84話 混沌の船出
地下水道を抜けた私たちは、レオンハルト殿下の事前の情報収集のおかげで、帝都・暁の軍港の裏手にある、小さな漁港へとたどり着いた。軍の厳戒態勢は、主要な港に集中しており、この小さな漁港は見過ごされていた。
「殿下、船は…」
レオンハルト殿下は、疲労困憊ながらも、漁船を一隻見つけ、すぐにエンジンを始動させた。彼の忠誠心と実務能力が、私たちの窮地を救った。
クロード王子は、意識を失ったままの本物のリリアーナを、船室の簡素なベッドに寝かせた。その顔には、安堵と、新たな使命への決意が混ざり合っている。
「クロード王子。本当に、千鶴の混沌の力を利用するのですか?」
私は、甲板に出て、夜明け前の冷たい海風に当たりながら、改めて尋ねた。
「ああ。アザトースの知識は、合理性によって俺たちを支配しようとした。大皇国も、その秩序に囚われた。しかし、千鶴の混沌は、論理や合理性では決して制御できない不確定性だ」
クロード王子は、手に持つ千鶴の杖を静かに見つめた。
「俺たちが、混沌という、カミにとって最も扱いにくい力を、運命の壁の基盤として利用する。これは、アザトースの予測を完全に超える非合理的な戦略だ。そして、千鶴自身も、この世界が永遠の不確定な舞台となることを望んでいる。彼女は、協力せざるを得ない」
それは、悪魔との取引に等しい。しかし、この絶望的な状況下で、人類を救う唯一の道だった。
その時、レオンハルト殿下が甲板に上がり、不安げに言った。
「殿下。水平線の向こうに、大皇国の巡洋艦がこちらに向かっています!既に追跡が始まっています!」
彼らの追撃は、予想以上に早かった。大皇国の軍事技術と、アザトースの知性が組み合わさった追跡能力は、驚異的だった。
「速度を上げろ、レオンハルト!彼らは、この漁船を非合理的な標的として軽視するだろう。その間に、港を離脱する」
漁船は、エンジンを最大限に吹かし、暗い海原へと飛び出した。
船が港を離れてしばらくすると、帝都・暁の巨大な軍港から、一筋の青白い光線が放たれた。それは、アザトースの力が、大皇国の科学技術(砲台)と融合して生まれた、究極の論理的排除の兵器だった。
「あれは、アザトースが直接、排除の論理を兵器に組み込んだものだ!直撃すれば、我々の存在そのものが消去される!」
クロード王子の顔が、緊張で引き締まった。
青白い光線は、私たちの漁船をかすめ、海面に巨大な水柱を上げた。
「リリアーナ!千鶴の杖で、船の『運命』を操作しろ!光線の命中という結果を、回避という不確定な結果へと歪ませるんだ!」
私は、千鶴の杖を海に向けて突き出し、渾身の力を込めた。
「運命よ!非合理的な道を選べ!」
杖から放たれた混沌の力が、海面に不規則な波紋を生み出した。その波紋が、船の航路を予測不能なものに変えた。
青白い光線は、再び放たれたが、私たちの船は、まるで意思を持ったかのように、わずかな水路をすり抜けた。光線は、船の数十メートル先で虚しく炸裂した。
「成功だ!」レオンハルト殿下が歓喜の声を上げた。
私たちは、大皇国と、その背後にいる知神アザトースの追撃を、かろうじて振り切った。
しかし、大皇国の脅威は去っていない。私たちは、人類の未来を賭けた最後の賭け、「混沌」を基盤とした運命の壁の構築という、非合理的な計画へと向かう。
カミの力に依存することを選んだクロード王子は、今、真の運命の舵取り役となった。




