90話 執事の美学と人体の構造
セバスチャンが自身の正体を人体強化技術の失敗作として明かし、その圧倒的な力で帝国双璧を前に立ちはだかった瞬間、戦場の空気は一変した。彼の体から放たれる圧縮された殺意は、武神の暴力とは異なる、冷たく、技術的な恐怖を伴っていた。
「貴様は…記録を抹消された**『零号』**なのか…！」特務局長は恐怖に目を見開いた。
セバスチャンは返事をせず、その冷たい視線を、戦闘によって追い詰められ、怯えて身を寄せ合う数名の現地住民に向けた。彼らは、憲兵隊の横暴に立ち向かおうとして、巻き込まれた人質だった。
「…私の主は、無益な流血を望まれません」
セバスチャンは静かに呟いた。その声は、戦闘への準備ではなく、人質の安全を最優先するための、自己への戒めだった。
住民を守る戦術
セバスチャンは、まずその驚異的な速度で周囲の瓦礫を蹴り上げ、人質と憲兵隊との間に高い土煙の壁を築いた。視界を遮断することで、強化兵たちの不意の銃撃や、人質への二次被害を防ぐための迅速な判断だった。
「無駄だ！大将、あの男を叩き潰せ！奴は秩序を乱す！」
特務局長が叫ぶと、陸軍大将は地を割るような雄叫びと共に、巨大な拳をセバスチャンめがけて振り下ろした。
セバスチャンは、その一撃を全身で受け止めるのではなく、最小限の力で拳のベクトルを逸らした。拳はセバスチャンの肩をかすめ、無人の瓦礫へと着弾し、破壊音を轟かせた。
彼の戦闘の哲学は、「破壊ではなく、無力化」にあった。彼は、敵の急所を的確に見抜き、致命傷を避けて、戦闘能力のみを奪うという、極めて精密な技術を駆使した。
強化兵が銃剣で突きかかると、セバスチャンは避けるのではなく、指先をわずかに動かし、兵士の中枢神経が走る鎖骨の下を突いた。
「ガッ…！」
強化兵は激しい痛みに顔を歪ませ、銃剣を取り落とした。セバスチャンは、倒れた兵士の首筋に、一瞬だけ、力を込めた。兵士の意識は瞬時に刈り取られ、ただの動かなくなった肉塊と化した。
特務局長は、セバスチャンの異常な戦い方に、恐怖を覚えた。
「貴様…！なぜ殺さない！無駄な手間をかけるな！」
「彼らの運命を決めるのは、私ではありません。私の役割は、主の運命を脅かす障害を取り除くことです」
セバスチャンは、特務局長に向けて、自身の過去の技術の結晶であるような、冷たい殺気を放った。
過去の影と最終審判
セバスチャンは、陸軍大将の不意打ちを、紙一重の差で回避した。その際、彼の執事服の背中が裂け、その肌には、古びた手術痕と、黒く固まった血管の跡が、禍々しく覗いた。彼の力は、この大皇国が現在進行形で進めている人体強化技術の、悲劇的なルーツを示していた。
「まさか…あの非効率な、初期の段階で失敗した施術痕…！」特務局長は、その傷跡に、知神アザトースから得た知識の断片を見た。
セバスチャンは、大将と特務局長の二人に、同時に突っ込んだ。
彼は、大将の巨体を抱え込むように組み付き、背骨の接続部に両手の掌底を打ち込んだ。力を解放しすぎれば、大将の肉体は破裂する。セバスチャンは、破壊寸前の、最も効率的な無力化の境界線を見極めた。
「グアァァ！」
大将は、断末魔の叫びと共に、その巨体を制御できなくなり、倒れ伏した。
そして、特務局長。彼の日本刀は、セバスチャンの頭部を狙っていたが、セバスチャンは、彼の手首の腱をピンポイントで打ち抜き、刀を弾き飛ばした。
「あなたたちの非人道的な秩序は、最も非人道的な失敗作によって、ここで終焉を迎えます」
セバスチャンは、冷たい目で特務局長を見下ろした。彼は、自らの忌まわしい過去の力をもって、大皇国の秩序の守護者を打ち破ったのだ。
