調理実習
書籍発売記念話・その1
発売日まであと4日!
今日はひどい目に遭った。
だからといって我輩さまからの呼び出しを断ることはできず、いつものように級長室の黒い扉を開いた。
もう夏といっていい時期だけど、中はしっかりと冷房が効いているから暑さは感じない。
廊下からの気温差に少し鳥肌が立ったけど、すぐに慣れるだろう。
「来たか」
そんな室内で、我輩さまは相変わらず真っ黒なローブを羽織っている。
時たま見かける他の組の生徒の中にだって、ローブ姿は誰も居ない。
なのに少しも汗をかく様子もなく、暑いと言うこともなく。いつも通りの格好だ。
「こんにちは。ぷーさん、起きてますか?」
「ぷ?」
午後は昼寝をしていることもあるから確認してみると、ぷーさんは天井付近をぷかぷかと漂っていた。
時刻はいわゆる、おやつの時間だ。ちょうどいい。
「ぷーさん、お菓子食べますか? 調理実習で作ったんですけど」
「ぷーっ!」
今日は家庭科の授業でクッキーを焼くことになった。
クラスメイトはキャンプ合宿でのことを覚えていたらしく、どこか警戒しながら私を見ていたように思う。
刃物は使わないし、指定された材料を混ぜて型を取って焼くだけだから危険は少ない。
班で分けたから摘まむ程度しかないけど、おやつにはちょうどいいだろう。
クッキーの入った小袋を取り出すと、大層不機嫌な声が響いてきた。
「……何故、ぷーにしか言わないのだ?」
我輩さまは手にしていた本をパタンと閉じ、机に放ってから深く息を吐く。
頬杖をついた顔は、声と同じくご機嫌ではなさそうだ。
「我輩さまは、お店で買ったおいしいお菓子のほうが好きかと思ったので」
「それは小娘が決めつけることではなかろう」
言われてみればそれもそうだ。私は我輩さまがなにが好きかなんて、あまり知らない。
口にしているのはいつも有名なお店の物ばかりだから、てっきり高級志向なんだと思っていた。
ぷーさんはいつでもなんでもおいしそうに食べているから、すごく分かりやすいのに。
「じゃあ……どうぞ」
二つある小袋の片方を差し出すと、我輩さまが怪訝そうに首を傾げる。
「小娘が持っているのは、何だ?」
「これは……」
我輩さまに渡した分は、班の人が作った物だ。といっても、生地は一緒なんだから味はなんの変わりもない。
ただ、ちょっとだけ……形が違うだけだ。
「自分で型を取ったんですけど、上手くできなくて。そしたら班の子が作ったきれいな物をもらったので。
こっちは私が責任を持って食べますから、我輩さまはそっちをどうぞ」
同じ生地を同じ道具で型を取ったはずなのに、どうしてこんなに違いが出るのか不思議なくらいだった。
形がいびつだと焼きむらも出てしまう。火はきちんと通っているけど、所々茶色く焦げてしまった。
これはこれで香ばしいけど、自分で作ったからそう思えるだけだろう。
ただ食べるんだったら、きれいでおいしい物を食べたいはずだ。
すると、椅子に座っていた我輩さまが立ち上がり、ローブの中から手を伸ばしてきた。
「その火傷は、実習で負ったということか」
どことも触れないようにしていた右手を取られ、指先を撫でられた。
ほんの少し触れただけなのに、ぴりっとした刺激がその部位を走る。
近くで見ないと分からないくらい、小さな腫れなのに……。
「うっかり、オーブンの天板を触っちゃったんです」
「小娘は本当に、注意というものを知らぬのだな」
深々とため息をつかれるけど、ちょっと痛いくらいだ。すぐに水で冷やしたから水ぶくれにもなっていない。
「そんなにひどいものじゃないですし」
だからこれくらい、平気なのに……。
「他の場所と違うと感じるのならば、それは怪我であろう。小さな火傷とはいえ、そのままにしてよい物ではない」
そう言うと、指先からじわりと薄墨色の魔力が流れ込んできた。
すぐに治癒魔術が使われ、ほんの少し余った魔力が私の身体を巡り始める。
我輩さまはすっと手を外し、代わりに逆の手で持っていた袋を取り上げられた。
