3-2.無の級長
朝から綺麗に晴れ渡り、天気予報では夏日になるとのことだった。
山の中のキャンプ場という話だから、体感気温はそれより低くはなるだろう。
何年も前の学校行事でしか体験したことがないから、それが正しいかは分からないけど。
みんな揃って大きな荷物を背負い、組ごとにバスに乗り込む。
ちらりと他の組の様子を伺うと、やっぱりそわそわと落ち着きが無かった。
服装は学校指定のジャージ。鞄だってそうだ。
なのにその格好で校門から出るというだけで、変な気分になるから不思議だ。
私の組がバスに乗り込むと、一番前のバスから発車し、ぞろぞろとそれに繋がっていく。
ぐねぐねとした山道を下り市街地に出ると、なんだか少し懐かしい気分になってくる。
私が通っていた学校はここより更に離れていて、見慣れた光景というわけではないのに。
山の上の景色ばかり見ていると、こういう人工物に塗れた景色が恋しくなるのだろうか。
そんな感慨にふけっていると、隣の席からお菓子が差し出された。
昨日の夜、それぞれおやつを持ち寄ろうという話になったやつだろう。
お返しに私もお菓子を差し出し、こぼさないよう気をつけながら食べることにした。
購買で売っているものしか買えないのだから、どれも見慣れたものばかりなのに、どうしてかやけに美味しく感じた。
バスの中で大してはしゃぐ時間も無いくらい、キャンプ場は近かった。
山を下りて平地を走って山を上って。標高は学園の場所のほうが高いくらいで、正直あまり感動というのは無い気がする。
荷物を背負ってしばらく歩き、広々としたキャンプ場へ着いた。
細く長く作られた平地は砂利で覆われ、すぐ脇には綺麗な川が流れている。
丸い石がごろごろした、水底がはっきり見えるくらいに澄んだ水だ。
触ると冷たいんだろうなと思いながらも、まずは荷解きとテントの設営から始めることにした。
私の班には力自慢の人がいて、その人をメインにして進めればあっという間だった。
というか、どの班にも肉体操作の能力を持った人が配置されているから、無属性はどこもすぐに終わってしまう。
遠くの属性持ちの組はまだもたついているようで、こういう時だけは無属性も悪くないと思う。こういう時だけ。
なぜならこの後の食事作りでは、属性があったほうが確実に速く終わるからだ。
火を起こしたり水を汲んだり、そういう作業を人力でするのは結構大変だろう。
でも、キャンプってのはこういうものなんだと思い、マッチの火種を大きくすることに専念することにした。
火が落ち着けば次は食材だ。
作るものは定番のカレー。失敗してもそこまでひどくはならないから、と言われたけど、そもそも私は料理をした記憶が無い。
調理実習程度か。
男女比が半々だから、男子は力仕事、女子は台所仕事と分担をし、支給された野菜を相手に包丁を握る。
ジャガイモ……確か、芽に毒があるから取り除かなきゃいけない。問題はどう取り除くかだ。
包丁の先は尖っていて、抉るのには丁度いいだろう。早速ジャガイモをしっかり握り、包丁を突き立てた。
「包丁禁止! 野菜洗ってきて!!」
包丁はジャガイモを通り過ぎて、私の手の平に刺さった。
予想していたのかすぐさま担任の先生が飛んできて、治癒魔術をかけてくれる。
おかしい、何でこんなことになったんだ。
班の女子にはイモ洗いを命じられ、渋々冷たい川の水で汚れを落とすことにした。
もちろん、クラスメイトは私を案じてそう言ってくれている。それは分かる。
ただ、あと何回か突き立てれば芽は取れたと思うのに。
その内授業で調理実習をやるだろう、その時には克服できるようにしよう。
その後、料理上手な班員により調理が進められ、一時間後にはそれはそれは美味しそうなカレーが出来上がった。
男子が担当したご飯は少し焦げたものの、ほぼ問題なしといった具合だろう。
