第十話
口に滲むのは土塊と血の味、焼け付くような熱波がジリジリと肌を焦がす。衝撃によるものか、頭に靄が掛かったかのように思考が纏まらない。空では連なる細雲が沈み行く夕日の残光を受け、茜色に染まっていた。地上では蒼炎の太陽が夕焼けを侵食するように周囲を灯す。
「う、っぁああ、消えない。消えないィっ!!?」
「動きを止めろォおおおっ」
「正面で斬り合うな、側面を取れ!!」
人が篝火のように燃えていた。弟だったものが別の何かに変質し、兵士達へと牙を剥く。武具ごと身体を削り取られ、戦鎚に触れた頭部が虚空へと霧散する。散った肉片も《鬼火》に絡め取られ燃え尽き灰と化す。現実味を得られずに座り込み放心していたヘイズは、不意に身体を揺すられ、一人の兵士が呼び掛けていることに気付く。
「肩を嵌めてくれ。おい、聞こえているのか、ヘイズ!?」
戦友であるハワードであった。国境部でヘイズを救い出したリベリトアの兵士は、左肩をだらりと下げたまま繰り返し名を叫ぶ。
「ああ、聞こえてる」
ぼやけていた焦点が戻り、ヘイズの意識は漸く現実へと回帰した。
「筋と骨は」
「指は動く。多分、切れていない」
防具は呆れるほどの力で引き千切られ脱がす手間もない。ヘイズは手を伸ばし触診を始めた。肩の付け根に手を沿わすとあるべき場所に骨が無く、押せば指が食い込む。皮膚の下は空虚と化していた。周囲を探れば上腕の骨頭が前方に移動している。恐らくはあの異質な大鬼により脱臼させられたのだろう。
「力を抜いていろ」
肩甲骨に右手を当て、左手で上腕を掴み内転させながら押し込んでいく。苦痛により吐息が漏れ出す。ごりごりとした手応えの後、治療箇所へと視線を落としていたヘイズは、戦友がはまったばかりの肩を探るように回し、剣を握り込むのに気付いた。
「立てヘイズ、このままだと全滅するぞ」
言葉が意味するものはヘイズは理解している。三十人居た兵士も残るは十名余り、それも直に葬られるだろう。
「アレを、俺が止められるとでも思うのか」
無数の死地を経て、確かにヘイズは鍛えられた。そうでなければ流浪のハイセルク人がリベリトア商業連邦軍で中隊長など務めてはいない。だが、アレと正面から対峙するなど、質の悪い冗談であった。粘着質の蒼炎は付近の全てを灰燼に還そうとしている。近接戦闘に関しても、あの大鬼を相手に十人掛かりで押される一方だ。矮小な身で何ができる。過度な期待と言えた。
「それに、また弟を殺せと言うのか。二度も」
姿形は変わってしまったとは言え、元々は弟だったものだ。そこまで思考を回したところで、突き立てた剣の悍ましい感覚が蘇り手が震える。焦燥感を顔に滲ませていたハワードは、ヘイズの真横にどかりと座り込んだ。
「俺は、金で国に雇われた兵士だ。学も伝手もない餓鬼の頃には、この道が一番マシだと思えた。実際は違ったな。戦場なんて碌なものじゃない。敵も味方も、何も成せずに、呆気なく死んでいく。殺した奴の中には、餓鬼みたいな兵だっていた。今思えば俺らと同じ様に金か、土地か、義務か、奴らなりの避けられない何かの為に戦ってんだろうな」
雌型の大鬼との戦闘が尚も続く中で、二人の大人が並んで言葉を交える。実に悠長で場違いであった。それでもヘイズは耳を傾け続ける。
