89話 執事の怒り、血塗られた過去
帝都・暁の郊外、レオンハルト殿下は砕けた体で地面に倒れ伏し、口から血の泡を吹いていた。彼の目の前では、特務局長の刀が本物のリリアーナの腹部を切り裂き、彼女の体から放たれた微かな時の力が、クロード王子への最後のメッセージとして時の境界へと消えていく。
「これで、時の導き手は排除された。我々の秩序は、完璧だ」
特務局長は冷酷に言い放ち、勝利を確信した。
その時、周囲の瓦礫の影から、静かに、そして恐ろしいまでの怒りを纏った一人の男が現れた。執事服のセバスチャンだった。彼は、クロード王子たちの船出から別行動を取り、帝都に潜伏しながら、密かに彼らの陽動の行方と、大皇国軍の動きを監視していたのだ。
セバスチャンは、倒れたレオンハルト殿下と、血に染まった本物のリリアーナの姿を見た。普段は完璧に抑制された彼の感情が、この光景によって、人間としての限界を超えて爆発した。
彼の顔は、完璧な無表情を保っていたが、その瞳は、怒りというよりも、抑圧され続けた悲しみと、冷たい殺意に満ちていた。
「…無様ですね」
セバスチャンの声は静かだったが、その一言が空間の空気を震わせた。
陸軍大将は、セバスチャンの存在を侮蔑的に一瞥した。
「また大陸の軟弱な執事か。このような戦場に現れるとは、愚かにもほどがある。排除しろ」
大将は、人体強化された兵士たちに命じた。強化兵たちは、獣のような唸り声を上げ、セバスチャンに襲いかかった。
圧倒的な力の開示
セバスチャンの動きは、速かった。しかし、それは訓練された速さではなく、人間を超えた流れるような、異常なまでの俊敏さだった。
彼は、襲いかかる二人の強化兵の攻撃を、執事服の袖で一瞬で受け流すと、指先で強化兵の関節の急所を正確に突いた。その指は、まるで鋼鉄の針のように、人体強化された兵士の硬い皮膚と筋肉を、いとも簡単に貫通した。
「ぐわあ！」
強化兵は、苦悶の声を上げて倒れ伏した。彼らの身体は、内部から不協和音を奏でたかのように機能不全に陥っていた。
セバスチャンは、まるで人体の構造を知り尽くした技術者のように、効率的に兵士を無力化していった。彼の動作には、無駄な感情が一切なく、ただ排除という合理的な結論のみが反映されていた。
陸軍大将は、初めて動揺した。彼の強化兵は、通常の攻撃では傷一つ負わないはずだ。
「貴様…！その力は、何だ！何者だ！」
セバスチャンは、特務局長と大将に近づきながら、静かに、そして冷たく答えた。
「私の主は、クロード王子です。そして、私は…」
彼の全身から、一瞬、黒い瘴気のようなものが噴き出した。それは、武神の憎悪とも、千鶴の混沌とも違う、極度に圧縮された、技術的な殺意のエネルギーだった。
「私は、あなたたちが信じる**『人体強化』**という技術の、**最も初期の、そして最も失敗した、試作体**です」
セバスチャンの言葉に、大将と特務局長は顔面蒼白になった。
「バカな！それは、記録から抹消されたはずの、非人道的な『失敗作』ではないか！」
セバスチャンの力は、大皇国が今誇る秩序の根源である人体強化技術を、その技術の最も暗い過去から否定するものだった。彼は、自身の身体に刻まれた、非人道的な過去の技術を、人間的な怒りという燃料で駆動させていたのだ。