なんでも、子供の頃にボーイスカウトなる活動をしていたとか。
子ども会の延長のようなものか? そもそも、子ども会だって知らないけど。
どこの班も大体調理が終わり、空も夕焼け色が強くなってきた。
火を絶やさないようにと注意を受けてから、夕食が始まった。
結果として、私の班はとても上出来だったらしい。
なんの工夫も無い、普通のカレーだったはずなのに、食堂で食べるものとはどこか違う味がした。
味覚がおかしくなったのかと首を傾げていたら、環境のせいだよと言われ納得できた。
焦げたご飯すらも美味しく感じたのは、普段と違う環境で、普段と違う人と食べたというのが大きいらしい。
人付き合いの下手な私を上手く引っ張ってくれるクラスメイトに感謝しつつ、せめて洗い物くらいはと包丁を手に持つと、班員全員に止められるということがなければもっと感謝できたは
ずだ。
食事が終わって片付けも終わって、焚き火を囲んでのんびりとしていた時だった。
私以外の班員の携帯端末が同時に鳴り響き、何事かと思うと他の班でも同じ様子だ。
それは学園からで、面会の為の集合メールらしい。
キャンプ場の入口付近に設けられた空き地で、面会許可を申請した人たちが集まっていると。
急いで走る人、友人と一緒に向かう人、面倒くさそうに歩く人。
あとは、私同様焚き火の前で座ったままの人。
案外申請しなかった人も多いらしく、属性関係なしにちらほらと見かける。
確か面会時間は一時間程度としおりに書いてあったから、このままのんびりしていよう。
焚き火を眺めているだけで結構時間が潰せると思う。
三十分も経っただろうか。誰一人帰ってこない中、なぜか私の携帯端末にもメールが届いた。
面会申請なんて出してないのに。
それとも、別件での呼び出しなのだろうか。
なんにしても行くしかないだろう。重い腰を上げ汚れを払い、指定された空き地まで歩く。
その間も、帰ってくる人は一人もいなかった。
遠くからでも分かる、賑わった雰囲気。
親や兄弟や祖父母やに囲まれた生徒と、恋人と熱烈なスキンシップをしている生徒と。
その輪から少し外れた所に、見慣れた姿があった。
制服の上に真っ黒なローブを羽織ってフードを目深に被り、顔の半分を隠した男子生徒。
その横には、制服のままの無表情な女子生徒も立っている。
「……我輩さま?」
近寄って声をかけると、ようやくフードを少しだけ上げ、表情を見せた。
夕焼けに染まる顔は相変わらず綺麗で、後ろの茜先輩も同じように綺麗だ。
級長というのは容姿も重視するものなのだろうか。
「ようやく来たか。大事は無いか」
大事……学校行事で何かが起こったらそれはそれで問題なんじゃないだろうか。
さっきの包丁禁止令に関することは大事じゃない、小事だ。だから言わない。
「特に何もありません」
「そうか、ならよい」
「あの、あか……」
茜先輩、と呼ぼうとすると、人差し指をそっと唇の前に立てられた。
ああ、そうか。我輩さまにはまだ知られていないんだった。
いたずらっ子のような楽しげな表情をされると、隠すのを楽しんでいるように見えるけど。
でも、いいと言われるまでは言わないほうがいいだろう。
だから前のように、ただの役職にそった声をかける。
「こんにちは、白の級長さん」
「こんにちは、音無さん」
無表情で無機質な目の茜先輩は、完璧に仮面を被っている。
それは見事だけど、素顔を知ってしまった今は少し、窮屈さも感じてしまう。
笑うともっと、綺麗なのに。
「あの、どうしてお二人がここに?」
「夜に各属性、級長からの言葉をかけることになっている。
その為に少々早めに来たまでだ」
「はぁ、そうですか」
そんなこと、しおりに書いてあったか……多分無かったはずだ。
先生なりのサプライズなのだろうか?
