あの日
ーーー私の名前はエレン・レヴァリー。
ユキが日記を書いているそうで、勧められたから書いてみようと思う。
せっかくなので最初からにしようか。いつか誰か読むかもしれないし。
まず・・・私がこっちに来たのは14歳の時だったはず。
「ごめん小谷さん!すっごく大事な用があるの!」
ありがちな力関係だ。
「本当にお願い!今日だけ代わって!」
社交的で、少々のずうずうしさは愛嬌とみなされる一人と。
すっかり帰り支度は済ませているというのに、断りきれずに愛想笑いを浮かべる一人。
「あー・・・いいよ。大丈夫大丈夫」
小谷明日美は後者だった。
ーーーあの頃の私は人に嫌われるのが怖くて、言いたいことも言えなかった。
もちろん今でも怖いけれど、あの頃は人の顔色ばかり窺っていた気がする。
好かれているのと嫌われているのは違うのに、嫌われないようにする努力しかしていなかった。
友達なんているはずもない。
知っている、彼女の“用事”というのは彼氏とのデートであると。
昼休みにそれは嬉しそうに騒いでいるのが嫌でも聞こえた。日直の仕事は、はなから明日美に頼み込むつもりであったことも知っていた。
「(なんでもっと早く言わないの?)」
内心腹立たしい。だが、それでも明日美は断れない。
いじめられるよりはいい。と、今日もいい人のフリを演じるのだ。
スカートの丈を変えたいと思わなかったので学校規定通りのスカート丈のまま。
染髪したいともこだわりの髪型があるわけでもないので、黒く肩甲骨辺りまである髪を一つにまとめている。
成績は上の下。運動はあまり得意ではない。
趣味もない。流行のドラマや芸能人にも興味がない。漫画はメジャーなものを読む程度、アニメは見ない。
あまりに無個性。結果、どのグループにも馴染めないまま、馴染み方もわからないまま。
それが、彼女の現在である。
さらに彼女の生い立ちが、気遣いと遠慮の名の元で人を敬遠させているのかもしれない。
ーーーもしかしたら、"一人でいるのが好きな人"だと思われていたのかも知れない。
でもそんなことはなくて、不安しかないけれど誰に頼ることも出来なかったから、なんでも一人でやるしかなかった。
でも知らないことはどうしようもない。あの日はたしか、トイレから帰ってきたら教室に誰もいなかったんだ。
「どうしよう・・・」
両隣のクラスは賑わっているというのに、彼女の教室には誰も居ない。不安そうに呟いた声に答えてくれる友人も居ない。
思い返してみれば朝のホームルームの際に担任が移動教室の話をしていた気がしたが、うかつにも聞いていなかったのだ。彼女にとっては痛恨のミスだった。
今更教室を探し出したとして、クラスメイト達の視線に晒されながら入室する勇気はない。かと言ってこのまま授業が終わるのを待っていっても、戻ってきた彼らの視線の晒し者になるのは同じだ。
詰んだ、と途方にくれた様子で呟いた明日美は、その足を階段へと向けた。
澄み渡る空、爽やかな風。静かな屋上でそれを見上げる彼女だけが薄暗く曇っている。
「(どれくらい経ったかな・・・。喉渇いたなぁ・・・)」
グラウンドとは反対側の柵にもたれかかり、ため息をこぼす。屋上に時計などあるわけがなく、腕時計も禁止されているため、彼女に時間を知らせてくれるものはチャイムしかない。
一時間にも満たない授業の一コマがとても長く感じる。
空を見上げたままでステンレスの柵を軸に意味もなく前後に振れてみる。恐怖などない、高いところは好きだ。
だが、胸ポケットから抜け出してしまったシャープペンを追いかけることはできなかった。
「あっ」
シルバーの何の変哲もないシャープペン。クラスメイト達のようにパステルカラーであったり、何らかのキャラクターがついていたりもしない。
彼女を体現するようなあまりに普通のそれは、柵の向こうにほんの少し残されたコンクリート部分にかろうじて残った。だが、あと一転がりでもすれば宙に投げ出されてしまう。
柵の隙間は狭すぎて、手首が邪魔をして届かない。上からなど論外だ。さて、どうしようか。
幸いにも眼下に広がるのは人気のない教師達の駐車場。明日美は意を決して柵を乗り越えることにした。
ーーーでも悲しいかな、あまり運動は得意ではなかった。
怖いし、焦るしで、最悪な事に足が滑って手も離してしまった。もしあの時ペンを落とさなかったら、足を滑らせなければ、もしかしたら私の人生はもう少し変わっていたかもしれない。
「あ・・・っ」
落ちる、とどこか他人事のように感じたほんの2,3秒後、彼女の体は地に叩きつけられたのだった。
「っうぇっげほっ!」
したたかに背中を打ったため、一瞬息が止まった気がした。苦しさに体を九の字に折り曲げて嘔吐きながら、やがて違和感に気づいた。
