71話 平和への戦略
船は、漆黒の海を切り裂き、東へと進んでいた。
甲板の下、船室の一室が作戦会議室として使われていた。私たちは、ライオネルの亡骸が安置された静かな部屋を背に、武神を討つための最後の戦略を詰めていた。
「武神の力は憎しみに根差している。我々が憎しみで対抗すれば、彼の力は増幅するだけだ」
クロード王子は、地図上のエオルス島に指を置いた。彼の瞳には、知神アザトースから得た知識の鋭さが宿っているが、その根底には、リリアーナへの強い運命を感じる温かさがあった。
「武神を世界から完全に切り離すには、エオルス島に生じ始めた憎悪の連鎖を、彼の力の根源よりも早く、平和のエネルギーで上書きする必要がある」
「平和のエネルギー?」私が尋ねた。
「ああ。千鶴の杖(因果律を操る杖)は、運命の特異点で強力な力を発揮する。エオルス島は今、武神の干渉によって、新たな混沌の特異点になりつつある。そこで、憎しみと対極にある、純粋な『赦し』と『調和』のエネルギーを杖で解放する」
レオンハルト殿下は、真剣な面持ちで口を開いた。
「ですが、殿下。純粋な赦しのエネルギーとは、どうやって生み出すのですか?それは、人間の感情で最も困難なものです」
クロード王子は、深く息を吐いた。
「俺は、過去を救ったことで憎しみから解放されたが、アザトースの知識は残っている。その知識が示す最速の方法は、憎しみの対象そのものを赦す、究極の愛の行為だ」
彼は、私に向き直った。
「リリアーナ。お前は、この戦いにおいて、赦しの象徴とならなければならない」
「わかったわ。具体的には?」
「武神は、エオルス島の王族間の裏切りを操り、憎悪の連鎖を生み出している。お前は、その裏切りの被害者、あるいは加害者として、彼らが最も憎しみに囚われる瞬間に立ち会うことになる」
クロード王子の説明は冷徹だが、彼の声には、私を危険に晒すことへのためらいが滲んでいた。
「その瞬間、お前が、武神を倒す唯一の鍵となる。お前を不幸にしたカミの存在、あるいは、お前を裏切った人間そのものを、心から赦し、杖でそのエネルギーを解放する。それが、武神の力を完全に封じる対極のエネルギーとなる」
私は、その壮絶な戦略に、息をのんだ。自分自身を傷つけた存在を赦すことは、人間にとって究極の試練だ。
「クロード王子…あなたは…私の運命を、信じてくれるのね」
私がそう尋ねると、クロード王子は、一瞬、知性の冷たい鎧を脱ぎ捨てた。
彼は私の手を握り、力強く言った。
「信じるさ、リリアーナ。俺は、もう知っている。俺の家族を救い、俺を憎しみから解放したのは、知識でも憎しみでもない。お前が、運命を切り開くために戻ってきた、その意志そのものだ」
彼の瞳には、迷いがなかった。憎しみの呪縛から解き放たれ、彼は今、真の愛と運命の力を理解していた。
「行こう。俺たちの運命は、この世界を救うためにある」




