201話 鉄の檻と、繋がれた手
リリアーナの意識は、時の奔流を遡り、数十年前の大皇国へと舞い降りた。 そこは、帝都の地下深く、地図にも載らない旧陸軍中央研究所。
鼻を突くのは、錆びついた鉄の匂いと、鼻孔を焼くような消毒液の刺激臭。 そこは、知識を探求する場所などではない。幼い命を「部品」へと加工する、冷たい知識の監獄だった。
モニターの青白い光だけが頼りない照明となり、二人の子供の影を床に長く伸ばしている。 まだ少年だった零号(後のセバスチャン)と、少女だった103号。彼らは、感情を押し殺した瞳で、互いを見つめ合っていた。
その前には、白衣を着た東條博士と、冷徹な軍の将校が立ちはだかっている。
「最終試練を開始する」
将校の声が、裁判官の判決のように響いた。
「生き残れるのは、ただ一人だ。殺し合え。それが、究極の秩序に至るための選別だ」
本来の歴史ならば、ここで二人は殺し合いを強要される。カイは零号に想いを託して自ら刃を受け、零号は愛を失ったことで感情を凍らせ、完璧な殺人兵器として完成するはずだった。それが、リリアーナが知る「セバスチャン」という悲劇の執事の原点。
(させない。絶対に)
不可視の存在となったリリアーナは、彼らの間に滑り込んだ。触れることはできないけれど、彼女の魂は震えていた。目の前にいるのは、あんなにも冷徹で完璧だったセバスチャンの、あまりにも脆く、傷ついた幼少期の姿。
(あなたたちは、道具じゃない。誰かの犠牲になるために生まれたんじゃないわ)
リリアーナは、祈るように両手を広げた。 彼女の意識から、未来のカイから受け継いだ**「研究所の構造知識」と、セバスチャンが最期に見せた「自己否定の論理」**――カミの論理を食い破るための矛盾データ――が、研究所のメインシステムへと静かに、しかし奔流のように流し込まれた。
『警告。警告。メインシステムに致命的な論理エラー発生』
無機質な電子音が鳴り響く。 モニターの青い光が、危険を知らせる赤へと変わり、明滅を始めた。
『存在定義の矛盾を確認。制御不能。全セキュリティーロック、強制解除』
ガシュッ。
重い金属音が響き、零号と103号の首や手足を拘束していた枷が、誤作動を起こして一斉に外れ落ちた。
「な、何事だ!?システムが暴走しているのか!?」
将校が狼狽し、東條博士がコンソールにかじりつく。大人たちが混乱に陥る中、拘束を解かれた二人の子供は、ただ呆然と立ち尽くしていた。自由という概念を知らない彼らは、動くことさえ忘れていたのだ。
その時、凍りついた二人の時間の隙間に、春の風のような声が吹き込んだ。
『逃げなさい』
リリアーナは、二人の耳元に唇を寄せ、魂を込めて囁いた。
『あなたたちは、誰かの代わりなんかじゃない。道具でもない。……手を取り合って、太陽の下で生きるのよ』
その声は、絶対的なカミの命令ではなかった。 かつて彼らが夢見たかもしれない、母のような、あるいは優しい姉のような、温かい慈愛に満ちた響きだった。
零号の瞳に、微かな光が宿る。 彼は、震える自分の手を見つめ、そして隣にいる103号を見た。彼女もまた、怯えと、微かな期待を含んだ瞳で彼を見返していた。
論理的な正解(殺し合い)などない。あるのは、今、この手が自由であるという事実だけ。
零号は、震える103号の手を、ギュッと強く握りしめた。 その温もりが、彼らが「人間」であることを証明していた。
「行こう、カイ」
零号の声は震えていたが、そこには初めて自分の意志が宿っていた。
「俺たちは……生きるんだ」
「ああ……! ゼロ!」
二人は走り出した。 崩壊するシステムのスパークが火花を散らす中、怒号を上げる大人たちの脇をすり抜け、誰も殺すことなく、全速力で。 その足取りは、最初はもつれていたが、次第に力強くなり、重い鉄の扉の向こうにある**「外の世界」**へと向かっていった。
リリアーナは、その場に留まり、遠ざかっていく二人の小さな背中を見送った。 地下の闇から、地上へと続く階段の光の中へ、二つの影が溶けていく。
涙が、リリアーナの頬を伝った。 これで、彼が「リリアーナの執事セバスチャン」になる未来は消えた。彼は、名もなき少年として、カイと共に過酷だが自由な人生を歩むだろう。二度と会うことはないかもしれない。
それでも。
「よかった……。セバスチャン、カイ」
リリアーナは、誰もいない空間で、愛おしそうに微笑んだ。
「あなたたちの友情は、ここで永遠になる。もう、悲しい別れは来ないわ。……幸せにね」
歴史の修正が確定し、リリアーナの意識は光に包まれた。彼女は、安堵の涙と共に、次の悲劇を止めるため、時の奔流へと再び身を投じた。




