのメッチャ大変じゃん? 徘徊して見つけるまでに期間が開くと轟先生の汚れなっかなか落ちなくて」
「で、でも、それは、ちょっと、乱暴、な、気が」
「丁寧に脱がしたり洗ったりする方がなんかエロい気するし、この方が逆に健全説ある。あ、菅原丸、そこに落ちてるシャンプー投げて」
ボトルを頭の上で絞り出す。顔や肩にまで伝い落ちる乳白色の液体に途中で血が混ざり込み、赤い汚れが川に線を引きながら流れていく。
眼鏡は皮膚の上で溶けて張り付き顎や頭皮を突き破っているように見える。髪を洗うのには至極邪魔な変貌箇所だ。尻から爪先までは変貌者の特徴的な革の質感を持つ黒い皮膚へと変質し、最大の特徴である両腕の継ぎ目はというと黒い繊維と肌の細胞が食い込み合って歪に膨隆している。
髪が終われば体に移り、しまいには下着までもが剥ぎ取られる。
鼻歌混じりで作業する聖は手慣れたもので、あれだけ血がこびりついていた全身は見る間に元の姿を取り戻していった。何度も繰り返してきたのだろう。大切にしている相手であっても容易な作業ではない。
それでも心の痛む光景だった。
どれだけ変貌していても顔は寸分違わず布引なのだ。あられもない姿でされるがまま水中で座り込んでいるシザーは壊れた人そのもので、いっそ感情が剥き出しな付喪神の方が人間らしい。
「ふぃぃ。仕上げ、仕上げ」
ずぶ濡れで一人川から上がってきた聖は荷物から棒を取り出して、組み立てながら川へとって返した。少年の手元で完成したのはデッキブラシだった。
聖はシザーを川に押し倒して足で鉈を踏みつけながらブラシで景気良く磨き出す。
「ちょ」
思わず丸金は手を振り上げて声を荒げる。
「いくらなんでも乱暴過ぎるのでは!?」
「いやあ、ぶっちゃけ毎回洗うの大変なんよ。時短できるとこは時短したいわけで」
どうする事も出来ずに右往左往する丸金に対して、顔が川に沈んでいてもシザーはとにかく無抵抗だった。肉片のこびり付いた刃が元の黒い地膚を取り戻していく。
綺麗に磨き上げられたシザーは川縁の丸金の横に戻されると、最後の仕上げとばかりに地面に跪かせられてタオルを被せられる。
「よし、待たせた。そんじゃ菅原丸」
聖はタオル越しにシザーの頭に顎を置いて丸金と視線を合わせて悪戯な顔で笑う。
「質問あるなら俺はちゃんと答えるけど?」
目を見開く丸金に、両手でシザーの頬を叩く。
「轟先生がこんなだから聞きたい事は想像つくけど、混乱してる時は聞きたい事からじゃないと頭に入ってこないって爺ちゃん先生が言ってたからな。特にNGとか俺にはないから気にせずなんだって聞いて良いんだぜ」
死神と正面から向かい合いマジマジと顔を見たのはこれが初めてだ。以前も使役術の為に一度だけ近づいた。何人もの自衛官が切断されるのを尻目に遠方から隠れて接触した時は悲惨な光景からすぐに顔を背け、ただ殺戮者が人を殺している戦場だとしか思わなかった。
よく知っている顔だが同じ顔でも決定的に何か違う。縁の太い眼鏡が欠けて露わになった目元は睫毛が長く伏し目がちで美しい相貌なのに酷く丸金を不安にさせる。
酷い扱いをされた時も、酷い状況になった時も、死を目前にしてまでも笑い飛ばした太陽の様に力強くて優しい人。
顔が歪む。
「どうして、布引さんは変貌したんですか」
「当然知ってるけど、最初の質問がそれなのか?」
「お、教えて、ください」
「んー」
シザーの肩に体重をかけながら聖は記憶へと遡る。
布引轟。
山村で古い時代から続く小さな道場の師範で、敷地の裏からは山の麓まで最短で降れる長過ぎる階段はあるものの世俗から少し離れた所に住んでいた。
