第二十五話
カロロライア魔法銀鉱を巡る戦いから二週間、内戦の事後処理が進む中で、対メイゼナフ家の拠点として機能を果たした支城は急ピッチで復旧の作業が進められている。多くの兵士の血を啜った魔法銀鉱は平穏を取り戻す筈だった。
「早く、走って」
カリムは幼馴染のクーウェンに呼び掛けた。呼びかけに応じる暇も無く、クーウェンはただ息を吐くばかりだった。
「はぁっ、ふぅ、ぁ」
無理もないとカリムは考える。氷槍による傷が塞がり動けるようになったとは言え、病み上がりには違いない。その上、足を庇って生活していた為、足は疲労と恐怖により小鹿の様に震えていた。
諸悪の根源であるそれは、間合いを詰めつつある一つ目の巨人サイクロプス。それがカリム達に付き纏う魔物の正体であった。
「なんでこんなに、しつこいんだよ」
四、五メートルに達するであろう巨躯に見合う足は、外見に反して実に俊敏であった。事実、クーウェンとカリムが配属された隊はサイクロプスの襲撃を受け、散り散りとなって逃走を試みたにも関わらず、二人を除き亡骸を大地に晒している。踏み潰され、蹴り飛ばされ、引き抜かれた樹木で叩き殺された。カリムは当然そんな死に方は御免だった。
こんなことなら大人しく帰るべきだった。カリムは悔恨の念が脳裏を過る。事の発端は、人間同士の殺し合いによって生じた血肉の臭いに誘われ、カロロライア鉱脈周辺の魔物が引き寄せられた事だった。エドガー子爵は魔物の襲撃によって出来た隙をメイゼナフ家に突かれる事を嫌い、支城の機能が回復するまでの間、解散する筈だった領兵の中から、臨時で鉱山を警備する兵を募集したのだ。
魔物の数こそ多かったが、鉱山を切り開いた際に強力で有害な魔物は一掃されていた。開拓地に入植するにあたり、金は幾らあっても困らない。そうして臨時の報奨金に釣られ、支城が復興するまでの警備に二人は雇われていた。
その情報通り、カリム達が遭遇した魔物と言えば、小鬼であるゴブリンやオーク、中には食用として珍重されるワイルドボアなどの魔物も交じっていた。死闘を乗り越え経験を積んでいたカリムは、クーウェンと共同で二匹のゴブリンを仕留めた。隊総出で追い掛け回したワイルドボアを胃に収めた満足感でカリムは忘れてしまっていたのかもしれない。魔領がどうして人類種のテリトリーでは無かったのかという事を。
討伐されずに生き残っていたサイクロプスは本来持ち得ない筈の知能を有し、森の斜面から這い出ると真っ先に常備兵である十人長を呆気なく叩き潰した。その後は滅茶苦茶だった。機転の利く兵士が散開して逃げろと声を上げた途端、巨大な脚にその兵士は蹴り飛ばされ、全身の骨を砕かれて息絶えた。
そして次はカリム達の番であった。幾ら懸命に走り続けてもその差は縮まるばかり。焦燥感と身に迫る死の気配に呼吸が乱れてしまう中、遂にクーウェンが限界を迎えた。
踏み込んだ脚が、落ち葉に隠された窪みに嵌り転倒したのだ。
慌てて起き上がろうとするクーウェンだったが、既にサイクロプスの豪腕がクーウェンを捻りつぶそうと伸ばされている。
「あ、ああ!?」
頭が真っ白になり、気づけばカリムは咄嗟に槍をその腕に突き入れてしまっていた。人間、その中でも小柄な少年兵の一撃など、サイクロプスにとっては蚊に刺されたようなものでしかないだろう。しかしそれでも、ただ逃げ惑うだけの獲物に反撃された事に、サイクロプスは咆哮を以って怒りを示した。
食後間もない強烈な口臭が、ねっとりとした粘度の強い唾液と共に吐き出される、その口内には食べ残しの肉片や布切れがこびりついた。
「うっ、はぁ、はっぁ」
既に敗走は叶わない。無様に友人を見捨てて逃げ殺されるくらいなら、一矢でも報いて死んだ方がマシだった。混乱した感情が笑い声を吐き出す。もっともカリムはほぼ泣きかけていた。相手と比較するのも馬鹿らしいような細い槍が突き入れられる。
当然そんなもので止まるほど、一年に渡り討伐を生き抜いてきたサイクロプスは軟な魔物ではない。樹木を引き抜いただけの、枝や根っこが付いたままの粗暴な棍棒が唸りを上げて迫る。そうして少年二人はミンチになる……筈だった。
