91話 零号の自己嫌悪と救済の光
陸軍大将と特務局長を打ち倒した後、セバスチャンは激しい戦闘による疲労と、自身の力の源泉に対する嫌悪で、その場に一人立ち尽くしていた。彼の完璧な執事服は泥と血にまみれ、引き裂かれた袖口の下から覗く腕には、戦闘で活性化された黒い血管の痕が、禍々しい文様となって浮き出ていた。それは、彼が忌み嫌う非人道的な過去の証であり、勝利の甘さではなく、深い自己嫌悪が彼の心を支配していた。
彼はゆっくりと、地に倒れたレオンハルト殿下と、腹部から血を流し意識を失った本物のリリアーナのそばに歩み寄った。レオンハルト殿下の膝は不自然な方向に曲がり、顔は苦痛に歪んでいる。本物のリリアーナの肌は青白く、命の灯が消えかかっているのが見て取れた。
「私の力は…結局、彼らが作り出した非合理な暴力の延長に過ぎない」
セバスチャンは、震える声で絶望的に呟いた。彼は、主の仲間を守ったが、それは、カミの道具である「秩序」に対抗するために、彼自身が憎むべき「科学」の暴力を利用した結果だ。彼の中で、執事としての忠誠と、プロトタイプとして生まれた悲劇が、激しく衝突していた。
その時、周囲の瓦礫の陰から、セバスチャンが命を救った町外れの住民たちが、恐る恐る姿を現した。彼らは、セバスチャンの人智を超えた戦いを見たにもかかわらず、彼を恐れるよりも、命を救われた感謝を優先した。
「あ、ありがとう、旦那…」
老婆が、涙声でセバスチャンに一礼した。その純粋な感謝の念は、冷たい殺意で満たされていた空間に、微かな温もりを灯した。
「あなたがいなければ、私たちは…」
住民たちの声は、セバスチャンの冷え切った心を、わずかに揺さぶった。彼は、自身が憎むべき「失敗作」として生まれたにも関わらず、初めて人間的な救済の対象として見られていることに、戸惑いと、拭い去れない過去の罪の意識を覚えた。
その住民の一団の中に、杖をついた老齢の男性がいた。彼は、他の住民とは違い、セバスチャンの顔や服装ではなく、彼の身体構造、特に露出した黒い血管の痕に鋭く視線を注いでいた。老人の顔は、恐怖と後悔がないまぜになって、青ざめていた。
「お前は…零号…なのか?」
老人の声は、喉の奥から絞り出されたように、か細く震えていた。その言葉は、セバスチャンの過去の忌まわしい記憶の扉を、容赦なくこじ開けた。彼の存在を知り、そのコードネームを口にする人物が、こんな場所にいるとは、運命の皮肉としか言いようがなかった。
セバスチャンは、その言葉に反応し、冷たい視線を老人に向けた。彼の瞳には、過去を隠し通してきた執事の仮面が剥がれ落ち、剥き出しの殺意が宿った。
「…あなたは、何者ですか」
「わしは…東條。かつて陸軍の人体研究部門にいた者だ」老人は、痛みに満ちた表情でセバスチャンの前にひざまずいた。「わしが…わしがお前の体を…改造した元科学者だ…」
東條は、地面に額を打ち付け、涙を流した。
「わしは、知神アザトースの知識に魅入られ、究極の秩序の名の下に、多くの罪を犯した。その罪の最たるものが…お前、零号だ」
セバスチャンは、過去の忌まわしい記憶の根源と、こんな形で再会したことに、一瞬、全てを終わらせる復讐の衝動に駆られた。彼の指先が、殺意を込めて微かに痙攣した。しかし、彼の目に映るのは、瀕死のレオンハルト殿下と本物のリリアーナの姿だった。主の運命を左右する彼らの命が、今、セバスチャンの復讐心の上に秤にかけられていた。




