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我輩さまと私  作者: 雪之
本編

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27/50

6-2.殺意

 冷たい。

 身体の半分と、顔の半分が、冷たい。

 視界は薄暗く、どうやら蝋燭の明かりだけが灯っているようだ。

 ここは……どこだろう。

 暗さに慣れていた目で周囲を見回すと、離れた所に黒色のレンガ造りの壁が見えた。

 私は今、手足を縛られ、床に転がっているらしい。冷たくて当たり前だ。

 この季節に、この格好で、こんな場所に寝転がるなんて、本当に凍死する可能性がありそうだ。

 体温が奪われるのを防ぐ為どうにかもがいて起き上がると、背後に扉が見えた。

 壁の真ん中にある、黒い、金属の扉。ドアノブは鈍い銀色に光ってる。

 たまたまだろうか。それとも、やっぱり……


『―――――。』


 扉の外から気配がする。

 さっきの格好に戻ったほうがいいかと考え、あまり意味を感じなかったからそのまま座っていた。

 軽い足音はゆっくり続き、扉の前で止まった。

 高い軋みを響かせながら開いた先に居たのは……女の子、だった。


「…………」


 広い部屋の中央と、壁際の扉。

 距離としては結構なものだろう。少なくとも会話するような位置ではない。

 ただ、その女の子は口を開くことなく、じっと私を見ている。


 真っ黒で繊細な、凝った作りのワンピースを着て。

 長い長い、灰色の髪を背中に流して。

 真っ白と言うより、青白い肌を蝋燭の明かりに照らして。

 薄い唇を真一文字に引き結んで、真っ黒な瞳で、ただひたすらに見ている。


「……なにか」


「…………」


 久しぶりに出した声はひどくかすれていたけど、意味は通じただろう。

 けど、女の子はやっぱり口を開かない。

 なんというか……人形じみた女の子だ。

 鼓動も体温も低く、魔力もほとんど感じられない。

 といっても、私がしっかりと感知できるのは限られているから、最後のは気のせいかもしれない。


「ここは、黒峰の家ですか?」


「…………」


 最後に見たのは、黒峰の者だった。

 そう考えると自ずと、選択肢は限られるだろう。もしかしたら本家ではなく、他の家かもしれないけど。


「私は、捕まってるんですか?」


「…………」


 手足を縛られていながら捕まっていないと言われたら、じゃあなんなんだと言いたい。

 答えが分かりきった質問なのに、やっぱり無言のままだった。

 きっと、答える気が無いのだろう。捕まえた人間に情報を与えてくれるなんて、あるはずがない。


「…………」


「…………」


 答えが無いのなら、口を開いても仕方が無いか。

 そう思って視線を返していると、一瞬、重心が後ろに傾いた。

 後ずさり……なのか。


「私が怖いですか?」


「…………」


 自覚は無かったけど、私の顔は怖いのだろうか。

 反応を見たいけど、女の子の顔に表情は浮かんでいない。

 この部屋に来てから一切の表情を浮かべないのは、元から感情が薄いのだろうか。

 そうならば少し親近感が湧く。湧いたところで、何にもならないけど。


『―――――。』


 遠くで小さな足音が響いた。

 もしかしたら、この部屋に向かっているのか。

 それとも、この女の子を迎えに来たのか。

 ぴくりと身体を揺らすと、来た時と同じように高く軋む扉を開け、するりと出て行った。


「……なんだったんだろ」


 独り言が嫌に響く。

 広くて、寒くて、一人で。

 せめてもっと部屋が狭ければ、まだ問題なかったのに。

 ゆっくりと部屋の角に移動し、膝を抱えて暖を取る。

 時間すら分からないこの場所で、あとどれくらい居ればいいのか。

 死ぬ前になにか起こって欲しいと願うのは、捕まってるという自覚が足りないのかもしれない。



 断続的な眠りを経てようやく意識がしっかりすると、扉の前にトレーが置いてあることに気付いた。

 一応、餓死させる気は無いらしい。

 視力と嗅覚を強くして確認すると、固そうなパンと冷たそうな水だった。

 凍死させる気はあるんだと思う、多分。

 空腹ではあるけど、手足を縛られた状態で遠くまで動き、それで得られるのが体力と体温を奪いそうな飲食物ならばいらないだろう。

 人間、水が無くても三日は生きれると聞いたことがある。

 だからとりあえず、今はじっとしていよう。

 

