92話 過去の清算と封鎖された研究室
セバスチャンは、地面にひれ伏す東條――かつて自身を**『零号』**として改造した科学者――を冷徹に見下ろしていた。彼の指先には、いつでもその命を奪えるだけの殺意が宿っていたが、その復讐の炎は、瀕死の仲間たちの姿によって、辛うじて抑制されていた。
「復讐は後だ。東條」セバスチャンの声は、凍てつくように静かだった。「お前は、この非人道的な技術の構造を知っているはずだ。この二人の命を救う方法を言え。そして、カミの力を完全に封じるための、最も非合理的な方法を教えろ」
東條は、セバスチャンの瞳の中に、殺意を超えた明確な使命を見た。自身の犯した罪が、今、この恐るべき『失敗作』を通じて、世界を救う鍵となる。彼の要求は、東條にとって、この世に残された唯一の償いの道だった。
東條は、地面に頭を擦り付けながら、かすれた声で答えた。
「この二人を救うには、人体強化の知識の根源に触れるしかない。レオンハルト殿下の砕けた骨と、本物のリリアーナ様の致命的な内傷を治すには、この都の地下深くに存在する、封鎖された研究室の力が必要だ」
セバスチャンの表情に、微かな緊張が走った。彼は、その研究室が何を意味するかを理解していた。
東條は、周囲を警戒し、声のトーンを落としてセバスチャンの耳元に囁いた。
「そこは、旧陸軍中央研究所の極秘部門。わしらがアザトースの知識に初めて触れた場所だ。知神が直接残した知識のプロトタイプが眠っている。その知識は、アザトースの現在の論理的な完成形とは異なり、不確定な要素が多く含まれた初期のものだ」
セバスチャンは、アザトースの知識の「失敗作」こそが、彼の論理の盲点となり得ると直感した。
「その知識で、二人の命を繋ぎ、クロード王子の最終計画に必要な非合理的な情報を得られるかもしれん。その研究室は、アザトースの知識が完成する前の**『失敗の記録』**であり、今は軍によって完全に封鎖されている…最も危険で、最も忘れ去られた場所だ」
セバスチャンの瞳に、一筋の冷たい希望の光が宿った。彼は、自身の忌まわしい過去の場所で、主の仲間を救う唯一の道を見つけたのだ。
「その研究室は、厳重に封鎖されているはず。どうやって侵入する?」
「わしには、まだアクセスコードの知識が残っている。そして、軍は、零号の存在を知らない。お前は、彼らの監視の目の外にいる。わしが、贖罪のために、すべての手引きをしよう」
東條は静かに懺悔の言葉を続けた。彼の犯した罪の記録が、逆に彼らを救う鍵となり、カミの合理的な計画の裏をかく、非合理的な情報がそこにあるという、運命の皮肉。
セバスチャンは、もはや東條個人を憎むことより、主の運命を優先した。彼は、屈辱的な過去を乗り越え、執事としての忠誠を全うする決意を固めた。
「案内しろ、東條。お前の罪の償いは、これからだ」
セバスチャンは、レオンハルト殿下を片腕に、そして本物のリリアーナを抱きかかえると、東條と共に、帝都の闇の奥深くへと消えていった。彼らの進む先は、自らが生まれた過去の忌まわしい場所であり、同時に、人類の運命を左右する最後の知識が眠る場所だった。




