〇一
切り立った崖。
その下を小さな道路が伸びているが、その真ん中辺りに大小の岩がなだれ落ち、道を完全に塞いでしまっている。
崖崩れというから、ゲンやんは多量の土砂をイメージしていたが、実際にはそこは土砂より岩と石ばかりが重なっていた。
その規模は一体どの程度のものなのか、具体的な数字はイメージできなかった。
ただ、凄まじいという曖昧な言葉しか思い浮かばない。
「うわあ……」
双眼鏡越しにその光景を見て、ゲンやんはため息をついた。
軽い吐き気を催すような衝動が、胸の内からこみ上げてくる。
恐怖なのか、それとも感動なのかよくわからない。
崖崩れの現場は、実際見ているのにどこか非現実的である。
それはまるで、巨大な生物がジッとうずくまり休息しているようにも見えた。
あれを除去するのに、どれだけの手間やお金がいるのだろう。
部外者であるゲンやんですら、それを想像すると頭が痛くなってきた。
「この復旧って、どれくらいかかるんだろ……?」
ゲンやんは双眼鏡を下ろして、橋向こうに見える惨事から目をそらした。
「んー。どうなるのかなあ、あんまり使われてない道だしねえ」
真澄は少し考えたようだったけど、短く首を振る。
それから、わからない――と、つぶやいた。
「アレだけのことが起きて、ホントに死人が出なかったのか?」
セーハチはごくりと喉を鳴らし、ぼそりと言った。
顔は平静を保っているようで、よく見ると血の気が引いている。
キロクも悪い夢でも見ているように、崩れた岩場を凝視していた。
自分たちの身近にいる場所で起きた巨大な災害は、三人の心に少なからぬショックと恐怖を与えてしまったものである。
むしろ、地元民である真澄のほうがずっと冷静だった。
現場には大勢の人が集まっているが、みんなどこか淡々としている。
(怖くないのか……?)
と、ゲンやんは不思議に思えてならない。
(また他の場所が崩れたら、とかそんなことは考えないのかなあ……?)
それとも、そんなことを考えていられないのか。
自分だったらとても近寄れない、とゲンやんは視線を落とす。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
ダウナーな三人組の様子を慮ってか、真澄が妙に優しい声でそう言った。
「そうだね……」
「はい……」
「ああ」
ゲンやん、キロク、セーハチはそれぞれに返事をして、顔を見合わせる。
陰洲宅から歩くこと三十分、あるいはそれ以上かもしれない。
暑い日差しのもと、徒歩で歩いて得たものはうすら寒い不安だけだった。
物珍しさとやることがないために、わざわざ見学に来たのだけれど、
(こないほうが良かったかなあ……)
と、ゲンやんは考えてしまう。
「そもそも、野次馬気分で来ること自体が良くなかったかもしれない」
「まあ、確かに」
思わずつぶやいたゲンやんの言葉に、セーハチが相槌を打った。
キロクはずっと無言である。
空気が重くなっていくが、まるで意に介さない者もいた。
「どうせだから、回り道してく?」
一人だけ平然としている真澄は、カラリと快晴の空を見ながら言った。
「帰ってもすることないっしょ。それとも、勉強でもする?」
冗談めかして言う真澄に、三人組はまた互いを見合った。
田畑と山と電柱と、アスファルトの道路。それと青い空。
それ以外は家屋ばかりの神縛町を見回しながら、
「うん」
三人は同時にうなずいた。
「じゃ、きまりだね。道はこっち」
と、来た道を引き返していたところ、真澄は違う道へと進み始めた。
それについていく三人。
「……だけど、本当に何もないな」
途中で小さな商店を通り過ぎ後、セーハチは後ろを振り返りながら言った。
「まあね。でも自動販売機はあるよ。あ、それはどこでもあるか?」
真澄はケラケラと笑って、
「あの店で買い物するなら、賞味期限切れに気をつけてね?」
「いや、たぶんしない……と思う」
セーハチにつられるように振り返っていたゲンやんは、反射的に即答する。
「それがいいね。きっと」
「でもあの店、客がくるのかな? いや、他に店がないのか……」
「そう、他にお店はないよ。車で十分くらい行けば同じようなお店があるけど」
真澄はゲンやんの疑問に応えた後、
「自転車だともっとかかるね」
「車で十分」
セーハチは腕を組んでなにか熟考するように、黙りこんでしまった。
「一番近いコンビニは……車で三十分くらい。山道おりてね」
「それ……ちなみに、自転車では?」
「行ったことないからわからない。というか行くわけないでしょ?」
参考までに尋ねるゲンやんだったが、真澄は呆れた顔で肩をすくめた。
「ああ……。そりゃ、いけないよなあ」
ゲンやんは昨日車で登ってきた山道を思い出して、納得する。