 次に目覚めた時は、扉の外からたくさんの気配を感じた。

 しっかりした足音は隠す様子も無く、物がぶつかる音が聞こえるから何かを持っているんだろう。

 高く軋む扉をいっぱいに開き、最初に入って来たのは銀色の台車だった。

 その上には同じく銀色の器具がたくさん乗せられている。

 病院で見るそれらは、医療道具なんだろう。それに続く白衣姿の大人からも、それは分かった。


「ようやく目覚めたか? 図太い神経をしている!」


 白衣の群れの奥から現れたのは、浅黒い肌の身体を黒いスーツに押し込めた、大層ふくよかな男だった。

 てかてかとした額はだいぶ後退していて、それなりの年齢なんだと伺える。

 多分、この中では一番偉いんだろう。

 大きな声でがなりたて、広い部屋にこだましているにも関わらず、注意する人は居ない。


「ここがどこだか分かるか?」


「……分かりません」


うぬは頭が悪いな! わしが誰だか分からんと!」


 ガラガラと喉に引っかかるような声は、多分お酒とか煙草とかの影響なんだろう。

 不摂生これに極まり、とでも言えばいいのか。

 身体からうっすら流れる魔力も、ドロドロと濁っていてもはや何色かすら分からない。


「儂は黒峰の当主の妹を嫁に持つ男だ! つまりは黒峰本家の人間だ!」

 汝、名前は何だ!」


 当主の妹の夫。つまり黒峰の血は引いていないんじゃないか?

 なのに本家の人間だなんて言っていいのか。

 いや、ここにはそれを指摘する人間なんて居ないんだろう。


「……名前を教えてはいけないと、言われています」


「言え! 儂を誰だと思っているっ!」


 入り婿さんです、と言ったら怒られるんだろうな。

 年齢で言えば断然この人のほうが上だけど、血を重視する家ならば我輩さまのほうが上だろう。

 だから私は、我輩さまの教えに従う。


「小癪なっ……医者ども、始めろっ!!」


 太くて短い腕をぶんと振ると、それに従うように白衣の人たちが動き始めた。

 顔の半分をマスクで覆っているから、表情はほとんど読めない。

 ただ淡々と、私を固いマットの上に運び、縄を解いて改めて拘束具を付けていく。

 太い皮で作られているらしいベルトは、私なんかの力じゃ解けないだろう。

 両手両足を四隅に伸ばされ、一切の動きが出来なくなった。


「後悔してももう遅い! 黒峰に擦り寄る馬鹿者を、ここで暴いてやる!」


 ああ……またか。

 私が我輩さまに近付くことを、よしと思わない人間はとても多い。

 学園内での陰口や嫌がらせなんて、今思えば可愛いものだ。

 本当に厄介なのは、強い悪意と力を持っている人間だ。


 一人の医者が注射器を取り出し、迷い無く針を刺す。

 からっぽの注射器にどんどん血が満ちていき、それをすぐさま試験管に落としていく。

 真っ赤だったはずのものは、一瞬で黒に染まる。

 これは確か、見たことがある。前に受けた、魔素を測る検査と同じだ。

 でも私が受けた時は何の変化も無く、その場で無属性と判断された。

 なのに、今は黒くなった?