それにしては、私に姿を見せてしまった時点で台無しな気もする。
「わたしは先に行くわ。コテージに集合だそうよ」
「うむ、分かった」
人だかりの隙間をすいすいと通り抜けると、それを目にした数名の生徒がその姿を追っていた。
やっぱり、級長と言う存在は別格のようだ。自然に人の目を集めてしまう。
「して、今度は何で傷を負った」
「え……」
「小娘以外の魔力を感じる。我輩のものでもない」
治癒魔術は術者の魔力がそのまま身体に入り込むから、どうしてもその痕跡は強く残ってしまう。
ただでさえ魔力の扱いが上手な我輩さまが、気付かないはずがない。
言わなくても分かってしまうなら、最初から言えばよかった。
……いや、茜先輩に聞かれなかったのはよかったと思おう。
「包丁で、ちょっと……」
「見せてみろ」
「もう、きれいに治ってます」
「それでもだ。所有物の確認をして何が悪い」
「所有物という扱いが悪いです」
口では反抗しても、態度で反抗できるはずが無い。
渋々左手を差し出し、手の平をぱっと開いた。
「……何故こんな場所に包丁があたるのだ?」
「刺さりました」
「刃物に触れるな。これは命令だ」
「班員に包丁禁止令を出されたので、キャンプで触る機会は無いと思います」
「賢明な判断だ」
ピーラーは刃物になるのだろうか?
そこまで禁止されたら本当にイモ洗い担当になってしまうから、そこは許してもらいたいものだ。
傷があった場所に手を置かれ、魔力を流される。
先生がきちんと治してくれたのに、ずいぶんとこだわるものだ。
薄墨色の魔力が入り込み、ほんの少しだけ治癒魔術がかけられた感触がした。
まだ傷が残っていたのかもしれない。見えないくらいに小さいものが。
そんなに気にしなくていいのに。
「いっそ、自己防衛の陣も張るべきか……」
「多分キリがなくなるのでいりません」
「怪我をせぬ努力をしろ。では、我輩はもう行く。
小娘は努々身の回りに気をつけるのだぞ」
私の返答を待たずに、我輩さまはコテージへ歩いていった。
真っ黒なローブがはためき、その姿もまた、生徒の視線をさらっていく。
茜先輩とは違う意味だと思うけど、我輩さまも人の目を集める。
本当に、あんな人の補助役を私なんかがやっていいのだろうか。
思ったところで、契約をしてしまったからにはどうにもならない。
まだまだ帰る気配の無い生徒の合間を抜け、焚き火の元に戻った。
夜も更け、大きなコテージの前に七つのかがり火が準備された。
指示によると、各属性ごとに集まるらしい。
A組と一緒と思うと少し気が進まないけど、先生に言われれば仕方がない。
それはクラスメイトも同じようで足取り重く移動を始め、どうにか集まったところで一人の先生がメガホンを取り出した。
山間に響く声はやたらうるさく、小さく鳴いていた虫の声がぴたりと止んでしまったようだ。
その上、子供の頃に聞いたダンスの音楽が流れ始め、踊るように言われた。
もちろん、半数以上は眺めているだけで、私もその一部だ。
フォークダンスなんてどんな理由で踊らなきゃいけないんだろう。
強制的に手を取り合うなんて馬鹿げてる。
ただ、恋する男子女子にとっては何がしかのチャンスになるのかもしれない。
ならばそれを邪魔することはせず、傍観に徹しよう。
長い長い一曲が終わり、まばらな拍手が響いた。
数少ない楽しんだ生徒は、薄く汗を浮かべつつもとても笑顔だ。
なぜか男子同士で盛り上がっているのは、恋愛より青春を謳歌しているのだろうと思う。
ようやく火の爆ぜる音が聞こえる程度に静まったと思ったら、再び先生がメガホンを口に当てる。
「十分休憩した後、各級長からのお話がある。みんな、心して聞くように!」
わっと湧き上がる属性持ちの組。
私の周りは特に賑わうこともなく、あぁそうなんだ、みたいな反応だ。
私だって、数ヶ月前だったら同じ反応だったはず。
でも今は、思うことは違っている。
よく知っている人と、少し知っている人が話をするのだ。
私が聞くことは無いけど、何も感じることがないほど無関心な訳ではない。
トイレに走る生徒を横目に、かがり火を囲む輪の一番外側に腰を下ろし、一人で静かに時間を過ごすことにしよう。
そういえば、無属性の級長はどんな人だったか。
級長会議に出席していたのだろうか。
そこまで気にする余裕が無かったから、正直名前も顔も分からない。
属性持ちの級長は全員本家に属すると言っていたけど、そもそも無属性に本家も何もあるのだろうか?
