220話 泥濘の遠心力と、燃焼する悪夢
遊郭の悪夢。 そこは、千代の魂が最も恐れる、湿った黴の臭いと、男たちの欲望が澱む閉鎖空間だった。
千代は泥水の中に顔を押し付けられ、手足は錆びついた鉄の鎖で拘束されていた。カミとしての魔力は封じられ、ただの無力な少女に戻されている。
「諦めろ、千代。お前は一生、ここから出られない」
かつて愛した男、秋人が嘲笑いながら、千代の髪を乱暴に掴み上げる。その背後では、小袖が着物の袖で口元を隠し、冷ややかな視線を送っている。
「身の程を知りなさいよ。泥にまみれるのがお似合いよ」
千代は、唇を噛み締め、口の中に広がる鉄の味を確かめた。 (魔法は使えへん。力でも、男の秋人には勝てへん。……せやけど)
彼女の指先が、冷たい泥の感触を確かめる。 水分を含んだ、粘土質の土。 (泥……。これがあれば、摩擦係数を極限まで減らせる)
彼女は、秋人の視界の死角で、密かに濡れた着物の帯を解き、泥水に浸して固くねじり上げていた。水分を含んでねじられた布は、鋼鉄のような引張強度を持つロープに変わる。
「なぁ、秋人。あんた、遠心力って知っとるか?」
「あぁ? 何をわけのわからんことを……」
ズリュッ。
千代は、泥を潤滑油として利用し、親指の関節を自ら外す勢いで、手首を強引に鎖の輪から引き抜いた。
「なっ!?」
秋人が驚愕する一瞬の隙。千代の身体が、泥の上を滑るように回転した。 彼女は、ねじり上げた濡れた帯を、鞭のようにしならせ、秋人の足首に精確に巻き付けた。
「捕まえたで」
千代は、自身の重心を極限まで低くし、泥で摩擦が消えた床を軸にして、コマのように高速回転を始めた。
【遠心力】
質量保存の法則において、回転の中心に近いほど、そのエネルギーは効率的に伝達される。 体重の軽い千代が軸となり、重い秋人が外周となる。 濡れた床。摩擦の喪失。そして強烈な回転エネルギー。
物理的なテコの原理が働き、秋人の巨体が、木の葉のようにふわりと宙に浮いた。
「う、わぁぁぁっ!?」
「空を飛びたい言うてたな? 飛ばしたるわ!!」
千代は、回転の遠心力が最大に達した瞬間、帯を放すのではなく、叩きつけるように軌道を変えた。
ドゴォォォォッ!!
秋人の体が、砲丸投げのように射出され、部屋の太い柱に激突した。骨が砕ける音が響き、彼は白目を剥いて崩れ落ちた。
「ひっ……!」
小袖が悲鳴を上げ、後ずさる。 千代は、乱れた着物を直しもせず、気絶した秋人の懐から鍵を奪い、足の鎖を解いた。
「力なんていらん。ここにあるもん全部、知恵があれば武器になるんや」
千代は、震える小袖に近づき、床に落ちていた行灯を拾い上げた。中には、たっぷりと油が入っている。
「小袖。あんたの作った着物、よう**燃えそう(可燃性が高そう)**やな」
「や、やめて……! 許して……!」
千代は、無慈悲に行灯を蹴り倒した。 油が床に広がり、灯芯の火が引火する。
【燃焼反応】
酸素と可燃物と熱。単純な化学反応が、千代のトラウマを物理的な熱量へと変換していく。 炎は瞬く間に古い木造の遊郭を舐め尽くし、紅蓮の地獄へと変えた。
「燃えろ。わての弱さも、過去も、全部灰になれ」
千代は、燃え盛る炎の中を、火傷一つ負わずに歩き出した。 カミの力ではない。単なる熱力学的な破壊が、悪夢の結界を焼き払い、彼女を外の世界へと導いた。
「待っとれ、リリアーナはん。わても、もう『悲劇のヒロイン』は卒業や」
千代は、崩れ落ちる次元の壁を蹴破り、仲間たちの元へと帰還を果たした。