祖父と独り身の孫娘で畑をしながら経営している無名の田舎チャンバラ剣術で、真剣に大会を目指すというよりは心身を鍛える為に運動させるのを目的にしていた。
「それにしちゃ練習は鬼みたいな内容で、準備体操で素振りは数万単位、走り込みは山の麓までの往復かける年齢、打ち込み稽古は相手によるけど、悪さしたのがバレて先生相手に無限試合組まされたりしたら二日はトイレ行くのも這いずるヤバさ。特に轟先生との打ち合いとかただのリンチで泣いて謝るまでやるからマジ鬼畜だった」
「あの、それは布引さんの話ですか?」
「そう。良い子にしないと物理で締めるこのスパルタクソババアの話です」
甲斐甲斐しくシザーの髪に椿油を塗り込めながら一纏めにして捻ってクリップで留めてしまえばいつもの布引と同じ髪型が完成した。
「複数で不意打ちしても勝てないし、包丁で切りかかっても素手でいなされるし、バイクで突っ込んでも躱して引き摺り下ろされるし、轟先生にはどうやっても勝てなかったなあ」
さも懐かしい思い出のように語られているが、内容はかなり酷い。
「普通正面から受け止めきれんようなグレた連中を捕まえて根性叩き直すような先生だったから、ちょっとずつ道場は子供を捨てる場所みたいに考える親もいてな、まあそんな扱いだから家に帰らずに道場から学校に通う奴も結構いたし、俺も道場で雑魚寝してた一人だったわけよ」
下着を身につけて、鉈の腕に布を通さない肩で結ぶワンピースをお仕着せられたシザーは力の抜けた状態で虚空を見つめる。
無防備なものだ。
今なら丸金でも殺せそうに見えた。タイタンと違って大半は人間のままの柔らかな皮膚で懐にさえ入れば心臓に手が届くだろう。
シザーの目が丸金に向く。
「ひっ!?」
「落ち着け菅原丸。轟先生と目が合ったらひとまず両手を挙げて目を瞑れば大丈夫だ。先生は変貌者だけど他の奴らみたいにお前を絶対襲わない。先生は特別なんだ」
武器を手にしたわけでもないのに何を持って殺意に反応したのか皆目検討もつかないが、確かにシザーは恐ろしく精度の高い感情を見透かす感知能力を持っている。
「確かにしばかれる時は怖かったけど、逆に凄えつまんねえことでもメチャクチャ褒めてくれるし、構い倒して甘やかしてくれて、クソみたいな親とか教師からは盾になってとことん味方になってくれる」
布引は丸金に対してもそうだった。何もわからない内から躊躇いもなく味方であり続けた。
「最初は反抗してた連中も結局轟先生が大好きで、好きで好きで好きで、気づいたら道場は世界で一番安心できる居場所になってたんだ。あそこが俺の家だった。みんなが家族だった」
だが、ここにいる生存者は聖一人きり。先生の正体がシザーという事はすなわち、この話は必ず絶望で終わる。
山腹にある道場まで続いている急勾配な階段は山肌に合わせて何度も曲がりくねった石造り。周りに生い茂る緑が階段の行く先も来た道も覆い隠しているため、声の届く距離でようやく後ろから駆け上がってくる人間に気づく。
中学の制服を着た集団が大騒ぎをしながら三段飛ばしで息も切らさず現れた。第一声は憎まれ口。
「あー、不登校の不良はっけーん」
少年達は駆け上がる足を緩め、肩で息を切らせた同年代の少年を取り囲んだ。それを少年の腕の中で容赦なくはしゃぎ倒す幼児が二人声を揃えて歓待する。
「おかえりなさーい」
「おっす、マロン&ティアラ兄妹。ただいま、ただいまー」
「重り付き階段ダッシュとか聖また怒られてんの? 今度は何やったの? 馬鹿なの?」
「俺知ってる。昨日また剣道部の例の上級生達と乱闘騒ぎ起こしたんよ。んで、それをわざわざ自爆ツイートで勝利宣言。先生フォロワーじゃん。バレるの分かりきってんじゃん」