「――――呆けるにも限度があるぞ、小娘よ」
突然、背後から声がかかった。
座ったまま振り返るとそこには、山の夜に紛れてしまいそうな、真っ黒なローブを羽織った我輩さまが居た。
そしてその斜め後ろには、珍しく真っ白なローブを羽織った茜先輩。
それぞれの組のかがり火に向かう二人の後姿に、クラスメイトがやけにざわついた。
「お、おい弥代子。さっきの人、白の級長だよな?」
「黒の級長も居たわ。知り合い?」
「あぁぁ、白の級長、超美人!」
「黒の級長、背が高いねぇ」
「いつ知り合ったの? どういう経緯で? 教えて!」
クラスメイトはあまり興味が無いと思っていたのに、そうではなかったようだ。
知り合った経緯……は、言えないだろう。
とりあえず、仕事を頼まれたとだけ言うと、そのまま話が進んで補助役の件まで知られることになっていた。
いつかは分かることだし、正式な役職らしいから調べれば分かることだ。
わざわざ隠すことも無いだろうと否定をしなかった……けど、場所は選ぶべきだったと後から思うことになる。
休憩時間の終了と、級長による話が始まると言われ、それぞれのクラスはきちんとかがり火の周りに丸く集まった。
その中心、火を背負う形で現れたのは、灰色のローブを被った男子生徒だった。
「えー、こんばんは。無属性の級長です」
真面目そうな雰囲気で、少したどたどしい喋り方で話されたのは、無属性の級長の決め方からだった。
なんでも、魔力の量や使い方は関係なく、ただただ成績によって決められるんだそうだ。
もちろん性格や素行も関係するけど、主に見るのは成績だと。
「僕たちは、一般人以上属性持ち以下の人間です。
だから、一般社会に馴染める立ち居振る舞いと、一般人同様の教養が必要になります。
属性持ちと違って、単位が足りなければ留年です。
きちんと三年間で卒業できるよう、励んでください」
なんとも真面目で、お堅いスピーチだった。
ただ、無属性の級長はとても人がよさそうに思える。
成績がよく、人柄もいい。きっと一般人の中でも問題なく過ごせる人なのだろう。
私と違って。
全学年の無属性で一番の人と比べたって無意味なのは分かってる。
他の組はまだまだ話が続いていて、無属性だけが手持ち無沙汰になってしまった。
それぞれの級長は一種のカリスマのようで、生徒は全て羨望の眼差しを送っている。
特に赤の組は一緒に何か叫んでいるけど、面倒くさがりやらしい赤の級長は大丈夫なのだろうか。
補助役の人の苦労が伺える。
と、ふいに背後に人の気配を感じた。
輪の一番外側に居たから、目的が無い限りわざわざこんな場所まで来る人も居ないだろう。
振り返るとそこには、無の級長が居た。
「音無さん、だね? 少しいいかな」
「……はい」
かがり火から少し歩くとすぐに川に行き着いた。
夜の川は真っ暗で真っ黒で、どこからどこまでが地面なのか水面なのか分かりづらい。
視覚を強化するより、暗さに慣れるのを待つしかないだろう。
「ええと、無の級長の佐々木です」
「……一年無のB、音無です」
そのまま沈黙が続く。
なんの為に呼び出したのだろうか。全く面識が無いはずなのに……いや、級長会議で顔は合わせたのか。
「君は、黒峰さんの補助役をしているよね?」
「はい」
「……どうして、その役に?」
「はい?」
「どうやって取り入ったんだい?