下りはまだ良いかもしれないが、上りとなる帰り道は想像するだけでしんどい。
おしゃべりをしながら進み四人に、セミの声が雨のように降りかかる。
「セミが多いだなあ。さすが」
小さな山に囲まれている、そんな印象の町を見ながらゲンやんは真澄に言った。
「なんか、今年はいつもよりうるさい気がするんだけどね」
振り返り、真澄は少し眉毛を八の字にしたようだった。
言われてみれば、種類のよくわからないセミの鳴き声はどこか変な気もする。
なんというのだろう。
まるで、なにか怖い事態に巻き込まれパニックで泣いている子供のような。
ゲンやんは荒女山のほうを振り返ってみる。
確かに、非常事態というのは起こったのだ。
崖崩れという、とても大きな非常事態が。
さらにもう一回、ゲンやんは振り返る。
快晴の下の荒女山は、とてもきれいで素朴で優しそうだった。
でも同時に、夜に見た恐ろしくて凶暴そうで、今にも牙をむき出して荒れ狂いそうな、あの荒女山の姿を思い出してしまう。
そして、横を歩くキロクを見てみた。
三人の中では一番陽気なはずのキロクだが、あの崖崩れを見た後から様子がおかしい。
ボーッとして、どこか焦点の合っていない瞳をしている。
「おい、どうしたんだよ?」
気になったゲンやんが話しかけようとした時。
「あ、そういえば!」
いきなり、先頭を歩いていた真澄が声をあげた。
「あっちのほうなんだけどね」
真澄は、背伸びをするような格好である方向を指してみせた。
そちらにも、やはり山と田畑ばかりが広がっているけど、田んぼ中心の陰洲家周辺と違ってビニールハウスがたくさん見える。
「むかし、あのへんの小山にうちの田んぼがあったんだよね。かなり前に売っちゃったらしいんだけど……」
「へえ」
言われて同じ方向を見てみるゲンやんだが、それらしい山は見えなかった。
距離や地形的に、今いる場所からは見えないらしい。
「上のほうには鶏舎もあってさ、同級生のお母さんも働いてたんだ」
鶏舎とは、ニワトリ小屋のことだ。
でもこの場合は、いわゆる工場のような大規模養鶏所のことらしい。
「山のほうから水を引いて、おっきな畑とかもあったんだよ? あたしがちっさい頃だけど、よくおぼえてるなあ~」
真澄はその瞳を細めて、猫のように微笑したようである。
ゲンやんは、そのお尻から二つに分かれた尻尾が見えた気がした。
「売ったと言ったけど、今はどうなってる?」
セーハチが手をかざしながら、ビニールハウス群の向こうを睨んだ。
「どうもなってない。そのまんま」
と、真澄は唇を片方だけ持ち上げて、嘲笑のようなものを浮かべた。
「そのまんまって……つまり、なに?」
ゲンやんは真澄の表情と言葉に首をかしげる。
「なんか、ゴルフ場を作るとかそんな話だったらしいけど。結局手つかずのまんまで、ずっと放置されっぱなし。今もね」
真澄はふふんと、小さな花を蠢かした。
「山は管理もされずに、そのままか。さぞかしえらいことになってるだろうな」
「んー。今年の春休みに、ちょっと前行ってみたけど、養鶏所の建物がそのまんま残ってた。取り壊しもしてないから当たり前だけど。道はもう、草ボーボーでどうにもこうにもならないことになってたけどねー」
セーハチの声に、真澄はバンザイと両手を空へ突き出す。
気のせいか、ゲンやんはセミの声がよりいっそう大きくなった気がした。
「上のほうには、畑にまく用の、水を貯めておく池があったんだ」
「池かあ……」
ゲンやんは、鬱蒼とした草木に囲まれた古い池を想像する。
人の見ていない時には、なにか得体の知れないものが泳いでいそうな、不気味で神秘的な、そんな風景がぼんやりと頭に浮かび上がってきた。
「池といっても、人工池というかただ水を貯めておくだけのものだったからね。今考えると、そりゃもう汚いというか濁りまくり? 水の透明度ほぼゼロだったね、あれは」
ゲンやんの空想を蹴り飛ばすかのように、真澄はそう語った。
「あ、そうなんだ……」
「どうかしたの?」
思わずガックリきてしまうゲンやんに、真澄は不思議そうにのぞきこんでいた。
「いや、なんでもない。あんまり馴染みのない話だったから」
「そっか。あ、でも……」
真澄はなにかを言いかけたようだったが、あわてて思い直したように口を閉ざす。
「そっちこそ、どうかした?」
ゲンやんはさっきの言葉を真似ながら、真澄の大きな瞳を見る。
近くで見るとカエルというよりは夜の猫みたいな印象を受ける瞳は、なにか頼りなげに揺れているようだった。
「夢だね、あれは」
ゲンやんの言葉を聞いていないのか、真澄は一人でうなずいている。
「なんの話?」
「……あ、ごめん。ちょっと思い出したことがあったから」