「……大暴走の噂は聞いてるか。フェリウス方面から撤退してきた部隊の奴らには、箝口令でも出てたんだろうが、人の口には戸は立てられない。飛び交う噂の一つには戦況の打開の為、大陸中央の大魔領を焼き払って大暴走を意図的に起こしたって話もあった。戦場によくある眉唾の話かもしれない。それでも有力な敵兵を殺すために、兄を生餌に使う上品な祖国だ。有り得るかもな」
元ハイセルク人であるヘイズには知らぬ話であった。信憑性が薄いか、反感や造反を警戒して伝えられていなかったのかもしれない。家族や故郷を失い、祖国が崩壊した忌まわしき原因であったが、今の状況とは結び付かない。
「ハワード、何が言いたい」
ヘイズは確信を求めて、直接的に尋ねた。
「軽薄な国に義理を果たすことはない。この騒乱だ。監視も手一杯、一人くらい逃げても発覚しないだろう。死体だってあの様だ。骨も満足に残らん……弟は忘れ、家族を連れて他国にでも逃げ延びろ。ま、言葉ほど簡単じゃないだろうがな。土地を離れるってのは難しい。分かるだろう。何せ、土地を巡ってこうして人は殺し合ってんだ。説得が駄目だったら、家族に金でも残して一人で行け。は、長い余生になるな」
長い付き合いとなったリベリトア人の言葉は信じ難い代物であった。
「お前は、どうするんだ」
「雇われた分には見合わないだろうな。それでも兵士で、リベリトア人だ。少しばかりは愛国心も、矜持もある。それにあいつらを捨てておけない。残るさ……ヘイズ、くだらない共感も、勘違いもするなよ。俺はセルタ湖を挟んだ敵対国家が弱体化するなら、意図的な大暴走も理に適ってると考えるような人間だぞ」
ハワードの本音の吐露に対し、ヘイズは懸命に思考を回す。どちらにしろそう時間は多くはない。
「正直、このまま焼かれちまえばいいと思った。俺も、全部。だが、そうだな。少なくとも俺は選べる中で選んできた。弟もそうだ。何を言っても、結局俺がしたのは謀り剣を突き立てただけだ。人や国の所為にはしない。俺はウォルムを見捨てたんだ」
「本気か? あんな形でも弟かもしれないぞ」
「弟だからこそ、一度殺しておいて、アレは手違いだったと無かったことにはしない――今となっては兄弟どちらが冥府に渡るか定かじゃないが」
ヘイズは弟を殺し、リベリトアの軍人としての道を選んだ。悍ましい血塗られた道。それでも選んだ。その責任を果たさなければならない。覚悟を固めたヘイズは魔力を練り上げ、スキルを発現させる。万象を焼く《鬼火》とは異なり、奇しくもヘイズの能力は《氷結》であった。荒れ狂う熱波と冷気が鬩ぎ合う。両者の差は顕著に出た。冷気は蒼炎に飲まれ、魔力膜が熱で揺らぐ。
ヘイズは熱気に目を細めると雌型の大鬼と視線が交差した。獲物を見定める金色の瞳が一身に注がれる。冷気と共に白い水蒸気を口から吐き出せば、ぱきぱきと音を立てて氷の刃が形成される。友兵に割り込む形で下段から振りかぶった氷剣と戦鎚が交差する。
刹那の競り合いの末、《強撃》と蒼炎を前に氷剣は呆気なく折れ散った。無数の氷片が雹のように虚空に散乱する。言葉を発するまでもなく鬼は期待外れだとばかりに戦鎚を振るう。その評価に間違いはないだろう。ヘイズには肉体を鋼の如く変える《金剛》も屑鉄同然の鈍らを業物に変える《強撃》も、中隊単位で敵を葬り得るスキルもない。大暴走という濁流に溺れ、悪足掻きで掴んだ代物に過ぎない。それでも悪足掻きは小慣れていた。