級長になってから補助役を作る気は無いと言っていたらしいのに。
どうして君だったんだい?」
「……魔獣に懐かれたから、と言われました」
機械音痴だからとか、ぷーさんの正体を知られたからだとか、そういうのは隠さなきゃいけないだろう。
我輩さまなりに言うと、秘する事柄だ。
「……正直、君が羨ましい。僕は黒峰さんと、話したことすらないんだ」
ザリ、と足元の砂利が音を立てた。
地面を踏みしめ力を入れ、ローブの下の肩が揺れている。
かがり火の明かりは遠すぎてなかなか届かず、無の級長の表情が上手く読み取れない。
「属性持ちが無属性を補助役に選ぶなんて、前代未聞だ。
属性持ちは同じ属性を選ぶし、無は無しか……選べない」
一歩前に近寄られ、その分半歩後ろへ下がる。
乾いた砂利の音がするから、川まではまだ遠いだろう。
「可能ならば、僕だって選ばれたかった。
学年なんて関係ない、属性持ちに選ばれたかった。
無属性で級長なんて……意味が無い」
呼吸が乱れている。体温も上がって汗が浮いている。
これは、怒りを感じている、のだろう。
「なぜ君なんだ? そんなに君は有能なのか?
それとも、女子と言う性差を利用したのか?」
利用できるほど大層なものではない。
そしてきっと我輩さまだって、こんなものに興味は無い。
「どうしてだ? 魔獣に懐かれた? どうして懐かれた?
そんな方法どこにも載っていなかった、教えてくれなかった!」
「級長さん」
「……っ」
一言呼んだだけで、はっとしたように身体を引いた。
力も抜け、今度は違う意味の汗をかいているようだ。
「私は、級長さんの方が羨ましいです。
自分の実力で、その役に就いたんですから」
「実、力……」
学力はまだしも、人柄というのはそうそう得られる物ではないだろう。
特に私には決して得られない物だろう。
「黒の級長の考えは私には分かりません。だから言えません。
だから、私はあなたが羨ましいとだけ言います」
嘘じゃない、本心だ。
これで伝わらなければどうしようもない。
私の話力が足りないだけだろう。
だから思ったことをそのまま、何も考えずに声にする。
「…………ごめん、どうかしてた。
情けない先輩でごめんよ。忘れて欲しい」
「はい、気にしません」
無属性は、例えA組であろうが属性持ちには劣ると言われている。
そんな無属性のトップに居なければならないこの人は、想像以上の重責を背負っているのだろう。
だから、ただの一年生が属性持ちに選ばれたという事実に、怒りを覚えたのだろう。
それでもすぐにそれを治めたのは、本当に人間が出来ているのだろう。
人として、尊敬できる。
「……僕は、級長と言ってもそこまで力があるわけじゃない。
何か困ったことがあったら頼って欲しいとは、言えない」
「大丈夫です。自分の事はできるだけ自分でします」
「……立派な一年生だね。わざわざ呼び出して悪かったね、僕はもう戻るよ」
「はい、お疲れ様でした」
肩を丸めたまま数歩歩き、そのことに気付いた様子で今度は意識的に背を伸ばし、かがり火の方へ歩いていった。
級長らしく、しっかりとした足取りだ。
さっきのは一種の気の迷いだろう。そう思うことにした。
「佐々木さん……か」
記憶に残っていなかった無の級長は、私にとっては憧れを抱ける相手だという事を、しっかりと自覚する。
級長とは、誰であろうとただの役職ではなく、その属性なりの苦労を全て抱えているのだろう。
無の佐々木さんも、白の茜先輩も、黒の我輩さまも。もちろん他の色も。
もう、忘れない。無属性なりの苦労を背負った級長を、忘れられるはずが無いだろう。
これが分かっただけでも、話をされてよかった。
何もなければきっともっとずっと遅くまで気付かなかっただろう。
そう、満足して遠いかがり火へ目を向けると……突然、背後から引っ張られた。
「……っ!?」
背後は川。距離はまだあったはずだけど、とても強い力に引きずられ、足元の砂利を蹴散らしながら湿った場所まで連れて行かれる。
振り返ろうにも襟元をつかまれているようで、全く動くことが出来ない。
何だ? 誰だ?