 医者が男にひそひそと耳打ちし、訝しげな表情に変わる。

 それはそうだろう、黒峰に相応しくないと言っていたのに、黒になってしまったんだから。


「それは若様の魔力ですわ、お館様」


 開け放たれていた扉から、また一人の人間が現れた。

 緩やかに波打つ長い長い黒髪と、豊満な身体に白衣を纏わせている。

 見たことがある人だ。


「ねえ、音無弥代子さん?」


「……級長室に入ってきた人、ですか?」


「よく覚えてたわね。色に狂った女は敵を忘れないものかしら?」


 それはこっちが言いたい台詞だ。

 だってそれは、我輩さまがこの女子生徒に言っていた言葉だから。

 私が補助役になる直前に、我輩さまの部屋で起きた騒動の原因。

 黒峰の分家だと言っていたか。


「おお、お前か! おいそこの、その名を調べ上げろ!」


 一人の医者が足早に出て行った。

 調べるといっても、どこまで調べられるのか。

 なんなら私の親までたどり着いてしまえば面白いのに。

 そんな現実逃避にも等しいことを考えていると、難しい顔の医者が様々な試験管を取り出して、血を落としていく。

 そのどれもが黒く染まり、我輩さまの魔力の濃さに改めて感心した。

 最近我輩さまの魔力を注がれたのはいつだったか。冬休み中だったか、それより前だったか。

 そんな前のものが残っているなんて、治癒魔術の残留魔力にしては影響が強すぎる。

 もしかしたらずっと近くに居るから、少しずつ蓄積していたのかもしれない。


「排出薬漬けにしろっ! 明日また調べ、それでも駄目なら肉でも骨でも削ぎ落とせっ!!」


 激昂に近い大声をあげ、男は出て行った。それに続いて女子生徒も出て行ったから、ここには私と医者たちしか残っていない。

 理不尽な態度になにか表情でも浮かぶだろうかと思ったけど、医者はまた淡々と手を動かし、太い注射器で透明な薬を打ち込んだ。

 血管と、筋肉と、何度も打ち込んでから最後に錠剤を飲まされた。

 まさしく薬漬けなんだろう。体内を不思議な感覚が駆け巡っている。

 薄墨色が、遠ざかる。

 強い喪失感につられるように、またも意識が遠のいた。



 もう、何度目の目覚めだろうか。

 時間の感覚がとうの昔に狂ったから、せめて時計でも置いていって欲しい。

 窓の無い部屋では光を頼りにすることすら不可能だ。


 ゆらゆら、ゆらゆら。自分の中で何かが揺らいでいる。

 薄墨色の魔力がどんどん消えてようやく、それが感じられるようになったのかもしれない。

 バッジの中身と同じそれは、私自身の魔力なんだろう。

 少なくて、薄くて、不安定。こんなものなら、我輩さまの魔力が浸透してしまうのも当たり前だ。

 このまま全部消えてしまうのか。

 本来それが普通なのに、今はそれが……辛い。

 薄墨色が離れてしまうのは、嫌だ。


 相変わらず揺れる蝋燭の光をぼんやりと眺めていると、扉の向こうで音がした。

 高い軋みと共に入って来たのは、女の子だ。

 今日も同じように、真っ黒なワンピースを着ていた。


「……今、何時ですか?」


「…………」


 試しに聞いてみたものの、やっぱり答えてくれないか。

 ……いや、この感覚はちょっと違う。もしかしてこの人は……


「喋れない、ですか?」


「…………」


 声も表情も変わらないけど、一瞬、視線が揺らいだ。

 きっと、そうなんだろう。ついでに、私以上に感情表現が不得手なのかもしれない。


「じゃあ、数を数えるので、目で教えてください」


 零から順に数えていくと、十三のところで静かに瞬きをした。

 午後一時。寝坊にも程があるだろう。

 けどそこは、医者の問題とでも思っておこう。私のせいではないはずだ。

 疲れなのか、それとも薬のせいなのか、身体に力が入らない。

 それが分かっていたのか、手足の拘束は外されていた。

 我輩さまの部屋からつれてこられたのだから、当たり前ながら制服だ。

 灰色のブレザーは埃にまみれ、白いブラウスは砂か土かで汚れている。

 真っ黒の綺麗なワンピースと比べると、かなり見栄えが悪い気がする。

 そんなことを気にする人間は、この場には居ないけど。


「…………」


 この女の子は、何の用で来てるんだろう?

 何も言わずにただ観察してるだけ……なのか?

 それにしてはどこか違うような気がするし、私の質問に答えてくれるのも変だ。

 そもそもこの女の子は、何者だろう?

 ここは多分、黒峰に関係する場所だろうし、黒の関係者なのか。

 灰色の髪と真っ黒のワンピースは、正しくそう思える。

 けど……私の思い違いというか、力不足なのかもしれないけど……


「あの、もしかして……」


『――――――。』


「…………っ!」


 外から足音が響いてきた。

 たくさんの気配と共に響く物がぶつかる音からして、医者たちだろう。

 とても近い場所から聞こえるから、もうすぐ近くに居るのかもしれない。

 それに女の子も気付いているようで、少し目を見張り、うろうろと扉の前を歩き始める。

 ここに来ているのが見つかると、まずいのだろう。


「壁際に移るので、反対側に居てください。あとは隙をついて自分でどうにかしてください」


 床を這うように、壁の真ん中にある扉から見て左の壁際に移動すると、女の子は右側にぴたりと張り付く。

 明かりは蝋燭だけだし、こちらに注視していればすぐには気付かれないだろう。

 それ以降はもう、私には何も出来ないしする義理も無い。

 高く軋む音と共に、前に来た医者たちと、ふくよかな男と女子生徒が現れた。

 扉の奥の廊下も蝋燭の明かりしか無いらしく、やっぱり外の様子は分からない。


「汝は、無属性の小さな家の一人娘のようだな。

 聞いたことも無い名前だからここまで調べる必要もないだろうが、念には念を入れる!