落ちたのだ、確かに。鮮明に思い出せる、離してしまったステンレスとその向こうに広がる青い空。
一瞬にして死を確信し、心臓がひやりと凍りついたようなあの感覚。
だが今、彼女が体を横たえている“地面”は真っ白な“床”だった。息が整ってしまえば背中以外はどこも痛くない。骨折の一つもしていないらしい。
背中の痛みが引いていくのと反比例して、明日美の脳内はパニックになっていく。
そしてそれに追い討ちをかけるように、床と自分の手しか見えていなかった視界にこれもまた白いブーツの足先が差し込まれた。
まるで引き上げられるように明日美の視線はその上へと向かっていく。
膝上まである長いブーツにほっそりとした足、いかがわしい遊びに使われるナース服を思わせる体のラインに沿った短い白のワンピース。
薄い灰色をしたボブスタイルの髪に、それより少し濃い色をした瞳。白雪姫のような肌。
明日美と同年代に見えるその少女の顔立ちは愛らしく、だが無表情だ。
「こんにちは」
淡々とした口調で言葉を投げかけられる。とその瞬間、まるでスイッチでも押されたかのように明日美の意識ははっきりと覚醒した。
「え、え?!」
慌てて上半身を起こし、周囲を確認する。不気味なほどに何もない。ただただ、どこまで続くのか知れない真っ白な空間が縦横無尽に広がっているだけだ。
“ここはどこだ?”というレベルの話ではない。
「こんにちは」
顔面蒼白となっている明日美に少女はもう一度言った。この少女にしても、まったく見覚えがない。
突然のことに立ち上がることもできず、自分を怯えた様子で見つめたままの明日美に首を傾げている。
「(誰?!ここ、どこ?何?!)」
キョロキョロと周囲に視線を走らせながら自分の現状を把握しようとした。だが、手がかりになるものなど何もない。
そんな明日美をよそにどこから取り出したのか、少女はファイルのような物を広げてその中身と明日美を見比べている。
そして彼女なりに何らかの可能性に行き当たったのだろう。パタン、とファイルを閉じて再び口を開いた。
「你好?」
「えっ?!えっと、いや、あ、日本人です」
「ですよね。こちらに手違いがあったのかと思いました」
思わず答えてしまったのだが、少し落ち着いたような気がした。
「改めまして・・・。初めまして、私は神様です」
「は?」
「あら、間違えましたか?今までの43%の方の第一声が“あなたは誰ですか?”でしたので。先にお答えしようかと」
突拍子もない自己紹介に、はぁ。としか言葉が出ない。
「え、と・・・ここはどこですか?」
「あぁ、それは55%の方の第一声ですね」
「・・・残りの2%は?」
「叫んだり、何も言わずに泣き始めたり。ですね」
「あぁ、そ、そうですか・・・」
「話を戻しましょう。ここは、次元の狭間とでも申しましょうか」
「はい?」
また突拍子もない単語が出てきたものだ。
と、神を名乗る少女は手のひらで明日美の隣を指した。
「とりあえず、どうぞおかけになって」
自分の左側を振り返って明日美は目を疑った。
白く大きな丸テーブルに背もたれの長い白い椅子が向かい合わせに二脚。まるで初めからそこにあったかのように、いつの間にか存在していたのだ。
無様に這いつくばったまま目を白黒させている明日美に少女は、さぁ、どうぞ。と促す。
そして恐る恐る彼女が席に着けば少女は対面に座り、またしてもどこから取り出したのか先ほどのファイルを広げた。まるで面接でも受けているような感覚に、明日美は混乱しながらも緊張で縮こまっていた。
「小谷明日美さん、ですね?14歳で間違いありませんか?」
「え、と・・・はい。あの、どうして私の名前・・・」
「神様ですから」
事も無げにそう言う。だがそんな返答で納得できるわけもない。
しかし残念なことに、少女は明日美に考える時間など与えてはくれないようだ。
「さっそくですが、あなたは【世界均等化計画】参加者の1人に選ばれました」
「世界・・・え?」
「これからあなたには、第二の人生を歩んで頂きます」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて彼女の声を遮った。機械のような喋り方がすんなりと止まる。
「何言ってるんですか?!ここはどこなんですか?!テレビか何か?!」
「仮にテレビ番組であったとして、ごくごく普通のあなたを起用することでどれだけの視聴率が取れるでしょうね」
思わず言葉に詰まる。彼女の言っていることはもっともだ。
だが、だからといって納得できるものでもない。
「世界、計画?とか言われても!次元の狭間って何を言ってるんですか?!」
「この説明に関してはいつも時間がかかってしまいます。対応策を考えなければいけませんね」