佐々木さんはとっくにかがり火の向こうへ行ってしまったし、大勢が居る場所では五感強化により気配を探ることも出来ない。
上まできっちり閉められたジャージのファスナーは、下りることなく首を締め上げている。
呼吸が出来ない。息が苦しい。
口を開いて酸素を求めるが、無駄と分かっている。
頭がぼうっとして手足に痺れを感じた時、その締め付けは急に無くなった。
その代わり、刺すような冷たさが全身を襲う。
ざぷん、と。へたくそな魚が飛び跳ねたような音がした。
首を支点に放られて、気付けばそこは水の中。
真っ暗で真っ黒で。透明じゃない、真っ黒だ。
真っ黒な水に沈み、浮かび、また沈み。
浮かんだ時に必死に息を吸い込み、すぐにそれは断たれる。
そして昼間でさえ冷たいと感じた川の水は、夜の寒さに乗じて更に温度を下げていた。
寒い、苦しい、痛い。それだけが占めていた。
『無属性なんだから、どーせ肉体強化できるだろ?』
『属性持ちに選ばれるくらいなら、さぞ優秀だろうよ』
『わざと溺れてる? 立てばいいじゃない』
切れ切れに聞こえる誰かの声。
肉体強化? 私は五感操作しか出来ない。
優秀? そんな訳ない。
立てばいい? 地面なんてどこにも無い。
苦しい、苦しい、苦しい、寒い。
五感のどれを閉じればいいか分からない。
考えている間にもぷくぷくと口から空気が漏れ、こぽりと最後の泡が出て行った。
私の身体から空気がなくなり、そのまま水に沈んでいく。
川の流れは思ったより速く、沈みながらもどこかへ流されていくのが分かる。
あぁ、これが溺死というものか。
苦しくて、冷たくて、死体が見つかりづらい。三重苦だ。
死ぬのか。死にたくないのに。
死にたくない? あぁ、死にたくないのか私は。
『――――――』
水の外から声が聞こえる。
『――――――』
必死な様子。とても焦ったような声。
『――――――』
低い音が聞こえたかと思ったら、流れが止まった。
身体は相変わらず水の中だけど、これなら死体は見つけてもらえそうだ。
ざぶざぶ、ばしゃん。
視界は真っ暗で、耳だけが音を拾っていた。
確か心臓が止まっても、数秒は耳が聞こえるんだっけ。
何かが水をかき分ける音、響き。
ゆらゆらとたゆたう腕をがしりと捕まれた。
「――――小娘っ!」
耳だけが変わらず音を拾い続ける。
唱える呪文、怒鳴る声、呼びかける声。
あぁ、わがはいさまだ。
捕まれた腕が熱い。あったかい。まだ足りない。
さむい。さむいです、わがはいさま。
ばちゃんと、一際大きい音がした後、急激に重力を感じた。
水の中でゆらゆらしていたはずなのに、どうしてだろう、背中がごつごつする。
「小娘、起きろっ! 水を出せ!」
水を出す? 私は水属性じゃないです。
「くそっ……白空を呼べ! 佐々木っ、そやつらを捕らえろ!!」
薄墨色の魔力が、とてもとても密度の濃い、鋭い魔力が高速で飛んでいった。
あぁ、我輩さまはちゃんと、佐々木さんのこと知ってるんだ。
同じ級長なんだから、当たり前か。
「起きろ、起きぬか!」
頬をばちんばちんと叩かれる感触がする。ひどい、痛い。
痛みを感じられるという事は、私はまだ死んでいないのか。
目は開かないし息も出来ない、頭も身体も動かすことが出来ない。
苦しさにも慣れたから、じきに死にそうだ。
叩かれる度触れる手が温かい。身体の全てが冷え切って、寒くて寒くて堪らない。