 もしまた不埒な者が黒峰に近付くとも分からんからな!」


 よく分からない理論だけど、結局私はまた調べられるらしい。

 女子生徒がやけに満足そうな表情をしてるから、ただいたぶってるだけかもしれない。

 さすがに飲まず食わずで血を抜かれ続けると、身体に水分が足りない。

 けど、この集団から出されるものを口にするのはよくない気もするから、我慢するしかないだろう。

 またしても注射器で血を採り、試験管に落とす。

 壁にもたれてそれを見ていると、医者たちの背後で黒い塊が素早く動いた。

 女の子は無事、逃げ出せたらしい。

 その間に結果は出たらしく、試験管の中はまたしても黒く染まった。

 まだ、私の中に居てくれているらしい。


「ええい、忌々しいっ! どれだけ黒峰の魔力を受けているのだ!?」


「お館様、きっとあの石ですわ。あの中に若様の魔力がこもっているはずです」


「なにっ!? 医者ども、それを外せっ!!」


 ブレザーに付いたバッジ。その石には……私と、我輩さまの魔力が入ってる。


「…………だめ」


 もう、身体が重くて動かない。

 腕を上げることも、足を動かすことも出来ない。

 なのに、白衣の集団は、私のものを取ろうとする。

 だめ。これは、だめ。取っちゃ、だめなのに。


「そう、それだ! 寄越せ!」


 取られた。

 薄墨色が、遠くなる。身体の中からも、血と一緒に居なくなる。

 バッジは男の手に渡り、まじまじと見てからニヤリと笑い、私のほうに差し出す。

 返してくれるのだろうか?

 惹かれるように指を伸ばすと、そのすぐ先に叩き落された。

 レンガ造りの床にぶつかれば、いくら魔力がこもっていたとしても石は石。

 高い高い、楽器のように透き通る音を立てながら、砕けた。


「ハッハッハッ! 何だその顔は! そんなに黒峰との縁が切れるのが嫌か!?

 安心しろ、殺しはしない! 一生黒峰に近付けないだけだ!」


「…………」


「若様のことは忘れなさい。補助役には、黒峰が就くわ。

 ねぇお館様、わたしを推薦してくださらない?」


「いいだろう! 灰里はいりの邪魔をしなければそれでいい!

 あくまで正妻は灰里と弁えればな!」


「若様の近くに居れるだけで、十分ですわ。

 こんな……色気の無い、力も無い、常識も無い女になんて若様の隣を任せられません」


「やはり黒は黒で縁を結べばいい! 今までそうしてきたから、これからもな!」


 男の汚い笑い声と、女子生徒の甲高い笑い声と、何の反応もせずに作業を進める医者と。

 なんだ、ここは。

 まともな人間は居ないのか。

 黒峰? 黒? 色?