そのあまりにも機械的な様子に馬鹿にされているような気さえした。
更に問い詰めようと口を開いたその時、今度は少女が彼女を制するように右の人差し指をスッと立ててみせた。途端に、中途半端に開かれた口があっさりとしぼむ。
「1つずつ、いきましょう」
どうあがいても、主導権は少女にあるようだ。
「どうぞ、ジュースでも飲みながら」
カラン、と音がして、明日美は思わず自分のすぐ左斜め下、テーブルの上を見た。
そして驚きを通り越してぞっとする。そこにはオレンジジュースらしき液体に氷を浮かべたグラスが一つ。ご丁寧にもストローまでささっている。
もちろん、ついさっきまでこんな物はなかった。
「まず、この場所についてですが・・・ざっくりと言えば、あなたの後ろがあなたが今までいた世界。私の後ろがこれからあなたが行く世界です」
「これから行くってどこに?!」
「1つずつ、です。話が終わりません」
徐々に明日美は“とんでもない所に連れてこられたのかもしれない”と思い始めていた。
終わりの見えない空間。突然現れたテーブルや飲み物。非現実的な話をする非現実的な雰囲気を持った少女。
どうぞ、喉も渇いたでしょう。と改めて飲み物を勧められると、断ることすら怖くなり少しだけ飲んでみた。中身はやはりオレンジジュースだった。
「あなたは、あなたが生きてきた世界がどのような状況にあるかわかりますか?」
「どのような、って・・・」
「聞き方を変えましょう。あなたは、あなたが生きてきた地球がどのような状況かわかりますか?」
「地球温暖化、とかそういうことですか?」
「そうです」
頷いた少女が右の手のひらを下にしてぐっと持ち上げるような仕草を見せた。すると、まるでテーブルから引っ張り上げられたように明日美の目の前に地球が現れたのだ。
「できるだけ単純に、簡単に申し上げます。まず、これがあなたが生きてきた地球です」
地球、と言っても明日美の頭くらいの大きさか。3Dホログラムのようで、向こう側の少女がぼんやりと透けて見える。
「ここまで豊かに発展した世界は、古の神達でもこれ1つしか作ることができなかったのです」
「この地球一つだけ?」
「えぇ。たくさんの失敗を重ね、やっと成功したのがこの世界。ですが、それも人間達の手によって危うくなっています」
そんな折、と今度は左手でもう1つ地球を引っ張り上げた。見慣れた地球儀とはまったく違う大陸の形をしている。
「もう1つ、2つ目の成功例と呼べる世界ができあがりました。あなたのいた世界と比べれば、まだまだ赤ん坊のようなものではありますけれど」
「これが、その、あなたの後ろにある世界?」
「えぇ。今は人類の増加に伸び悩み、なかなか発展してくれないのが現状です」
そう言いながら少女が指をくるりと回すと、2つの地球は消えた。
「私達はどちらの世界も愛しい。けれどこのままでは、あなたの世界は人間達が崩壊させてしまいます。
そこで・・・私達は増えすぎた人間を新しい世界に移すことにしました。」
それが、【世界均等化計画】です。
至極真面目にそう言った少女の話はやはり現実味が感じられず、明日美は何と言っていいものやらわからない。
「とはいえ、一気に移動してしまうとどちらの世界も狂います。生態系は乱れ、どちらもダメになってしまう可能性は大いにあります。よって、どちらの世界にも気づかれぬよう、少しずつ実行しているわけです。あぁ、ケーキでもいかがです?」
少女の視線はまた一瞬、明日美の手元を見た。もう驚いたら良いのか怖がれば良いのかわからない。
白い皿、フォークまで添えられてモンブランが出現していた。
この空間はあまりにも見晴らしが良すぎて、自分達以外に誰もいないのがよくわかる。
それでも、まだ彼女はこれが手品か何かで少女もただの人間だと思いたかった。
「・・・あの、ケーキなら飲み物は紅茶が良いな」
ずうずうしい、と思いながらオレンジジュースのグラスをグッと掴む。
少女は、ふむ、と何やら納得した様子で頷いてみせた。
「そうですね、わかります」
とその瞬間、明日美は自分の手元を見るまでもなく絶望した。冷たいグラスを掴んでいたはずの手が温かい、しかも指先だけが。グラスを手のひらで掴んでいた彼女の手は、さも前からそうであったように湯気の立つ紅茶が入ったティーカップの持ち手に指をかけていたのだ。
目の前に居るのは普通の人間などではないと思い知った瞬間だった。
「では、話を戻しましょうか」
では、人間でなければなんだというのか。
「・・・あなたは、何なの?」
震える声に、少女は小首をかしげて答える。
「ですから、神様です」
よろしくお願いいたします。
序章は1時間置きに投稿される予定です。