さわってください。
あったかくしてください。
そしたらきっと、もっとらくにしねそうなので。
しにたくはないけど。
数え切れないくらい叩かれ、多くの足音と一緒に叫び声が聞こえた。
「何をしているの! どきなさい!!」
それからは、地獄だった。
どんどんと胸を叩きつけられ、みしみしと骨が軋む。
合間、唇にとても熱い物が触れた時だけ、その苦しさが和らいだ。
熱くって、温かくって、空気が送り込まれてきて。
どんどん、みしみし、ふうふう。
何度も何度も繰り返され、私の身体は呼吸を思い出したようだ。
「っぐ……げほっ、うっ、うぇ……っ」
その代償は猛烈な吐き気だった。
仰向けでなんて居られないほどの感覚に、すぐさま横を向いて咳き込み、湧き上がる熱い物を吐き出す。
とても耳に耐えられない音と声だったろうに、私の背中をさする手は、ずっと大きく動かされていた。
「はぁ……はぁっ、は……」
「落ち着いた?」
「……っ」
返事をしようにも声が出ないから、首を縦に振るに留めた。
それだけでも頭がぐあんと回り、その感覚で再び吐き気を催しそうだ。
背中に手を添えられて上半身を起こすと、そこには異様な光景が広がっていた。
周りを広く囲む、全ての色の級長とその補助役。
地面に押さえつけられた生徒数名。
体温を感じる距離に居る茜先輩と、不貞腐れた表情の、ずぶ濡れの我輩さま。
断片的な記憶からは、今何が起こったのかが咄嗟に判断できない。
ただ、私を生かしてくれたのは、我輩さまと茜先輩だ。
「……起きたか、小娘」
「……は、い」
「何が起こったか説明、してくれるよね?」
青の級長がにこやかな口調で、にこやかな表情で、恐ろしい目で、地面に転がる生徒に問いかけた。
ジャージの色から彼らは無属性の生徒だ。見覚えが無いからA組だろう。
切れ切れに聞こえたのは、彼らの声だったのだろうか。
数度の否定の言葉を吐いたもののそれは全て切り捨てられ、砂利に顔を押し付けられながら語った話によると、犯人は彼らで合っているらしい。
私が黒の級長の補助役なのが気に食わない。
選ばれるほどの腕を持っているならば、水に投げ込んだところで問題ないだろう。
少し脅して辞退させ、あわよくばその座に割り込んでやろうと思った。
ぽつりぽつりと言われた言葉に、少し納得してしまう自分が居た。
だからといって人間を沈めていいとは思えないけども。
それを周りの人は静かに聞き、判断を委ねた。
「……我輩の物に、ずい分な真似をしてくれたものだな」
濡れた前髪をかき上げると、黒紫色の瞳がひたと向けられているのが分かる。
その視線はそれだけで人間の身を竦めさせるだけの威力を持ち、地面に押し付けられているにもかかわらず、犯人たちは後ろに這いずろうとしていた。
「無のAか。無属性の中でも能力があると判断されようが、中身が腐っていてはどうにもなるまい。
我輩としてはこの場で処分を下したいが……それは無の級長に任せよう」
「え……? いや、黒峰さん、それは……」
いきなり話を振られた無の級長は驚いた様子で、犯人と我輩さまを交互に見ている。
それもそうだろう、その言葉でこの場に居る全員の視線が向かってきたのだから。
「何だ?」
「音無さんは、黒峰さんの補助役です。ならば、黒峰さんが処分するのかと……」
「小娘は我輩の補助役であるが、無属性の生徒でもある。