 そんなもの、教えられるまで知らなかった。

 私は、黒峰と繋がりたいんじゃない。

 私は…………我輩さまと、繋がっていたいのに。


「なんだ、まだ残っていると! 手段はなんでもいいからさっさと終わらせろ!」


 動かせない視界の隅で、ほんの少し黒く濁った試験管が見えた。

 赤黒い、静脈から採ったような色は、感じ取れないくらいわずかに残った魔力らしい。

 本当に、長い間一緒に居たんだって、気付かされる。

 過保護だって思ったけど、守られてたんだ。

 最初の女子生徒の時も、嫌がらせの時も、キャンプも、夏休みも、学園祭も。

 ずっとずっと、自分の身体に無頓着な私を、大事に大事に守ってくれてた。

 その証が、これなんだ。

 いつまでも消えない薄墨色の魔力。

 我輩さまの色。我輩さまが持ってる色。


 男の叱責に少しの焦りでも感じたのか、医者たちの動作が荒くなっていく。

 床にうつ伏せに押し倒し、ブレザーとブラウスをめくって背中を晒す。

 冷たい床に低い気温。だから、凍死するとか思わないのか。

 聴覚すら緩慢になっていき、周りのものがぼんやりとしか分からなくなってきた。


「麻酔? 五感操作を持つらしいからいらないだろう!」


 空っぽの注射器の針が見える。

 だから、違うんだって。

 五感操作が出来るなら痛みなんて感じない、なんてことはない。

 あくまで私に出来るのは表在感覚の操作のみ。

 皮膚と粘膜、それだけ。

 だからそれ以上中に入れば、普通の人間とまるきり同じなのに。

 骨が折れれば痛いし、表皮の奥まで傷がついても痛い。

 それを理解しない人は多く、だから加減をしない。

 手足を掴まれ、腰を膝で押さえつけられ、一切の動きが出来なくなった。


「――――――っ!!!」


 太くて冷たい物が背中に刺さり、ずぶりと入り込んでくる。

 皮膚を、肉を、骨を突き刺し、身体の芯まで到達した。

 痛い。骨折なんて比較にならない。痛い。冷たい。痛いいたいいたい。

 背骨の先端まで痛みが響き、呼吸すらしたくない。

 力を入れれば痛くなるのが分かってるのに、痛いから力が入る。悪循環。

 息が詰まる。喉が詰まる。元から回らなくなっていた頭が更に鈍くなる。


 冷たい物はまだまだ居座り、そこからも体温を奪われてしまいそうだ。

 押し付けられるレンガの床も、押さえつける医者たちの手も、全部全部、冷たい。

 冷たくて寒くて苦しくて辛くて虚しくて寂しくて悲しい。


 なんで、こんなことになってるんだろう。

 なんで、こんなことをされてるんだろう。

 なんで、こんな目に会わなきゃいけないんだろう。


 ぽつっと、水の落ちる音がした。

 誰かが何かを落としたのだろうか。

 この仕打ちはいつまで続くんだろう。拷問なんじゃないか。

 こんなにまでして何を調べたいんだ。

 ぽつぽつと、音は続く。


 私はただの、少しだけ魔力を持つ人間で。

 属性持ちと違い、色を付ける能力が無くて。

 だけど、黒の級長と魔獣に目をかけられて。

 それのどこが悪いんだろう。それのどこに責任があるんだろう。

 私も我輩さまもぷーさんも、ただ普通に学園生活をしているだけなのに。

 なんで大人が、それを邪魔するんだ。

 ぱたぱたと、音が強くなった。


「さすがに髄液は染まっていないか! こんな手間は面倒だから採れるだけ採ってしまえ!」


 ああ、なるほど。骨髄に麻酔なしで針を刺したのか。

 なら痛くて当然だ。当たり前だ。普通だ。


「痛みを感じないくせに、泣くの?」

 

 女子生徒が嘲るように言う。

 泣く……?

 ぱたぱたぱたと続く音は、私が泣いている音だったらしい。

 目だけを動かすと、私の顔の下が少し濡れていた。


「それともそれで若様を誑かしたの?」


 女子生徒が睨みつけて言う。

 誑かす、と。

 愛とか恋とか、好きとか嫌いとか、そういう感情に疎かった我輩さまを?

 私と同じで、自分のそういう感情が分からなかった我輩さまを?

 ありえない話だ。

 あんなに、純粋で子供っぽくて真っ直ぐな感情を持つ我輩さまに、そんなこと出来るはずないじゃないか。

 そんな我輩さまに私は……何も返せていないのに。

 学校支給の革靴が、私の手の甲を踏みつけた。

 体重をかけてぐりぐりと捻り、当たり前に皮膚が裂ける。

 採られ続けて少なくなりつつある血が、裂け目からとろりと溢れた。

 もったいない。私の血はあとどれくらい残っているんだろう。

 背中の痛みも、手足と腰の拘束も、手の甲の重みも、いつまで続くんだろう。

 永遠に続くのか。死ぬまで続くのか。もういっそ、終わらせて欲しい。

 死にたくないとは言ったけど、死にたいくらいに辛い。


「わがはいさま……」


 女子生徒の罵声と、男の笑い声と、金属が重なる音と、人が動く気配と、たくさんの音が遠くなっていく。

 気を失うのか。こんな場所でとなると、本当に駄目かもしれない。

 殺しはしないといってたけど、死なせはしないとは言ってなかった。

 これで、最後か。

 目を閉じると、遠く遠くで魔力を感じた。

 物理的に遠いのか、弱いから遠いのか。

 いや、すぐ近くだ。私の腕だ。

 体内の魔力がほとんど無くなり、やっと感じられるようになった。

 小さな小さな、薄墨色の模様。腕に施された、我輩さまの陣。

 全部全部居なくなってしまったと思ったけど、そういえばここに居るんだ。

 これに思えば、伝わるだろうか?