目を瞑って身構えた二人を待っていたのは、重く、それでいて乾いた轟音だった。棍棒の先端はごっそりと失われ、あらぬ方向に飛んでいく。
「随分はしゃいでやがるなぁ、一つ目が。俺はこいつらに用があんだよ。すり身にされたら話が聞けねぇだろうが」
現れたのは巨大な戦斧を担いだ男だった。背こそ高くないが、手足と胸板ははちきれんばかりに筋肉が盛り上がっている。
何とも異質な男であったが、それよりもカリムが眼を奪われたのは、無事な箇所を見つけるのも困難な程全身に刻まれた戦傷だ。その広範囲に渡り雑多な傷が刻まれた皮膚はまるで、全身の皮を剥ぎ取られた後に、色素の異なる複数の皮膚を無理矢理繋ぎ合わせられた様である。そのあまりに強烈な見た目は、人気の無い暗闇で見かけていたならば、一種のアンデッドだと言われても信じていただろう。
「しかし、まだ餓鬼じゃねぇか。よく生き延びたな」
巨大な戦斧の柄で肩を叩いた男が言った。
「あいつ、意外に面倒見がいいから教育しやがったのか?」
道端で独り言に勤しむ男は自分の世界に入り込んでいた。狩りを邪魔された上に存在を無視されたサイクロプスは、棍棒を地面に刺し込むと、周辺の土砂や低木を巻き込み打ち出した。
「ま、前!!」
クーウェンの絶叫が響く中、男は気怠そうに目線を送ると森の中に風が吹き荒れる。それが戦斧を振り下ろした際による風圧である事は、大地を穿つ戦斧を見るまでカリムは気づけなかった。それでも淡く発光する刃を視認し、その名前を口にする。
「《強撃》!?」
棍棒により打ち出された出来の悪い榴弾は、《強撃》と風圧により相殺されていた。
「おう、小技自慢か。サイクロプスの癖に情けない奴だ。言葉は分かるか? 図体だけの木偶の坊が。そんなんだから死に損なうんだよ。掛かってこい。俺が遊んでやる!!」
有り得ない。一つ目の巨人を相手に、人間である筈の男が真っ向から斬り合おうとしている。回避も考慮しない最上段、それも腰を落として魔物を誘う。そしてカリムは眼を疑う。無色である筈の魔力膜が色を持ち始めたからだ。
その男の言葉か態度から伝わったのか、一つ目を極限まで見開いたサイクロプスは天高く棍棒を掲げると、巨大な脚を踏み込み腕を振り下ろす。
「いいぞォ。魔物の癖に根性あるじゃねぇか。今楽にしてやるよ!!」
「う、うぉわぁあああッ」
迫りくる回避不能な一撃にカリムとクーウェンは声を揃えて悲鳴を上げ、その結果に息を呑む。
戦斧と棍棒が接触する一瞬の均衡を経て、粉砕された木片が空を覆い隠した。サイクロプスは目敏く木片越しに拳を叩きつけるが、拳から肘先までが爆ぜた。その間から男が現れると楽し気に笑い続ける。
「ああ、いいな。斬り甲斐があるじゃねぇかっ」
地面を蹴り上げて跳躍した男はサイクロプスの懐に入り込む。残る腕で叩き落とそうとするサイクロプスだが、男が戦斧を下段から掬い上げる形で振るう方が早かった。サイクロプスの指を斬り破った斧頭は止まることなく首元に吸い込まれると、一つ目の頭部が虚空を舞う。
首を失い、巨躯は僅かに動き続けるがそれが最後の抵抗だった。首から鮮血が噴き出し、森の中に血の池を作り出していく。その中から一仕事終えたばかりの男は血を拭いながら現れた。
「ははは、少し濡れちまったな」
男は腰袋から何かを取り出すと、それを噛み砕いた。それは悪名高き固焼きビスケットだった。二人の視線に気づいた男は言う。
「なんだ、食いてぇのか? そらやる。そんな身体じゃ立派な歩兵には成れねぇからな」
魔物を彷彿とさせる凶相を浮かべ、男はカリムとクーウェンに固焼きビスケットを手渡して背中を叩いた。
「んで、本題だ。ウォルムという兵士は何処に行った。昔馴染みなんだけどよぉ、アイツに俺は用がある。勿論、教えてくれるよ、な?」
血濡れの戦斧を持った男は笑みを一転させると真顔で迫る。カリムはクーウェンと顔を見合わせるが答えは出ず、ただただ困惑した。何もかも訳が分からない。どうしてこうなった。ただ一つ言えるのは、これまで知らぬ存じぬで躱せた類いの存在でない事だけは確かだった。




