〇一
家に戻ると、おばあさんがあわてた顔で飛び出してきた。
「さっき、何度も地震があって心配した」
そんなことを早口で何度も言っていたようである。
真澄がなだめながら話を聞くに、それほど大きな地震ではなかったようだ。
ただ、規模は小さいがしばらくの間続いていたらしい。
(地震だったのかなあ……)
ゲンやんはセーハチと顔を見合わせて、肩で息をする。
先ほど、崖崩れの場所から出現した巨大な腕。
あれは一体なんだったのか。
おそらくだが、ゲンやんらの他に目撃者はいなかったはずだ。
もしかすればいたのかもしれないが、現在のところそれを確かめるのは難しい。
「大丈夫だから。お茶でもいれよう?」
そう真澄が手を広げて言う頃には、おばあさんも落ちついていた。
ゲンやんは、もう一度荒女山を振り返る。
もう一度、崖崩れ現場に行ってみたいと思わないでもなかった。
だが、今それをするほど無謀でもないし、そこまで強い欲求でもない。
夢か幻か。あの怪獣みたいなものはどうなったのか。
(まさか、そのうち地下から出てくるんじゃあるまいな……)
静まり返った神縛町を見ながら、ゲンやんは冷たい汗をかいた。
と、ふいにセミの鳴き声があちこちから響き出す。
途端に、
「ふにゃっ」
おかしな声を出して、キロクがへたりこんでしまった。
「どうしたの、キーちゃん」
おばあさんは驚いた顔をして、キロクを見た。
「休ませたほうがいいんじゃない?」
キロクの顔をのぞきこんで、真澄はゲンやん、セーハチを振り返る。
二人は真澄に先導されて、キロクに肩を貸しながら縁側のほうへと運んだ。
キロクは魂でも抜けたような顔で、言葉もハッキリしない。
すぐさま仏間に布団がしかれ、キロクは寝かされる。
真澄が濡れタオルを持ってきて、その額に乗せた。
それでもキロクはボーッとしていたが、やがて小さく寝息を立て始める。
「心配は、ないみたいだね」
キロクの様子に、真澄は安心したように笑うとまた立ち上がって台所へ。
「こいつも、けっこう繊細というか脆いところがあるからな」
セーハチは枕元で座ったまま、仏頂面でつぶやく。
どうやら、セーハチもようやく安心したらしい。
「純粋っていうやつかな」
ゲンやんは苦笑して、庭へと目を向けた。
空は晴れていき、セミの声が飛び交い、いかにも平和な光景である。
ほんのちょっと前に見た、あの光景が嘘のようだった。
(いや、嘘というか幻覚かもしれないし……?)
セーハチは首を振ったが、目を閉じると崩れた岩場から出現した巨大な手が。
「ううっ」
ゲンやんは目を開いて、かぶりを振った。
寒くもないのに、震えが止まらない。気を抜けば歯がガチガチと鳴ってくる。
「ゲンやん、大丈夫?」
そこへ、ちょうど戻ってきた真澄が声をかけてきた。
「これでも飲んで落ちつけば? それとも、君も休む?」
真澄が持ってきたのは麦茶の入ったクールサーバーと、お盆に載せたコップ。
お盆には複数のコップのほか、お茶請けらしきお菓子の入った容器も。
「ああ。ありがと。気がまわるなあ……」
ゲンやんは震える腕をつかみながら、お礼を言う。
セーハチは無言でコップに麦茶を入れると、真澄の前に置いた。
「いやあ、そうでもないよ?」
真澄は麦茶の入ったコップを手に取り、一気に半分ほど飲むと、
「はあ……!」
大きく息を吐き出して、次には麦茶を飲み干してしまう。
二人分の麦茶を入れたセーハチは、また無言で真澄のコップへと麦茶を注ぐ。
「お、ありがと」
「べつに」
礼を言う真澄にセーハチはそっけなく返すと、ケータイを弄り始める。
その後は、誰も何も言わなかった。
「アレって、なんだったのかな」
沈黙の後で、ゲンやんは口火を切った。
「アレって?」
真澄はお菓子を口に放り込みな、また麦茶を飲み干す。
「……そりゃあ」
言いかけて、ゲンやんは次の言葉が出せなくなった。
怖かったからだ。
あそこで見たものについて、まだ誰もまともに語ってはいない。
もしかすれば、自分は幻覚を見ただけではないのか。
いや、幻覚とか白昼夢であるのなら、それでかまわなかった。
実際の崖崩れや自身に遭遇したショックで、おかしな錯覚をしただけ。
(……それだったら、馬鹿だなあですむけど)
もしも、みんなが同じものを見ていたとしたら。
あの巨大な手が、不気味なうなり声が、怪獣の存在が現実だとしたら。
ゾッと腹の底から背筋へと震えが走り、ゲンやんは動けなくなる。
今こうして普通にしているけれど、それすらも一分後、いや一秒後には全てムチャクチャになってしまうのではないか、という恐怖。
「……なに笑ってんの?」
真澄の声に、ゲンやんは心臓が跳ね上がり、そのまま止まるかと思った。
「わ、笑って……?」
ゲンやんは自分の頬へ手を当てて、真澄を振り返る。
「なんか、変な笑い顔になってるよ。お化けみたい」
「そ、そうなのか? 僕、笑ってた?」
ゲンやんは驚いてセーハチにも問いかけた。
「ああ。ものすごい気持ち悪い顔だった」
セーハチは顔をしかめながら、肯定する。
「……そんなはずは。いや、そうかも」
顔面を両手で何度も揉んでから、ゲンやんは麦茶を飲んだ。
「げほっ……!」
あせって飲んだために、むせて吐き出しそうになってしまう。
「……なにやってんだか」
真澄は困った顔をしながら、いつの間にか手にしていたタオルを差し出す。
「ああ、ごめん、ごめん」
ゲンやんは飛び散った麦茶をふきながら、肩の力が抜けるのを感じていた。
「なんか、僕は変な幻覚を見たかもしれない」
ふと、自然にそんな言葉が口から出てしまった。
「なにを、見たって?」
セーハチがひどく怖い目つきで、そう尋ねてくる。
「崖崩れの場所でさ……。怪獣、みたいな? そんなのを見ちゃったんだよね」
ゲンやんは最初後悔したが、すぐに開き直り自分が見たものを話した。
「……それって、おっきな手だった?」
真澄が、異様な速さでお菓子を食べながら言った。
ただし視線をゲンやんと合わせようとはしない。
「うん。でっかい鋭い爪の手が出てきて、それが引っ込んだ後、奥のほうでうなり声がして、目みたいなのがギラギラ光ってた……」
「あたしだけじゃなかったかあ」
お菓子を全部食べてしまった真澄は、麦茶を飲んで人ごとみたいに言った。
「ってことは……」
ゲンやんはゆっくりとセーハチを見る。
「俺も、同じようなものを見た」
セーハチは頭をかきながら、眠っているキロクを見る。
「たぶん、キロクのやつもな。でも、こんなバカバカしいこと、人には言えん。熊が出たとかそんなならともかく、いきなり山から怪獣が出ましたって……」
セーハチは唇をゆがめて、ヤケクソみたいに笑う。
「冗談じゃない。幼稚園ならともかく……下手したら正気を疑われる」
「だよなあ」
ゲンやんはセーハチに同調してうなずいた後、コップに手をやる。
だけど、コップは空。クールサーバーも同じく空だった。




