ペット・セメタリー(1989)――恐怖は歳月とともに
この世で一番コワイもの?
まんじゅう?
いやいやいや。
まんじゅうはさておき、ウラワカキ頃にはよくホラー映画を観に行ったものです。
もっともっとさかのぼった子どもの頃は、とにかく怖い話が苦手で、遊園地のお化け屋敷にも入れなかった、という。
それが友人とホラーの梯子をするようになろうとは……
若い頃には、とにかく怖いと言えば悪魔、ゾンビ、化け物、血がブシャーッ、はらわたドバーッ、首チョンパッポーン、みたいな分かりやすいものが私の中では主流だったかな。
得体の知れぬモノに追いつめられ、逃げ場がなくなっていくという状況が特に怖くて。
リアルタイムでは(怖くて)見られなかった70年代という時代には、特に印象深い作品が多い気がしている。
思いつくままに、エクソシスト、悪魔のいけにえ、オーメン、キャリー、サスペリア、サンゲリア、13日の金曜日……ほかにも、SFの体裁をとったボディ・スナッチャー、エイリアンなどなど……
後になってからビデオを借りて(テープの頃)、よく観ましたよ。映画館と違って逃げ場が多いのが良かったせいか、だんだんと観ていても平気になってきたし。
ホラーについては、いつの間にか友人たちと「どこが笑えるか」「どこが恐怖以外にイチオシか」などという観点で語り合うことが多くなってきた。
そんな頃にふと、スティーヴン・キング原作のこちらが封切られると聞いて、やはりキング大好きな友人たちと観に行ったのがこちら『ペット・セメタリー』(原題は『cematary』。本のタイトルも「セマタリー」だったような気がするが映画のタイトルはカナ表記では「セメタリー」)。
当時一番のツボだったのが、なぜか、というのかやはり、というのか『パスコー』。
状況としてはとても悲惨なのであるが、けっこう親切、なかなかユーモラス、そしてどことなく渋い。元学生なのに。
しかもポスターでのあのアップ状態。私らはすっかりパスコーに夢中(?)、肝心の夫と妻と息子のどうのこうの、隣家のジャドとの友情からの悲劇という部分についてもあんがい簡単にスルー。
お話自体は原作もよかった(と感じていた)ので、ほどほどに恐ろしく、また、けっこう切なく心に刻まれる内容であった。
映像の中でも、家の脇の道路が通る大型ダンプともどもどこか意思をもつ化け物じみた印象を与えていて、インディアンの墓地と並び、映像的にもインパクト大だった。
一通りは『怖かった』という思いで観賞後、素敵なパスコーの思い出だけが妙にくっきりと脳内に残りつつさらに歳月は巡り……
案外最近、原作を読み直す機会があった。
うん、映画自体がそれなりに原作の流れに忠実だったなあ、と改めて感心したよ。
そしてずっと謎に感じていた「どうしてキングにとって発表をためらう作品となったのか」という点について、それなりに考え直してみた。
その時に、当時は映画であまり感じていなかった『恐怖』を再認識したのですわ。
歳月とともに守るべきものが増える、持ち物も家族も思いも。
しかしそれを失いそうになった時、我々はどうふるまえばいいのか?
愛するものを守ろうとするあまり、自身の世界を崩さないように腐心するあまり、この話の主人公は徐々に暗闇の底に滑り落ちていってしまう。
年長者との友情すら、彼の不幸に歯止めをかけるどころか逆に不幸へとつながって行く。
彼らのやっていることはあまりにも愚かで、哀しい。観ている側はずっとハラハラし通しで何とバカなんだこいつら、と怒りすら覚えてしまう。
しかし、このお話で一番恐怖を覚えたのは、
主人公の男じしん、自分のやっていることが間違っていて愚かしくあるということに、薄々気づいているにも関わらず、それを続けざるを得なかった、という点だろうか。
近所の幼稚園でも、朝みんなで唱えることばがあってね
「ひとつ。わるいことはすぐやめます」
ってあるけどね、すぐやめられない悪いことってのも、あるんですよねー。
まあ、『悪い』というより『間違った』事を元に戻そうとあがくのは人の常なのだろう。昔から覆水盆に返らず、ということばもあるしね。
いくら大切なものでも、いざという時にはどんなにあがいても決して元に戻せないんだよ、という事実を突きつけられた時、
人生ちょっとまん中過ぎちゃったような人びとは限りない恐怖を覚えるのであろうか。
ああ、そんなトシヨリの脇に頭蓋パックリな若いパスコーが寄り添って
「まあ、ガタガタ言いなさんな。人間なんてララーララララ」
と、にっこり、いやにっかり笑ってくれる、もうそんな妄想でしのぐしか、ないわね。
血飛沫時代のご清栄とご健勝をお祈り申し上げます。