「それもう轟先生に構って欲しかっただけやん。アホ過ぎて白目剥く」
通りすがりに小突き倒された聖は声を張り上げて憤慨する。
「うるせー!! あとマロンとティアラはこれ以上暴れんじゃねえ! マジでもう腕が死ぬ!!」
幼児達は怒鳴られても勢いを衰えさせずに両手を振り回す。
「聖なら大丈夫って轟せんせー言ってたよ! いっぱい応援してあげてねってお願いされたの!」
「元気な聖はエネルギーを削ったくらいが丁度良いって轟せんせー言ってたの! 僕は頑張って使命を果たすんだ!」
「うおお、クソババア」
聖の前に少女が踊り出る。素朴な顔中に貼り付けられた絆創膏、明らかに殴られた跡が残る口元、その痛々しさに相反した悪戯な表情が印象的だった。身を翻した少女は力強く羽根の様にしなやかな足取りで階段を跳んで先行する。
「轟せんせー、聖がクソババアとか言ってまーす」
「キナコ、てめえ!!」
瀕死だったはずの聖が声を張り上げて後を追う。騒ぎ立てながら少年達もこれに続く。
険しい道のりを超えて最上段に踏み込むと、箒でチャンバラを繰り出す小学生が走り抜ける。踏みしめられた土庭には香ばしい匂いと紅葉の焚き火、道場の縁側には両腕と背中に子供を鈴なりに抱えた女がいる。布引轟はいつもの笑顔で一番に彼らを出迎えた。
「おかえり、中坊組!」
それで帰還に気づいた子供達が一斉に縁側の一角で新聞紙の上に山積みされたサツマイモをつかんで騒ぎ立てる。
「おかえりなさい! お兄ちゃん、お姉ちゃん、今日のオヤツ凄いんだよ!」
「今日は先生とお芋さん掘ってんで!」
「いっぱいあんねんで! 見て見てこれ変な形!!」
歓声を上げて縁側に走り寄るキナコ達を尻目に、聖は階段で立ち止まって仏頂面を作る。抱き上げていた幼児達も我慢できずに腕から飛び出し騒ぎの元へと合流しにいく。
「聖」
喜ぶ子達を微笑ましく見下ろしていた先生がいつの間にか腕を組んで立っていた。目が合う。口は笑っているのに片眉を上げた意味ありげな表情の布引は、階段を登頂するたびに同じ言葉で問いかける。
「そろそろ頭は冷えたかな?」
「嫌だね。今日の俺は断固として謝らん。うちの道場をゴミ捨て場とか呼ぶ連中相手に喧嘩売られたんだぞ。多勢に無勢で勝ったんだ。褒められこそすれ叱られる謂れは一万分の一も絶対無い! 一人だけ小さい焼き芋にされても俺は非を認めない」
布引は満面の笑顔で拳を鳴らす。
「うちは暴力で解決するために鍛えているわけじゃないんだよ。竹刀でも骨は折れるし、下手をすれば人殺しになると言ったよね。前に叱られた事をわかってくれていなかったのが先生は凄く悲しい。でも聖は良い子だから今度こそ理解してくれるって信じてるよ。オヤツの前に納得できるまで存分に話し合おうじゃないか」
「轟先生のは話し合いじゃなくてリンチだから! どの口が暴力反対とか言ってんだ!? キャー、爺ちゃん先生助けてえ!!」
「残念、爺様はお出かけ中です」
頭を鷲掴みにされて持ち上げられた聖は足をばたつかせて抵抗する。周りからは「謝れー」と声援か罵声か判別の難しい声があがる。鞄と制服を縁側に放り込んでジャージに着替える中学生達はそれを冷静に分析する。
「なんで怒られてんのにオヤツ貰える前提でイキれるんや、あいつ」
「それはまあ。轟先生が食べ物では罰与えないし」
「口だけでも反省しときゃ良いのに。なんであいつはいつも馬鹿正直に真っ向から勝負しようとするのか」
「もう答え言っちゃってる。馬鹿だから」
「ほら、聖ってちょっとマゾいとこあるから」
「だから轟先生に構って欲しいだけだって」