 我輩さま、ごめんなさい。卒業までお手伝いするって話、無理そうです。

 何十年かしたら、向こうで会えるといいですね。お先に失礼します。


『――――――。』


 音が遠くなる。


『――――――。』


 気配が遠くなる。


『――――――。』


 意識が遠くなる。


『――――――。』


 今更だけど、我輩さまにちゃんと……伝えておけばよかった。


「誰だっ!?」


 意識を手放す寸前、扉が開く高い音がした。

 今までずっと偉そうにしていた男の、焦ったような怒鳴り声もした。

 さっきの女の子だろうか? いや、違う。

 扉が開ききる前から押し寄せてくる魔力は、私のよく知っているものだ。


「…………そこで、何をしている? 叔母婿よ」


 低い声と共に、膨大な魔力が押し寄せてくる。

 濃い、濃密な、薄墨色。


「若殿……っ!?」


「答えろ。そこで、何をしているかと、聞いておるのだ」


 見なくても分かる。

 ゆらゆらと、じわじわと、こんこんと。

 感情の昂ぶりで、身体からにじみ出る魔力。

 声も魔力も、怒りがこもっている。


「これは……っ!」


「”全員、跪け”」


 ぐしゃりと音を立てて、人間が床に押し付けられた。

 元の体勢そのままでの命令は、人間の構造なんてお構いなしに行使される。

 間接が曲がるのならばまだましなほうだ。

 いたる所から骨が折れる音が響き、悲鳴が上がる。

 そんな不協和音を縫って足音が進み、私のすぐ側で止まった。


「…………弥代子」


 頭上から聞こえる声は、さっきの呪文とはまるで違う、震えた声だった。

 弱くて頼りない、こぼれるような声に答えたいのに、身体を動かすことが出来ない。

 いくら医者たちの拘束がなくなったとはいえ、他の要因がありすぎる。

 寒さと貧血で身体が固まり、その上痛みは継続している。

 医者が全員倒れたなら、注射器はどうなっているんだろう。

 もしかしたら、刺さったままかもしれない。

 それに気付いたのだろう。神経が集中していそうな場所の針を、素人が抜くのも難しいはずだ。

 一番近くの医者にそれを抜くよう命令している。

 身体の芯に刺さった冷たい物は、ようやく居なくなった。

 だけどもう、寒くて冷たくてどうしようもない。


「弥代子……」


 答えたいのに、答えられない。

 うつぶせの身体をゆっくり返されたので、瞼に力を込める。

 開け。視界を開け。じゃないと、見れないじゃないか。

 蝋燭の明かりだけの室内が、今の私にはとても眩しい。

 その眩しさを遮るように、真っ黒な姿が私を見下ろしていた。

 ああ、いや、真っ黒ではないか。なぜかいつものローブを着ていない。

 それどころか、きっちり着ているはずの制服は乱れて汚れている。


「生きて……いるか」


 ゆっくり瞬きを返すと、ほっとしたように息を吐き、私の頬に手をあてた。

 熱い手の平から、じわりじわりと体温が伝わってくる。

 あったかい……寒くて冷たいのに、そこだけが温かい。


「別の医者がすぐに来る。それまで、意識を保つのだ」


 それはなかなか難しい話だ。

 どうにかこじあけた瞼は気を抜けば下りてしまうし、頬の温かさにほっとしたのか、身体の力が抜けてしまった。

 もう、意識を、手放したい。

 温かい気持ちになれた今なら、後悔しないかもしれない。

 ああでも、他人の呻き声の中は嫌か。


「わ、若……様……」


 すぐ近くから、女の声が聞こえた。

 私たちと同じ制服姿の、女子生徒。

 手の平を踏みつけていた姿勢から、うつ伏せに倒れたようだ。

 長く波打つ黒髪は乱れ、頭から流れた血によって顔にへばりついている。

 もがくようにこちらに向かってくる様は、鬼気迫っていて恐ろしい。


「貴様は、以前の雌か」


「お、覚えて……いらっしゃったのですね……!