左手を核に無秩序に氷を纏い戦鎚を迎え撃つ。幾枚もの硝子が砕け散るような甲高い絶叫とともに、氷盾は打ち砕かれた。大鬼は面倒な雑草でも薙ぎ払うよう手首を切り返し、残る氷ごとヘイズの胴部を薙ぎ払うとするが、その視線がヘイズの右手を捉え、拡散していた氷へと滑る。
「ちぃ、っ」
気取られたとヘイズは手を引いた。砕けた氷剣の残骸が虚空で結び付き、その形を変える。鎌首を擡げた氷の刃が頸を狙うが、鎚頭で軌道を逸らされる。
「残念」
大鎌を投げ捨て、氷剣を再び形成させるヘイズであったが、雌型の大鬼の姿が掻き消える。身体を沈み込ませ、熱風により加速した巨躯は、矢の如き速度で飛び込んでくる。膂力差は殉職者達で実証済み。
後ろに飛び退けたヘイズであったが、完全に避け切れない。間合いを外したぶちかましですら、身に纏う氷越しに衝撃が走る。漏れ出ようとする空気と罵声を飲み込み、地面に杖代わりの氷剣を突き刺し、制動を果たす。休む間もなく連打が繰り出されようとするが、僅かばかりの時間稼ぎの間に、残存する兵員が息を吹き返した。無事な者の方が少数であるが、火傷面の外相に選ばれただけの兵であり、その動きは迅速であった。
「リーティア、甘く狙うなァぁ、撃ち続けろッ!!」
「分かっ、てるッ!!」
遠距離を主体とする魔道兵は、初動の白兵戦で意図的に食い潰された。雌型の大鬼は遊んでいるようで狡猾だ。ヘイズが気に食わない男でも女でも十全に働いて貰わなければならない。それが貴重な魔法持ちであるなら尚更だった。風の刃は回避か迎撃を強要する。一歩間違えれば、ヘイズが斬り裂かれるが不可避のリスクであった。
鉄と蒼炎の暴風を氷で工面しながら一定の距離を保ち続ける。不用意に近付き過ぎれば叩き潰され、誤射を受けかねない。かと言って過剰に離れれば瞬発力に優れる雌型の大鬼の矛先は、別の友兵に向く。
「無駄に飛び込むな。距離を工夫しろ!! レフティ足を止めるな、食われるぞ」
戦線に復帰したハワードが、肋骨を砕かれ動きの鈍いレフティに指示を繰り出す。《鬼火》により魔力と集中力を削がれていた面々は、辛うじて統制を取り戻している。焚き火に水分過多の生木を投げ入れたように、ヘイズが纏う冷気が蒼炎の火力を弱めていた。
「はぁ、っ、ぐっぅゥ」
裏を返せば身に纏う冷気を生み出す魔力の消費は凄まじく、攻防に利用する氷も溶け打ち砕かれ易くなる。拮抗状態も薄氷の上に成立っているに過ぎない。剣も、槍も、盾は数え切れないほど撃ち破られた。繰り返される氷の再形成は、魔力の欠乏を呼ぶ。切れ掛けた魔力により吐き気と頭痛が誘発される。
鈍り不自由となっていく四肢など考慮できる筈もない。融解した氷に、朱色が混じる。戦鎚が氷を蹂躙する間、両脇から二人の兵士が滑り込んだ。ハワードが頭部、レフティが脛にロングソードを叩き込む。
雌型の大鬼は伸ばした腕を引き戻す。胸部を逸らしながら上半身を畳み、足を擦るように引く。二撃はまるで擦り抜けるように回避される。揺らめく蒼炎は距離感を鈍らせているが、その根本の一つは眼の良さであった。
「これでも、駄目かッ」
ヘイズはなけなしの魔力を絞り、足元から氷樹を生み出す。熱で犯されたか細い枝はとてもではないが致命傷など望めない。蒼炎を纏った戦鎚により呆気なく薙ぎ払われる。微細な氷が蒼炎の光を帯びながら拡散する中、戦鎚を握る利き手とは逆側に回り込む。
「ふっ、っうッ」
