170話 外伝:混沌のルーツ (5) - 羽の記憶
偽りの施しと悪意の優越
千代は、川岸に佇む鶴から運命的な導きを感じ、長屋へと戻る道すがら、遊女時代の小袖との会話を鮮明に思い出した。
小袖は、千代の部屋に来て、袖を引っ張りながら、ぶりっ子風の、甘えた声で尋ねた。その声の裏には、隠しきれない優越感と冷たい悪意が滲んでいた。
「千代さん、その綺麗な着物、どこで買ったんですか?小袖、ああいうの、すごーく羨ましいなぁ…」
千代が着ていたのは、上等の着物だった。
「これは、客からもらったものだよ」
小袖は、わざとらしく目を丸くし、千代の美しい顔と、その着物を交互に見た。
「まぁ、千代さん!そんなに、お顔が綺麗なのに、羽織りも着てなくて寒くないんですか?もったいないわぁ。まるで、貧しい子供が上等な花を飾ってるみたい」
小袖は、千代の孤独な境遇をさりげなく突き、自身の家族と技術を自慢した。
「でも、千代さんって、お母様やお父様がいないから、こういう特別な技術のこと、ご存知ないですよね?小袖はね、お父さんが昔、すごーく珍しい技法で、鳥の羽を着物に変える織物職人だったの!だから、千代さんの着物を見たら、なんだか懐かしくなっちゃって…」
小袖はそう言ってから、顔を少し伏せ、優越感に満ちた密やかな声で続けた。
「あのね、お父さんが言ってたの。小袖も、そのお父さんの秘密の技、使えるようになったのよ?千代さん。あなたみたいに、着るものに困ってる人を見てると、なんだか胸が痛むの。だから、その着物に合う、ふわふわの羽織りを作ってあげるわ。小袖の優しさよ?ふふっ、作ってあげるのは、小袖なのよ」
小袖は、その言葉を告げた後、自分の部屋に戻った。彼女は、遊郭で不要になった古い布団から、丁寧に羽だけを取り出し、それを独自の技法で加工し始めた。彼女の顔には、千代に**「施し」を与えることへの、満足そうな笑みが浮かんでいた。数日後、小袖はその羽織り**を、千代の部屋の前に、置き手紙もなくそっと置いていった。
千代が今着ている、袖を通すたびに微かに柔らかい羽の感触がある上等の着物。それは、秋人が去る直前に、彼女に贈ったものだったが、実は小袖の悪意ある優越感と技術が込められたものだった。小袖は、千代の孤独な劣等感を突き、自分の優位性を示すために、先回りして施しをしていたのだ。
千代は、全身に嫌悪感を覚えた。この服は、愛と優しさという最も美しい言葉で偽装された、憎悪の証だ。
「すぐにでも脱ぎ捨てて、燃やしてしまいたい…!」
千代は、着物の袖を強く握りしめた。
鶴の誘い
その時、川岸にいた一羽の鶴だけでなく、さらに数羽の鶴が、千代の周りに集まってきた。彼女の着物から発せられる微かな羽の匂いに、仲間だと認識したようだった。
「近寄るんやない!」
千代は、彼らを遠ざけようと足を動かしたが、鶴たちは臆することなく、手に触れることができるほどの間近までやってきた。逃げない彼らを見て、千代は仕方なく、一番近くにいた鶴の背中を、そっとなでた。
その羽の感触は、驚くほど柔らかく、心地よい温もりを持っていた。まるで、この世界で失ってしまった純粋な感情を、微かに取り戻せるような感触だった。
「この羽…」
千代の頭に、新たな合理的思考が閃いた。
(この羽で、あの着物と同じように織物を作れるのなら…!これは、身体を売らずに金銭を得る、予測不能な道筋ではないか!)
千代は、鶴たちが持つ、この美しく貴重な素材が、彼女の窮乏した運命を打ち破る道具となり得ると直感した。
千代は、鶴たちが自然に落とした羽を、感謝の念を込めて拾い集めた。それは、遊郭で身につけた演技ではなく、彼女の魂が、鶴という清らかな存在に敬意を払った、真実の行動だった。
「あんたらのおかげや。この金銭と、この憎しみを、この場所から連れ出してやる」




