83話 地下水道の誓い
私たち一行は、帝都・暁の複雑な地下水道を、泥と汚水にまみれながらも、必死に逃走した。アザトースの青い幾何学的な紋様は、確かに地下深くまでは追ってこなかったが、地上では既に、大皇国軍の厳戒態勢が敷かれているのが、時折聞こえる足音と警報から分かった。
レオンハルト殿下は、本物のリリアーナを抱えるクロード王子を援護しながら、疲労困憊の状態だった。人体強化された兵士との戦闘は、彼にとって予想以上の消耗を強いていた。
「クロード殿下、この先は…軍の主要な兵器工場へ繋がっているはずです。そこを通過できれば、港へ抜けられるかもしれませんが…」
「いける。アザトースの論理の盲点は、非合理的な場所だ」
クロード王子は、冷静に答えた。彼の知識は、知神が予測可能な秩序を最優先し、汚れた地下や予測不能な場所を軽視するという弱点を知っていた。
彼が抱える本物のリリアーナは、激しい衝突と、時の境界での消耗が原因で、意識を失っていた。彼女の顔は蒼白だが、その手に握られた千鶴の杖からは、微かな運命の力が漏れ出ている。
「クロード王子…彼女を休ませてあげて」
私は、彼の隣に寄り添い、本物のリリアーナの額に触れた。
クロード王子は、ついに一箇所の広い通路で立ち止まった。彼は、本物のリリアーナを壁に凭れさせると、その手を握りしめた。
「リリアーナ。すまない。俺は、憎しみを捨てた代わりに、合理的という冷徹な判断に頼りすぎた。俺の知識は、大皇国がカミの道具となっている可能性を、非合理的として切り捨てた…」
彼は、初めて自らの過ちを認めた。憎しみを捨ててもなお、知神の知識に支配されていたのだ。
「いいえ、クロード王子」私は彼の頬に手を当てた。「あなたは、人間的な愛を選んだからこそ、彼女の警告を受け入れた。それが、あなたの真の運命よ」
その時、レオンハルト殿下が、周囲を警戒しながら、静かに口を開いた。
「クロード殿下。私たちは、人類の最大の勢力を敵に回しました。封印に必要な人類の意識の集合体という鍵は、もう得られません」
それは、絶望的な事実だった。大皇国を敵に回した今、カミを封印するためのエネルギーは、決定的に不足している。
クロード王子は、地下水道の汚れた床にしゃがみ込み、深く考え込んだ。そして、彼は、新たな非合理的な決断を下した。
「人類の半数の力が必要ならば、別の力でそれを補うしかない」
彼は、本物のリリアーナが持つ千鶴の杖を、静かに取った。
「封印のエネルギー源は、混沌だ。千鶴は、この世界の物語を、究極の不確定性で飾りたがっている。俺は、その千鶴の力を利用する」
「千鶴の力を利用する…?」私は驚いた。
「ああ。千鶴の混沌のエネルギーを、封印に必要な運命の壁の基盤として組み込む。混沌と秩序(アザトースの知識)の二つの相反するカミの力を、俺たちの純粋な運命で強制的に融合させ、永続的な矛盾を生み出す」
それは、カミの力を利用するという、極めて危険で非合理的な賭けだった。一歩間違えれば、世界は永遠の混沌に陥るだろう。
「この計画は、アザトースが最も予測できない、千鶴の意志に頼るという非論理的な選択だ。しかし、これこそが、俺が人間として下せる、世界を救う最後の選択だ」
クロード王子は、愛と憎しみを越え、ついに知神の知識からも脱却した。彼は、自らの運命の意志に基づいて、最後の決断を下したのだ。