真澄はきまり悪げに振り返り、顔を両手ではさんで空を見上げた。
快晴だった空は、いつの間にか雲が出てきたようである。
「あれは保育園の時だったから……五歳くらいかな。あたしはばあちゃんと一緒に、あそこの畑に行ってたんだよね」
語り出す真澄を、いつの間にかセーハチも注目しているようだった。
キロクも無言ではあるが、真澄のほうを見ている。
「夕方ぐらいだってたかなあ? あたし、ばあちゃんから離れて一人で池のほうに行ってみたんだよね? 一人で近づくと怒られたから、こっそりと」
そこで真澄はいったん言葉を切ると、うーんとビニールハウスの向こうを睨む。
「……その時さ、池にいたんだよね」
つぶやき、また黙りこんでしまう真澄。
「幽霊でも出たわけ?」
場の空気を変えようとして、ゲンやんはわざと茶化すように言ってみた。
「いや……違うと思うなあ? あれは、生き物だったと思うんだよ」
しかし、真澄は腹を立てるでもなく、むしろゲンやんたちのことなど目に入っていないかのような、そんな態度である。
「こう……セミの声が小さく響いてかな。池の真ん中あたりに何か大きなものがさ、ぷかっと浮かんでたような。そうだ、タコの頭みたいだった!」
と、真澄が急に声を大きくする。
「タコ?」
「こんな山の中にか?」
ゲンやんとセーハチは顔を見合わせ、
「たこ……」
キロクはぼけっとした顔でつぶやく。
「でも、あれはタコって感じだったなあ……。河童とかそんなじゃなくって、タコ」
うんうんと真澄はうなずいてから、
「それがこう……ぬる~り、って感じで浮かんできてさ? で、いきなり、ひょんっ! って感じで沈んで。それを何回か繰り返して、見えなくなった」
「それで?」
ゲンやんが続きを催促したけれど、
「それで終わり。今思うと写真にでも撮っとけば良かったかな」
「いや、なにそれ?」
「わかんないよ。熊とかイノシシじゃなかったと思うけど。あ、でもあたりは熊なんか出ないしなあ……。いわゆる未確認生物?」
「イノシシだって水泳なんかするか?」
セーハチは目を細めて疑惑のまなざしを真澄に向ける。
「あたしに聞かれてもねえ? あたしはただちっさい頃に見たモノの話してるだけ」
「幻覚か、さもなきゃ夢だろ」
セーハチは冷たく言うと、携帯電話を取り出して時間確認を始めた。
もう真澄の話に興味をなくしてしまったようである。
「タコねえ。なんだかなあ」
呆れたように言いながらも、ゲンやんはどうも真澄の話が気になってしまう。
別に、彼女の話を信じたというわけではないのだけれど。
しかし、喉に引っかかった小骨のようにどうしても無視することができなかった。
真澄のほうは、みんなの反応を気にしている様子はない。
「ねえ? その、池のあった場所って遠い?」
「ううん。すぐそこ」
真澄は前の道を指すが、せまい道路の先には小さな家屋が一つ。
それに至る左手には田んぼとビニールハウス。右手には大小の家屋が並んでいる。
ゲンやんには、想像したような山があるように思えなかった。
「行ってみたり、できるかな?」
「できない、とは言わないけど……」
ゲンやんの質問に真澄は困った顔をする。
「本気か、おい」
セーハチはケータイをしまいながら、咎めるように言った。
「いやあ、興味本位というか」
「今はあんまり軽い気持ちでいける場所ではないけどね。言わなかったっけ? 道はほとんど草で塞がれててるよ。道だってデコボコだし、安全とは言えないねー」
真澄は両手を腰に当てながら、きかん坊を見るような目でゲンやんを見てくる。
「いや、別にそこまで行きたいとは言ってないって。ただ、行けたらなあ、と」
と、あわてて言い訳をするゲンやんの前を、キロクはふらりと遠すぎていく。
頼りない目つきとは裏腹に、妙にしっかりした足取りでキロクは歩いていた。
「おい! どこいく気だ?」
セーハチはめったに見せないほど感情をあらわにして、キロクの肩をつかんだ。
「え? どこって……行くんじゃないの、池……」
キロクはぼんやりとした口調で、セーハチを振り返る。
ただし、その瞳はセーハチと相対していながら、セーハチを見ていない。
「行かん」
セーハチが強く否定した時である。
遠くで、ゴロゴロと嫌な音が響いたようだった。
「あっちゃ」
真澄は空を見上げて、頭に手をやった。
気がつけば、空は曇天の様相となり今にも一雨きそうな気配である。
空気も冷えて、湿っぽくなってきたようだ。
「……どっちにしろ、行くのは無理だね」
ゲンやんの声に応えるように、遠雷の音はより大きくなったような。
四人は顔を見合わせると、道を引き返し始める。
それは、ポツポツと降り始めた雨によって、全力疾走へと変わったのだった。