一連の戦闘を通して、初めて大鬼の動作が遅れる。目眩しは一定の効果を発揮した。またとない好機にヘイズは臆せず踏み込む。急造の氷槍が伸び大鬼の頭部を捉える。得たのは頬への裂傷と一筋の血。ぞくりとヘイズの背筋が凍り付く。死角から伸びた一撃を寸前で覗かれていた。眼に近い頭部ではなく胴部を狙うべきであったと過ちを悔いるが、その代償は眼前に迫る拳であった。風切り音を伴う掬い上げの一撃は人の頭蓋を優に砕く。
完全な回避など望めない。身に纏う氷に傾斜を付けたヘイズは貝の如く身を固めるのみ。騎馬に轢かれたような衝撃が走る。
「ヘイズっ!?」
もはや誰の声とも判別が付かない。体躯が虚空へと浮かび上がり、前後左右も分からぬまま地面を転がる。泥を飲み込んだように呼吸が詰まり、全身が痛みを訴える。駄々を捏ねる四肢を動かし大地を確かめ、漸く平衡を取り戻す。浅い呼吸の度に胸が痛む。敵は待ってはくれない。ふらふらと戦線復帰を果たそうとするヘイズであったが、あれ程騒がしい戦闘音が止んでいた。熱風が鎮まり、残り火だけが戦場を怪しく照らす。
「なにを――」
状況を飲み込めないヘイズが尋ねる前に、事態は氷解した。雌型の大鬼の身体は表面が波打ち、まるでスライムのように不定形に揺れ動く。ハワード達は距離を置き攻めあぐねていた。敵情が不明の今、中・遠距離からの魔法の投射で探る他ない。氷像のように固まるリーティアに呼び掛けようとしたヘイズだが、沈黙を保っていた雌型の大鬼により遮られる。
「漏れたかァ、はぁ、なんとも中途半端」
詰まらなそうにぼやいた大鬼は、《鬼火》を再び膨らませて熱風を吹き出す。蒼炎に紛れながら大鬼は、その身を森陰へと掻き消した。不規則な呼吸を繰り返し、その痕跡を見つめるが、それ以上の変化はない。多くの状況は不明のままだが、一つ言えることはヘイズは命を拾った。
「何人、生きてる?」
生き残っていた兵の一人が呟いた。
「八人だ。特務小隊長もその辺で燃えてどれだかわからない」
周囲を探っていたハワードが答えた。特務小隊のうち指揮官は戦死、人の形を保つのは八人のみ。残りは等しく臭気を放ち蒼炎が燻る。
「指揮はどうする。先任のハワードか?」
肋骨を庇いレフティが判断を乞う。流れ者の元冒険者や新参である旧ハイセルク人であるヘイズを除けば、生き残ったリベリトア兵の戦歴は、ハワードが最古参であった。
「一先ずはな……指揮と言っても、このありさまじゃ逃げ帰ることしかできない」
任務の続行は既に困難と言えた。最悪に近い形での任務の失敗、不愉快な外相の顔が今から浮かぶ。
「ヘイズ、あんたの弟だか妹だかは」
「……知るか、俺にあんな妹はいない」
熱傷を負った兵士がヘイズへと尋ねてくる。弟達は居たが、あんな血に飢えた馬鹿でかい妹など、冗談ではない。
「遺体はどうするの。判別が付かない」
リーティアの言葉に暫しの沈黙が流れ、ハワードは重々しい口を開いた。
「生焼けで残っていれば頭髪か、駄目なら遺品代わりの指輪や携帯可能な装備品を拾え。この大騒ぎだ。ハイセルクの国境守備隊が駆けつけて来る。直ぐ離脱するぞ」
目に付く遺品を回収した一団は死体を残したまま村を離れていく。二度の《鬼火》を受け、故郷は完全に灰燼に帰した。後ろ髪を引かれ、雌型の大鬼が消えていった森をヘイズは眺める。幼い頃、三兄弟で走り回った庭のような森だ。次男は死に、残る三男も道を違えた。願わくば、今世で兄弟の再会が果たされないことをヘイズは切に祈った。