一人の少年が下着を隠しながら器用に着替える中で腹や背中が垣間見えた。肌に刻まれているのは大量の丸い火傷跡。タバコを押し付けられた跡だ。
別の少年の首には大きな傷跡が酷く目立つ。
小学生の一人が着替え終えたジャージを控えめに引っ張った。
「ねえ、トップと虎徹はどうして一緒じゃないの?」
「脳筋を拗らせて強制補修に徴兵されたので見捨ててきたからです。いいか、カズも授業は今からしっかり聞いとけよ」
カズは心配そうに俯いて元気を失くす。その反応に顔を見合わせた中学生達は笑い飛ばして頭を叩く。
「大丈夫だって。トップは監禁されても扉ぶち破って逃げてこれるし、虎徹のとこは子供にカスなんて名前つけたりしない普通の円満家庭だ。それに俺達くらい強くなるとクズ親なんか殴られる前に撃退しちまうから」
「ほんと?」
「マジマジ。大体、大丈夫じゃなかったらすぐ轟先生に助け求めるって。カズの時だって轟先生と爺ちゃん先生が助けに来てくれたんだろ?」
「うん」
「カズ、俺達の焼き芋作っといてくれん? 先に走り込みやって腹空かしてくるから」
「高学年に手伝ってもらえよ」
「沢山よろしこ」
「かけっこ頑張ってね」
道場に着いてそうそう八人は階段に向かって行く。
騒がしい子供達から大人しく影の深い子供達まで、十把一絡にできない複雑な事情の子供達。それが道場の生徒達だった。
夕陽が正面に落ちていく。麓の町から町内放送で最近目撃されている不審者についての注意が流れてくる。
膝に男児を乗せながらストップウォッチ片手に布引は縁側から階段に目を移す。
「あの子達、いつもより戻ってくるのが遅い」
「それはねぇ、うんとねぇ、猪か猿でも見つけたんだよ。樹見たことあるもん」
「そうかなあ。他の子ならともかく、腹ペコ三字とフードファイター神居が芋より動物を優先させる気がしないんだけれど」
首を傾げる布引の背中には泣きべそをかいて寝転がりながら芋を頬張る聖がいた。
「寝転んで食べるんじゃないの。甘えっ子の聖くんは先生のお膝に乗せられたいのかな?」
「煩え、鬼畜ババア」
「可愛い生徒を疑いたくないけど、君は本当に反省する気があるのかい。明日、一緒に学校と病院へ謝りに行くんだから何言われてもごめんなさいするんだよ?」
拗ねた顔で背きながら背中の体温は感じる位置にいる聖の頭を布引の硬い手が撫でる。
中学生になってからは年下の手前素直に甘えることができなくなった。そのせいで鳴りを潜めていた癇癪が赤ちゃん返りの様に増えていく。血の繋がった親の代わりに愛情を求めて試し行動をする子供達の中でも聖は外で暴れるからタチが悪かった。家庭も学校もあまり良い環境ではないのも災いして、教師からの覚えも悪くなる一方だ。
「私はね、みんなが将来自由にはばたいていくのが楽しみなんだ。優しくて逞ましい幸せな子に育って欲しい。爺様と私は喧嘩で勝つためじゃなくて、ちょっとやそっとの不幸なんて吹き飛ばせる力をつけるために鍛えてるんだよ。今日分からなくても、いつかでも構わない。でもいつかは悪意なんて笑い飛ばしちゃえる良い男になりな」
その時は反抗期がどうしても抑えられなくて返事をすることができなかった。
起き上がった聖は芋を勢いよく食べ尽くして縁側から飛び降りた。
「チビ助達がせっかく焼いた芋が冷める。もったいないからキナコ達がサボってないか偵察してくる」
階段に向かって走っていく聖の耳に柔らかい溜め息が届く。
「ありがとう」
振り返らなかった。
聖は全てが終わってから振り返っておけば良かったと後悔した。
おそらくこれが布引とまともに話せる最後の機会だったのに。




