228話 嚥下される希望
アザトースの強烈な拒絶によって、精神世界から現実へと弾き出されたリリアーナ。 彼女は激しく咳き込み、地面に膝をついたまま動けなくなっていた。
「ゲホッ……ハァ、ハァ……! ダメ……彼には、もう……声が届かない……!」
「リリアーナ! 無事か!?」
クロードが駆け寄ろうとするが、無数に増殖したアナザーの触手が壁となって彼を阻む。 ライオネルとレオンハルトも、再生し続ける肉塊の波に足止めされ、千代やセバスチャンたちも防戦一方で手一杯だった。
戦場に、致命的な一瞬の空白が生まれた。
暴食の好機
『――見ィつけた』
頭上から、ねっとりとした歓喜の声が降ってきた。 【万魔の豊穣神】と化したアナザーの、巨大な目がギョロリとリリアーナを見下ろしていた。
『わざわざ私の胎内から出てくるなんて。でも、そんなにあの役立たず(アザトース)とお喋りがしたいなら……一緒にしてあげるわ』
「しまっ――!?」
リリアーナが顔を上げた時には、もう遅かった。 アナザーの腹部が大きく裂け、そこから漆黒の濁流のような舌が、砲弾の勢いで射出された。
「リリアーナ!! 逃げろ!!」
クロードの絶叫。 しかし、精神干渉の反動で痺れたリリアーナの体は、指一本動かせない。
バクンッ。
世界が暗転した。 痛みはない。ただ、圧倒的な質量と、生温かい粘液に全身を包まれ、凄まじい勢いで引きずり込まれる感覚だけがあった。
「あ……」
リリアーナの姿は、一瞬にしてアナザーの裂けた腹部へと飲み込まれた。 裂け目はにちゃりと音を立てて閉じ、そこには醜悪な肉の壁だけが残った。
絶望する英雄たち
「嘘……だろ……?」
クロードが、剣を取り落とした。 目の前で、守るべき最愛の人が、怪物に**「食べられた」**。 その事実は、彼の戦意を根底からへし折るのに十分すぎた。
「リリアーナ様!!」 「お嬢様反応、消失……! 生体反応が、アナザーの霊基と同化しています!」
セバスチャンの悲痛な報告が、絶望に拍車をかける。 物理的に助け出すことは不可能。彼女は今、神の消化器官の中で、運命ごと溶かされようとしているのだ。
『あぁ……極上。愛と希望に満ちた魂は、なんて喉越しが良いのかしら』
アナザーが、腹をさすりながら恍惚の表情を浮かべる。
『これで邪魔者は消えた。さあ、残りのデザートたちもいただきましょうか』
胎内の再会
一方。 暗闇と、溶解液の海に沈んでいく意識の中で、リリアーナは目を開けた。
(ここは……)
そこは、先ほど精神干渉で見た、ドロドロとした精神の胃袋の中。 だが、今回は違う。映像ではない。 彼女自身の肉体と魂が、この絶望の底に堕ちてきたのだ。
「……うぅ……」
彼女は、粘つく泥の上に倒れていた。 皮膚が焼けるような感覚がある。この場所に留まり続ければ、遠からず自我が溶け、アナザーの養分となって消滅するだろう。
しかし、リリアーナは諦めていなかった。 彼女は痛む体を叱咤して顔を上げ、暗闇の奥を見据えた。
そこには、膝を抱えてうずくまる、青い光を失いかけた少年――アザトースがいた。
「……また、来たのか」
少年は、驚きと呆れが混じった目で彼女を見た。
「言ったはずだ。僕は消えたいと。……お前も、食われたのか」
「……ええ。食われちゃった」
リリアーナは、泥だらけの顔で、ニカっと笑ってみせた。 その笑顔は、かつて「悪役令嬢」を演じていた頃のような強がりではなく、本当の強さを秘めた女王の微笑みだった。
「でも、これでやっと……あなたと、同じ場所に立てたわ」
外からの干渉ではない。 同じ「被食者」として、同じ地獄に落ちた者として。 リリアーナは、最後の説得(賭け)に出るため、ゆっくりとアザトースへと歩み寄った。