そして不届き者も無属性の生徒だ。
故に、その頂点に立つ貴様がその処分を下すのだ」
「で、でも……」
「貴様の高速思考は鈍ったか? こんなこと、少し考えれば分かることであろう」
「なんで、それを知って……」
「級長の能力くらい知っておるわ。佐々木よ、貴様の立場は何だ?」
黒の級長に問われ、他の級長に視線で問われ、佐々木さんは答えた。
「……無属性の、級長です」
「ならば対処しろ、級長としての責任を果たせ。
それが級長たる者のけじめであろう」
数度躊躇い、我輩さまと私と、他の級長を見渡した後、ぐっと拳を握り締めて言った。
「分かりました。無の級長として、この生徒たちに処分を下します。
今ここでは無理ですが、最終的に決めたことは、報告しますので」
生徒の処分だなんて、一生徒に決めさせる事柄ではないはずだ。
ただ、この学園ではそれが普通で、それに慣れている人間ばかり。
そんな中で唯一の存在である、無属性なりの普通の人生を送ってきた佐々木さんにとっては、経験したことの無い重責だろう。
それでもしっかりと、はっきりと、多くの人間の前で言い切った。
とても力強く頼りがいのある姿に、私はつい見惚れてしまい、その後の事態に一切反応できなかった。
「……では、小娘に関しては我輩が受け持とう。
いくら息を吹き返したとはいえ、先程まで心の臓が止まっていたのだ。
一晩監視下に置かせてもらう」
そう言うと、茜先輩の手を軽く払い、川原に放られたままだった真っ黒なローブを私にかぶせ……なぜかそのままおぶわれた。
足元が悪いしお互いずぶ濡れだし、級長たちがしっかり見てるしという状況なのに、何てことないような様子でざくざくとコテージの方向へ歩いていく。
て……我輩さまって、確か……
「わ、我輩さま……っ」
「何だ」
「あの、力……無い、ですよね? 重いですよね、歩きます」
「我輩を何だと思っておる。無属性の肉体強化が出来ないと思っているのか?」
「出来るんですか?」
そんなことをしているのを今まで一度も見たことがないんだけど……。
床を引きずられた記憶が鮮明に浮かんできて、やっぱり非力な印象しか持てない。
「出来る。が……三日間は筋肉痛になる」
「き、筋肉痛……」
それも三日間。
ならば確かに、そうそう使うことは出来ないかもしれない。
けど、今は私を運ぶためにそれを使ってくれているのか……。
最短距離を歩くとそこには生徒がたくさん居て、中にはびっくりした様子のクラスメイトも見かけた。
だけど我輩さまが敵意というか殺意というかを剥き出しにして進むものだから、誰も声をかけることなく、道が開ける。
じっとりと濡れた身体に伝わる、温かい体温。
ぷーさんを抱えている時のような、心地よい温度。
あぁ、ぷーさんは我輩さまの魔獣なんだから、同じように感じるのも当たり前なのか?
いや、魔獣のことはよく分からないから、それが正しいのかも分からない。
ただただ、心地いい。
「我輩さま」
「どうした」
「……あったかいですね」
「そんな訳があるか。こんな夜に川に沈んだのだ、体温は極限まで下がっておるわ」
だから、あったかいんです。
そう言ってもいまいち上手く伝わらなそうだから、ぎゅうっと腕の力を入れた。
高い視線に、広い背中に、あったかい体温。ざくざくと一定のリズムで与えられる振動は、とても安心できた。