 嬉しい、です……若様っ!」


「この件に関与しているのか」


「はい! 若様をお守りする為に、お館様の命を受け……」


「あの時処分しておくべきであったな」


「え……」


 恍惚の表情から一転、冷たい視線を向けられた女子生徒はその場で固まった。

 怒りによって溢れる魔力は、それだけで周囲を威圧する。

 医者たちは我先にと部屋の隅へ逃げ這いずり、中心に居るのは四人だけだ。


「若殿っ! これは若殿を思ってのことだ!

 黒峰に擦り寄る虫を排除する為にっ!!」


 男は丸い身体を床にへばりつけたまま顔を上げ、必死に叫んだ。

 ここに来た時からずっと、言っていることが変わらない。

 きっと男にとってはそれが唯一絶対に正しいことなのだろう。


「…………もう、よい」


 ぽつりと呟いた。

 恐怖の表情を浮かべる男と、愕然とした表情の女子生徒に、冷めた視線を送る。

 その言葉の意味がはかれず、続きを待った。


「何が黒だ。何が本家だ。もうよい、こんなもの。

 ……こんな血など、絶えればよいのだ」


「わ、若殿っ!?」


「ああ、そもそも貴様は血すら引いておらぬな。

 叔母上に縋りついて入り込んだ者が、何を大きな顔をしておる?

 貴様こそ、黒峰に擦り寄る虫ではないか。ならばよかろう?」


 温かい手が離れ、立ち上がる。

 薄墨色の魔力は溢れ続け、部屋を完全に支配した。


「殺しても、よかろう?」


 ぞくりと、背筋の凍る声が響いた。

 完全な無の表情で、黒い瞳だけが、紫色の虹彩を爛々と光らせている。

 意識せずとも見える薄墨色の魔力が、倒れた人間全てに覆いかぶさった。

 それを理解している者は怯え、理解していない者でも怯える。

 前者は魔力に、後者は威圧に。

 全ての人間が恐怖を理解したところで、不思議な響きの呪文が始まった。


「”――――――”」


 私には理解できない言葉は、数人は分かっているらしい。

 更に恐怖の表情を強め、顔面から大量の水分を流している。

 顔面を打ち付けて流血している人間も多かったから、見るに耐えない顔だ。

 そんなのを気にすることも無く、不思議な呪文は続く。


「”――――――”」


 数節ごとに魔力が蠢き、その度に状況は変わっていく。

 ある人間はもがき、ある人間は喉を掻き毟り、ある人間は頭を抱える。


「”――――――”」


 また数節。

 もがいていた人間は痙攣を始め、掻き毟っていた人間は皮膚を破り、抱えていた人間は床に打ち付ける。

 無表情で、無関心に、無感情に続く光景は、もはや人間業ではない。


 本当に、殺してしまう。

 その為の、呪文なんだ。


 黒色のレンガに広がる血は、黒色にしか見えない。

 黒く濡れる範囲はどんどん広がり、こちらにまで迫ってくる。

 猶予はもう無いだろう。


 動け。動け。動いて。動いて。

 今だけ。少しだけ。腕だけ。

 お願いだから。お願いだから。動いてください。


 死なせちゃいけない。

 殺させちゃいけない。

 そんな我輩さま、見たくないから。


「”――――”……っ」


 腕を伸ばし、裾に触れる。

 それだけで気付いてくれて、呪文が止まった。

 高い場所にある顔は、表情を取り戻した。


「……だめ」


「…………何故だ。お前を、こんな目に合わせた輩なのだぞ」


 それだけで殺していいなんて、そんな理屈は通らない。


「ここで殺したところで、何も問題など起こさない」


 それは魔力持ちの偉い人のことであって、一般社会では決して許されない。


「もう、お前を……辛い目に合わせたくないのだ。

 だから、こんな輩は……こんな家は……いらぬ」


 そんな、泣きそうな顔をして。

 いつもの偉そうな、不遜な表情はどこに行ってしまったのか。

 苦しそうで辛そうで虚しそうで寂しそうで悲しそうで。

 我輩さまにそんな顔、させたくないのに。

 もう一度手を伸ばそうとして、失敗した。

 さっきのが本当に最後の力だったらしい。

 崩れ落ちた我輩さまの身体に、触れたかった。

 どうしてかは分からないけど、触れたかった。

 温かい手の平に、触れたかった。


 遠くから、呻き声とは違う声が響いたところで、私の意識は黒くなった。

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