「あの、それは……」
止めようとしたけど、間に合わなかった。
長い白い指がいびつなクッキーを摘まんで、小さく開いた口に放り込む。
時たまぼりっと音がするのは焦げた部分だろう。それでも表情を変えず、次に手を伸ばす。
「だから、そっちはですね……」
「我輩がこちらを選んだのだ。小娘に拒否する権利は無い」
「作ったのは私なので、権利はあると思います」
返してもらおうと手を伸ばすと、私じゃ届かない高さまで腕を上げられてしまった。
そこまでして食べるような、大層な物じゃないんだけど……。
「我輩の物が作った物を食べて、何が悪い?」
「物という扱いが悪いです」
所有物扱いは変わらないらしい。
返してくれる気配はないから、もらったほうのクッキーを一枚、ぷーさんに差し出した。
ひゅんと吸い込んで食べ、こっちは固そうな音も聞こえない。
ぷーさんにあげる合間に自分も一枚食べると、さくっとした歯触りでおいしい。
固くもなく、焦げてもいない。何も入っていないシンプルな物だからこそ、違いがよく分かる。
「……やっぱり私、料理は苦手みたいです」
「この程度なら問題なかろう。しかし刃物には絶対に触れるな」
「次の実習ではお昼ご飯を作るみたいですよ」
「火と刃物を使わぬ作業を選べ」
どちらも使わない作業なんて、なにがあるんだろう。お米を研ぐとか? それかやっぱり洗いものか。
そんなことを考えている間に我輩さまはクッキーを食べ終えたらしく、袋をくるくると丸めている。
「この先、また菓子作りはあるのか」
「どうでしょう……教科書にはいくつか載ってましたけど」
「……次があるならば、また持ってくるがよい」
我輩さまはきれいに丸めた小袋をゴミ箱に入れながら、小さく呟いた。
そう言われても、クッキーですらこの状況なんだから、次こそ上手くいくとは考えづらい。
あんまりな出来だと、持ってくるのは気が引けそうだ。
「上手くできることがあったら、持ってきます」
「上手く出来ても出来なくても、だ」
それは嫌だ。わざわざおいしくできなかった物を食べさせるなんて、嫌がらせだろう。
なのに我輩さまの意志は固いらしい。何度断っても折れてくれなかった。
我輩さまは再び本に目を落とし、ぷーさんもぷかぷかと宙を漂いだす。
私も手元の小袋を片付けようとすると、クッキーが一枚だけ残っているのに気付いた。
「我輩さま、もう一枚食べますか?」
小袋を差し出すと、ちらりと視線を向けてすぐにまた本へと戻った。
「いらぬ。何処の誰が作ったとも分からぬ物を口にはしない」
「私の組のクラスメイトが作った物ですよ。そもそもさっきのだって、生地はみんなで作りました」
「これ以上食べたら夕食が入らぬからな」
私の意見は気にしてくれないらしい。ただ、確かにたくさん食べると夕飯の時間も近いしよくないか。
最後の一枚はぷーさんに食べてもらうとして、私ももうやめておこう。
「次は、もう少し頑張ってみます」
「怪我をせぬことを第一にな」
何度も言わなくても分かっているのに。よっぽど信用がないらしい。
ぷーさんがクッキーを食べ終わって、満足そうにぷかぷか漂いだした。
私も我輩さまと同じく小袋を捨てて、自分の椅子に座る。
「今日はなにをしますか?」
「特に無い」
「じゃあ帰りますね」
「それは許さぬ」
仕事がないけど帰さないって、どうしてだ。ここで無意味に時間を過ごすくらいなら、寮に戻って宿題をしたいのに。
そう言うと、我輩さまは本から目を離さずに言葉を続ける。
「勉強ならば、ここでやればよかろう」
「まぁ、そうですけど……」
どこでやっても同じではあるけど、だったらここでやらなくても……。
そう思ったけど、わざわざそれを言っても無駄な気がする。
だったらおとなしく、言われた通りにしよう。
「分からないことがあれば聞くがよい」
と言われても、そこまで難しいものは出されていない。
結局、下校のチャイムが鳴り響くまで級長室で過ごすことになった。




